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壱岐国続風土記
(原文解説)

石田郡武生水邑 
共ニ七巻 



寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)

壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす



指導校正 山西 實     

原文解説 松崎靖男     

編集協力 吉永 清     










壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑 (村) 第十
 仏擱 (仏閣)


如意山華光寺     深田村
如意山華光寺 (にょいざんけこうじ)    深田村

本尊木體釈迦如来坐像長壱尺二寸五分
本尊は木体の釈迦如来の坐像で長 (たけ) 壱尺二寸五分(約38cm)

脇士文殊菩薩普賢菩薩各坐像長七寸
脇士(わきじ)は文殊菩薩と普賢菩薩の各坐像で長七寸(約21cm)

大権達磨各衣垂長壱尺二寸
大権大師(だいごんだいし)と達磨大師(だるまだいし)
各衣垂(ころもたけ)は長壱尺二寸(約36cm)

方丈本尊阿弥陀如来立像長一尺五寸
方丈(住職の居室)の本尊は阿弥陀如来の立像で長一尺五寸(約45cm)

七観音内四躯立像長三寸四分
七観音の内、四躯は立像(りゅうぞう)で長三寸四分(約10cm)

内二画像ファイル坐像長貳寸三分
内、二躯は坐像(ざぞう)で長二寸三分(約7cm)

十一面如意輪 同一躯立像長三寸五分
十一面如意輪観音 同じく一躯あり、立像で長三寸五分(約10cm)

準胝 廿八部衆各立像長壱寸四分
准胝 (じゅんでい) 観音 廿八部衆の各立像が長壱寸四分(約4cm)

以上運慶作石門不見之
以上は運慶(平安末期から鎌倉初期の仏師)の作で、現住職の石門は之を見ず

辮才天坐像長貳寸八分 定朝作
弁財天の坐像は、長が二寸八分(約8cm) 定朝(平安中期の仏師)の作

大黒天立像長七寸4分 
大黒天の立像は長が七寸四分(約22cm)あり。

但自俵至ニ頂弘法一刀三礼作
但し俵より頂に至る。この大黒天の立像は、弘法大師が一刀三礼(いっとうさんらい
・仏像を彫刻するときに、一刻みするごとに三度礼拝すること)
して作っ た。


多聞天立像長二寸
多聞天は立像(りゅうぞう)で長二寸(約6cm)

衆寮本尊鋳物釈迦衣垂長六寸五分
衆寮(しゅうりょう・身分の低い僧のために設けられた寮舎)の本尊は
鋳物(いもの)の釈迦で衣垂(ころもたけ)が長六寸五分(約20c m)


順禮十四番札所六臂如意輪観音坐像長四寸貳分
巡礼十四番札所の六臂如意輪観音坐像は長(たけ)四寸二分(約13cm)



大方丈 巳午向   茅葺
大方丈は巳午向(165度)で茅葺き   
  梁行五間半但椽五尺 桁行七間五尺
  梁行は五間半(約10m)但し椽(たるき)五尺(約1.5m)
  桁行は七間五尺(約14m)


廊下 同向   茅葺
廊下は大方丈と同じ向きで茅葺き
  梁行壱間半桁行四間二尺左右各四尺附瓦葺 
  梁行は壱間半(約2.7m)、桁行は四間二尺(約7.9m)あり、
  左右は各四尺(約1.2m)附の瓦葺き


  中梁行壱間半桁行三間茅葺
  中梁行は壱間半(約2.7m)、桁行は三間(約5.5m)茅葺き


小方丈 南向   瓦葺
小方丈は南(180度)向で瓦葺き
  梁行二間ニ尺桁行四間但加椽
  梁行は二間二尺(約4.2m)、桁行は四間(約7.2m)但し加え椽(くわえたるき)


庫裡 西向   茅葺
庫裡(くり)は西(270度)向で茅葺き
   梁行四間桁行七間半 庇壱間ニ三間半瓦葺
   梁行は四間(約7.2m)、桁行は七間半(約14m)
   庇(ひさし)は壱間(約1.8m)と三間半(約6.3m)で瓦葺き


衆寮(しゅうりょう) 東向   茅葺
衆寮(身分の低い僧のために設けられた寮舎)は東(90度)向で茅葺き
   梁行二間桁行三間庇二間三尺
   梁行は二間(約3.6m)、桁行は三間(約5.5m)、庇は二間三尺(約4.5m)


   外(ほか)押入仏壇二尺五寸ニ二間但瓦様
   他(ほか)に押入仏壇が二尺五寸(約75cm)と二間(約3.6m)
   但し瓦様(屋根付の仏壇で、その屋根が瓦葺きの様だとの意味か?)


観音堂 辰巳向   茅葺
観音堂は辰巳(南東・135度)向で茅葺き
   梁行二間半桁行二間半
   梁行は二間半(約4.5m)、桁行は二間半(約4.5m)


亭 亥子向   茅葺
(あずまや)は亥子(345度)向で茅葺き
   梁行三間桁行四間
   梁行は三間(約5.5m)、桁行は四間(約7.3m)

   椽周四方庇壱間ニ二間瓦葺
   椽周(たるきまわり)は四方庇(ひさし)、一間と二間で瓦葺き


輪蔵
輪蔵(りんぞう・経蔵に設置した、一切経用の回転書架)
   梁行壱間半桁行壱間半
   梁行は壱間半(約2.7m)、桁行は壱間半(約2.7m)


土蔵 亥子向   瓦葺
土蔵は亥子(345度)向で瓦葺き
   梁行二間桁行二間
   梁行は二間(約3.6m)、桁行は二間(約3.6m)


馬櫪 南向   茅葺
馬櫪(ばれき・飼い葉桶、転じて馬小屋) は南向(180度)で茅葺き
   梁行二間桁行三間
   梁行は二間(約3.6m)、桁行は三間(約5.5m)


鐘楼門 巳午向   瓦様茅葺
鐘楼門(しょうろうもん)は巳午(165度)向で瓦様茅葺き
   梁行七尺桁行八尺
   梁行は七尺(約2.1m)、桁行は八尺(約2.4m)


石階(せっかい) 二段
石の階段は二段階
   上段三十四階竪六間半横壱間休平地二間四尺
   上の階段は三十四段、竪の長さ六間半(約12m)横壱間(約1.8m)
   途中の休み場の平地は二間四尺(約4.8m)


   下段十八階竪三間横壱間半
   下の階段は十八段、竪の長さ三間(約5.5m)横壱間半(約2.7m)


  石橋     一基
   去石階二間傍有井泉(せいせん)
   石の階段を去ること二間(約3.6m)、傍ら(かたわら)に井戸がある。

   去本堂後南四十九間
   石橋は本堂の後を去ること南に四十九間(約89m)


境内十四町三十三間
境内は十四町三十三間(約1,590m)
   内寺地 東西四十間向自石橋至首塚一本松百二十間
   その中に寺地は、東西に四十間(約73m)
   石橋より首塚一本松に至る百二十間(約218m)


   南北四十九間半自本堂後至石橋
   南北に四十九間半(約90m)本堂の後より石橋
至る
   同山
   同墓所


寺産高十石
寺領の生産高は十石     




當寺ハ一州曹洞宗兩本寺の随一也
当寺は壱岐の曹洞宗両本寺(華光寺・竜蔵寺)の随一なり。 

壱岐梵刹帳云武生水村深田如意山華光寺本尊木躰釈迦坐像壱尺貳寸三分
壱岐梵刹帳(ぼんさつちょう)の記述に、武生水村深田如意山(にょいさん)
華光寺(けこうじ)、本尊は木体の釈迦坐像で一尺二寸三分(約37cm)


並脇立文殊普賢各々六寸七分
並びに脇立(わきだち)は文殊普賢各々六寸七分(約20cm)です。

同新帳云壱岐国石田郡物部庄武生水村深田如意山華渓院花光寺は
壱岐梵刹新帳の記述では壱岐国石田郡物部庄(ものべしょう)武生水村
深田如意山華渓院(かけいいん)花光寺(けこうじ)


肥前唐津の大守波多氏天祐貴公(てんゆうきこう)大居士草創なり
肥前唐津の大守である波多氏の天祐貴公大居士(波多宗無?・永仁元年、1293年
亀ノ尾城を築城)
の草創なり。


慈母華渓院妙春大姉(みょうしゅんだいし)正安三年辛丑二月廿七日逝去
慈母の華渓院妙春大姉は正安三年(1301年)辛丑(かのとうし)二月二十七日逝去

生縁對州宗氏の息女なり父母見参のため渡海通舩の砌
生まれは対馬の宗氏の息女なり。父母に会うため対馬への渡航のおり

沖中にて俄に病患沖の大島大泊に舩かかりす
沖中にて俄に病を患い、沖の大島大泊(壱岐渡良大島の港)に係船 す。

病悩頻なりよって本居浦に舩を漕入仏神三宝を誓ひ
病悩(びょうのう・病気になって苦しむこと)が頻繁となり、本居浦(壱岐郷ノ浦町)
船を漕ぎ入れて神仏三宝に病気平癒の願掛けを行い、


醫術百計を尽といへともさらに其験(しるし)もなき処に
様々な医療を尽くしたが、これといった効果も無い処に、

一朝化女(けじょ)壱人忽然彼妙春大姉の前に来り示して云
ある朝化女(仏・菩薩が仮に女人の姿となって現れたもの)が一人忽然
(こつぜん)と、かの妙春大姉の前に来てよくわかるように言いました。


汝故郷を思ふこと甚しこれより十餘町丑寅に山あり
「貴女が故郷を思うこと甚しい、これより十余町丑寅(北東・45度)に山あり。

是弥勒菩薩出世の時法を施し衆生を度益する霊地(れいち)なり
是は弥勒菩薩が世に現れる時、法を施し衆生(生命のあるものすべて。
特に、人間をいう)
を度益(とえき・役に立つことを渡す・授ける)する霊地なり。


(これ)にをいて大海を見る時ハ汝可父母九族眼前
にありといひをハってされり
その霊地から大海を見る時は汝の父母や九族が
目の前にあり」と言い終わって去りました。


人に告て其化女の跡を慕ひ見せしむるに今の妙見山にかくれて見へす
人に理由(わけ)を話して、その化女の跡を付けてもらったら、
今の妙見山に隠れて見えなくなりました。


其日妙春大姉我死せハ唐津對馬の見ゆる処に葬る遍しといって巳刻逝去なり
その日妙春大姉は「私が死んだら、唐津対馬の見える所に葬るべし」と
いって巳刻(午前9時から11時)逝去された。


其時唐津より覺叟大圓(かくそうだいえん)和上来りてこれを引導し
その時唐津より覚叟大円和上が来て引導し(死者を救済するため、導師が法語を説く事)

菩提所を建立し華渓院と号す則波多家の一族なり
菩提所を建立し華渓院と称する。この覚叟和上は波多家の一族です。




當国ハ異国本朝の岐街といひ格別の子細これあるの間天下泰平国家安全の祈祷
壱岐は、異国と我が国の岐街(きがい・区域の分かれ目・転じて国境との意味か)といい
特別の理由があるので、天下泰平国家安全の祈祷   
    

并公方施餓鬼次国守菩提等勤修せしめ
並びに公方施餓鬼(公方=将軍・対馬の万松院が徳川の歴代将軍を祭ったように、
将軍家をまつる行事が往時にはあったかも?)
次に国守の菩提等を勤修(ごんしゅう
・仏道を勤め修めること、修行)
させて、 
      

永扇(えいせん)宗門軌範怠堕(たいだ)なく寺法堅く相守遍きの旨掟せらる
宗門の軌範(きはん・模範、手本、道徳)を永く扇ぎ怠惰(たいだ
・なまけてだらしないこと)
なく寺法を固く守るべきことを定められる。   
    

其外国君掟記等これありといへとも兩度の炎上に失却せしめ
その他に国君掟記(こっくんじょうき)等があったと言うが 両度の炎上の為無くなり、      

或ハ佐川氏執権の節一覧のため借り申遍きとありこれを遣し戻らす
あるいは佐川氏が執権(鎌倉幕府の執権と違い、この場合一部地域の代理者・城代、郡代、
代官の意味)
の時、一覧のために借りたと言うがこれを戻さなかった。   
    

彼此證拠を失畢(うしないおわんぬ)然といへとも往時
だから彼此と証拠を失ってしまった。然(しか)しながら昔の        

由緒相続として印山道可大居士の御廟所當寺にあり命によって也
由緒を伝えるものとして、印山道可大居士(初代平戸藩主鎮信の父である隆信)の
御廟所が当寺にある。命によるものです。   
    

往時より国守の御廟所當境内に画像ファイル箇所あり
昔より国守の御廟所が当境内に数ヶ所あります。       

且天正文禄の秀吉公朝鮮陣の時異国本朝の舩掛大切の場とて
その他にも天正文禄の秀吉公朝鮮陣の時、異国と我が国の舩掛の
大事な場所として   
    

出陣の首途のため御祈祷阿り亦龜尾の館に華光寺の住僧番頭せしめ
出陣の首途(しゅと・旅立ち、門出)のため御祈祷があります。
また亀ノ尾の館に華光寺の住僧を番頭として   
    

諸宗の僧侶十二人つつ出勤して御祈祷勤行あり則宝幢庵宝積寺宿坊堂り
諸宗の僧侶を十二人づつ出勤させて御祈祷勤行(ごんぎょう)があった。
すなわち宝幢庵(ほうとうあん)と宝積寺(ほうせきじ)が宿舎でした。   
    

一云七ヶ年警固ハ六十以上の足軽賄夫丸荷越諸事召仕の者ハ無役の輩
一つに云う、七ヶ年の警固は六十才以上の足軽で賄い(用意する・充てる)
夫丸(ぶまる・人夫)や荷役(船荷の揚げ降ろし)の諸事に召し使う者は無役の輩で、   
    

補佐市念仏坊等也退陣以後諸宗出勤相止
市中の念仏坊等が補佐する。出征兵の退陣以後は諸宗の僧の出勤が止んだ。        




壱岐廻云華光寺ハ壱陽五ヶ本寺の一也山を如意と号し院を華渓と号す
壱岐廻(いきめぐり)に記述に、華光寺(曹洞宗)は、壱岐五ヶ本寺(他に安国寺・国分寺・
龍蔵寺・金蔵寺)
の一つです。山を如意と称し院を華渓と称する


元唐津大守波多天和(ママ)貴公大居士の建立のよし天祐公の慈母を
華渓妙春といふ正安三年辛巳(ママ)二月廿七日逝去なり
元唐津の大守である波多天祐貴公大居士(波多宗無?)の建立だそうです。天祐公の
慈母を華渓妙春といいます。正安三年(1301年)辛丑(かのとうし)二月二十七日逝去
された。


此大姉を華るゆえ院号を華渓とするよし山門の額ハ佐々木玄龍先生の筆なり
この大姉(だいし)を華(かざ)るゆえ院号を華渓としたそうです。山門の額は佐々木
玄龍先生の筆です


華渓院の御廟所寺山の中にあり一云秦三河守殿室ハ對馬大守の息女なり後室に
華渓院(妙春大姉)の御廟所は寺山の中にあります。一つに云う、波多三河守殿の
夫人は対馬大守の息女だと。後室(身分の高い人の未亡人)


ならせら連て對馬に見廻の時此壱州の沖にて病をこり醫療かなハず没故せり
になられて対馬に渡航の時この壱州の沖にて病が起こり医療のかいなく没せられた。

華光山に加くしまつりて法名を華渓妙春と申よし
華光山に葬りまつって、法名を華渓妙春と申すそうです。

華渓院の開山を覺叟大圓和尚といふ元徳二年の比遷化也
華渓院の開山を覚叟大円和尚と言い、元徳二年(1330年)の頃に遷化された。

一説にハ正安の比といふ其後長門国大寧寺よりも来りて住持することあり
一説には正安(1299〜1302年)の頃とも云う。その後、長門国大寧寺よりも住持が
来たりすることあった。   
    

一云武生水村深田如意山華光寺本尊釈迦如来長禅大和尚
一つに云う、武生水村深田如意山華光寺の本尊は
釈迦如来と長禅大和尚(華光寺の開山・長門国大寧寺より来る)   
  
  




 今案に正安三辛丑年ハ人皇九十二代後伏見院冶三年
 今案ずるに(考えるに)正安三(1301年) 辛丑(かのとうし)年は
 人皇九十二代後伏見院の冶政三年で、   
    

 寛保四甲午年に至り四百四拾四年
 寛保四(1744年)甲午(きのえうま)年に至り四百四十四年      

 元徳二庚午年ハ人皇九十五代後醍醐天皇冶十二年
 元徳二(1330年)庚午(かのえうま)年は
 人皇九十五代後醍醐天皇の冶政十二年で、  
     

 寛保四甲午年に至り四百十五年
 寛保四(1744年)甲午(きのえうま)年に至り四百十五年      

 壱州波多家領となるハ人皇百四代後土御門院冶八年
 壱岐が波多家の領地となるのは人皇百四代後土御門院の冶政八年で、        

 文明四壬辰年寛保四甲子に至り二百七十三年
 文明四(1472年)壬辰(みずのえたつ)年は、
 寛保四(1744年)甲午(きのえうま)年に至り二百七十三年   
 

 日高甲斐守源喜壱州を押領せしハ永禄七甲子年
 日高甲斐守源喜が壱岐を押領せしは永禄七(1564年)甲子(きのえね)   

 源喜壱州にひらきしハ永禄十二己巳年
 源喜壱州にひらいたのハ永禄十二己巳年(1569年・つちのとみ)        

 寛保四甲子年に至り百八十一年
 寛保四(1744年)甲午(きのえうま)年に至り百八十一年     

 浦海の合戦ハ元龜二年辛未七月二日
 浦海の合戦は元龜二年(1571年)辛未(かのとひつじ)七月二日 

 波多三河守源信時の後室猶存生那り
 波多三河守源信時の後室(身分の高い人の未亡人)はなお存命です。        

 是等を以て年序の齟齬を見る遍し
 是等を以って年序の齟齬(食い違うこと)を見るべし。        




天文十五年丙午波多源五郎源重の定書一通到来其文云
天文十五年(1546年)丙午(ひのえうま)波多源五郎源重の
定書(さだめがき・法令、規則)一通が到来しその文の記述に   
    

   定

當寺は一宗之本寺殊更従公儀諸事申来節は
当寺は一つの宗(曹洞宗)の本寺で、殊更(ことさら・さらにいっそう)
公儀(今度は幕府ではなく、公的な機関・波多家)に従い、諸事申し来る節は、   
    

自他宗獨庵迄無残所可被相触候
自他宗の独庵(小さな庵)迄残す所無く相触被(らる)可く候。    

若違背の僧侶は其本寺へ致内談糾明の上可令裁許者也
もし違反の僧侶は、その本寺へ内談致し糾明の上裁許せしむ可き者也        

       波多源五郎   重

     天文十五年(1546年)

       華光寺   禅室 (禅僧の居室・転じて、寺の住持)

天文二十年辛亥波多源五郎源重の触状あり其文云
天文二十年(1551年)辛亥(かのとい)波多源五郎源重の触状
(ふれじょう・触れ知らせる書状、回状)がありその文の記述に   
    

西国蜂起の由従唐津只今触来候ヶ様の砌ハ寺家の什物等盗取物ニて候条
西国蜂起(ほうき・動乱)の由(よし)唐津より只今触れ来り候。この様なおりは寺家の
什物(じゅうぶつ)等を盗み取るものにて候条   
    

在々獨庵迄致用心様早々可被相触候
在々独庵(宗派に属さない小さな庵)迄用心致す様、早々に相触られる可く候        

貴寺へは為寺番足軽者兩人宛五日替ニ申付候以上
貴寺へは寺番として足軽両人宛(づつ)五日替わりに申し付け候以上        

       波多源五郎   重

     天文廿年 (1551年)

       華光寺

永禄元年壬辰(ママ)十二月廿八日波多三河守源信時の下知状あり其文云
永禄元年(1558年)戊午(つちのえうま)十二月二十八日波多三河守源信時の
下知状あり其の文の記述に   
    

當寺は自往古諸宗門依軌範之役寺於諸寺院無断絶寺法可被申付者也
当寺は昔より諸宗門の軌範に依る役寺諸寺院に於いて寺法の断絶が
無いよう申し付けらる可き者也   
    

永禄元年 (1558年) 十二月廿八日   波多三河守

   華光寺

永禄十(ママ)年己巳二月十八日波多三河守の奉書到来其文云
永禄十二年(1569年)己巳(つちのとみ)二月十八日
波多三河守の奉書が到来す其の文の記述に   
    

今度貴寺建立付竹木夫丸之儀は不及申品々無異義
今度貴寺の建立に付き竹木(ちくぼく・材料)や夫丸(ぶまる・人夫)之儀は
申すに及ばず品々も異義無く(いぎなく・準備怠り無く)   
    

當役村々へ可申付旨三河守殿被仰越候条可被得其旨候
当役を村々へ申し付ける可き旨、三河守殿が仰せ越され候条其の旨を
得らる可く候   
    

自今以後加修理候か又ハ建立の節可為同前者也
今後、修理加え候か又は建立の節は同前(以前と同じ)(た)る可き者也

       波多壱岐

     永禄十年 (1567年) 二月十八日

       華光寺  禅室 (禅僧の居室・転じて、寺の住持)

同年十月廿八日山林田畑寄附の状あり其文云
同年(永禄十年・1567年)十月二十八日山林田畑の寄附状があり。其の文の記述に、   

當寺は依為一国唐津同前公方御施餓鬼并波多一族月忌日牌施餓鬼依令勤執
当寺は壱岐と唐津は同前(同じ)(た)るに依り、公方御施餓鬼(公方=将軍・
対馬の万松院が徳川の歴代将軍を祭ったように、将軍家をまつる行事が往時にはあったかも?)

並びに波多一族の月忌日(つきのきじつ)牌施餓鬼勤執(ごんしゅう・つとめとりおこなう)
令(せしむる)に依り
        

寺内山林田畑免許并於近村田地貳町二反永寄附全可令収納者也
寺内の山林田畑の免許並びに近村に於いて田地二町二反永寄附
(すべて)収納令可(せしむべき)者也   
    

永禄十年 (1567年) 十月廿八日波多三河守

     華光寺

 右波多家の書翰五通本紙なく皆以写紙なり殊に源信時ハ永禄の
 右波多家の書翰五通、本紙(本物)なく皆以(みなもって)写紙です。殊に源 
 信時は永禄(1558〜1570年)の 
  

 はしめつかた卒して永禄七年甲子十二月廿九日源喜
 始めの方で亡くなり、永禄七年(1564年)甲子(きのえね)十二月二十九日源喜が        

 源信時の後室を追拂上松浦及壱州を押領せし事印山記に詳なれハ
 源信時の後室を追い払い上松浦及び壱州を押領した事印山記(松浦印山道可隆信・
 初代平戸藩主鎮信の父)
に詳しく書いてあれば   
    

 写書吏のあやまりにや いふかし
 写書吏の誤りではないか。あやしい。        

 但し華光寺貳町二反の事ハ永禄田帳にのせたれハ相違なかる遍し
 但し華光寺の二町二反の事は、永禄田帳に載っているので相違ありません。         

 又田清帳に志原村川原田免の水田壱反壱畝六歩高三石四斗四升九合
 又、田清帳に志原村川原田免の水田一反一畝六歩、高三石四斗四升九合        

 池田村前田免水田二反廿五歩高七石三斗八升
 池田村前田免の水田二反二十五歩、高七石三斗八升        

 住吉村の水田四畝廿八歩高九斗壱升華光寺分と志るせり
 住吉村の水田四畝二十八歩、高九斗一升華光寺分と記してある。         




寛永十五年戊寅冬客殿建立あり故牧山次郎右衛門書状及僧大鐘が記あり
寛永十五年(1638年)戊寅(つちのえとら)冬に客殿の建立あり。故牧山
次郎右衛門の書状及び僧の大鐘が書き物あり。   
    

其文云
其の文の記述に       

 華光寺客殿御建立被仰出候次第
 華光寺の客殿御建立仰出被(おおせいだされ)候次第        

一間数九間七間但三方椽
一つ、間数九間七間但し三方椽(たるき)         

一竹木縄かや夫丸可申付事
一つ、竹木縄茅(材料)夫丸(ぶまる・人夫)申し付ける可き事 

一竹木縄かやの儀は村々軒画像ファイルにかけ出申筈の事可申候尤大工食焼小取可申付事
一つ、竹木縄茅の儀は、村々の軒数にかけ出(だし)申す筈の事申す可く候。
尤も大工食焼(めしやき・飯炊き)小取申し付ける可き事  
     

一材木は大工召連村々へ村廻り見立候而取寄可申候事
一つ、材木は大工を召連れ村々を廻り見立て候而(て)取り寄せ申し可く候事        

右の通明日出合可申談候平戸大工ニ而不足候ハ々爰許(ここもと)の大工可申付候
右の通り明日出合い申し談ず可く候。平戸大工だけで不足とあれば壱岐の大工にも申し付く可く候。

明日よりハ去年以来取置材料大工頭へ見分為致取寄可申候
明日よりは去年以来取り置きの材料を大工頭へ見せ為致(いたさせ)
取り寄せ申し可く候。   
    

先今日ハ被仰出候通被差図候様是亦大工頭へ可被申付候以上
先ず今日は被仰出(おおせいだされ)候通り、差図(さしず) 被(され)候様(よう)
是亦(これまた)大工頭へ申し付け被(らる)可く候以上 
 

   九月十一日 (寛永十五年・1638年)    牧山次郎右衛門

   吉木軍兵衛殿

追啓一昨日平戸御状其元へ遣申候通建立相済候迄
追啓(ついけい・追伸ほどの意味)一昨日平戸からの御状(ごじょう・他人を敬い
その手紙をいう)
其元へ遣わし申し候通り建立相済候迄(あいすみそうろうまで) 
 

役方兩人へ被仰付候通一昨日委細申達候故
役方両人へ仰付被候通(おおせつけられそうろうとうり)一昨日委細申し達し候故に、   

昨日より華光寺へ御出候由尤ニ存候以上
昨日より華光寺へ御出候由(おでかけそうろうよし)
尤に存じ候以上    
    

     牧山次郎右衛門
     吉木軍兵衛
     大工頭伊助
     小工十四人

   鎮信公御建立
   鎮信公(天祥公・平戸松浦藩4代藩主)御建立の事       




當寺は為当国の総本寺僧録所殊大守公菩提所且亦大守公御先祖
当寺は当国の総本寺僧録所(そうろく・禅宗寺院とその人事を管理した僧職)(た)り。
殊に大守公(平戸藩主)の菩提所且つ亦大守公の御先祖   
    

印山道可居士向當山三代能山和尚御遺言在是
印山道可居士(松浦隆信・初代平戸藩主鎮信の父)
当山三代能山和尚に向け御遺言これ在り。   
    

故応命奉称當寺再開基然故慶長四年松浦式部卿
故に命に応じ、当寺の再開基と称し奉る。
然故(しかるゆえ)慶長四年(1559年)松浦式部卿の
 

以御下知於當寺御墓所在 (これ)御位牌安置是
御下知を以って当寺に於いて御墓所これに在り、御位牌これに安置し        

毎年大施餓鬼并正月忌御斎在之 御建立本願主松浦肥前守鎮信公
毎年大施餓鬼並びに正月忌に御斎(おとき・法事のときに出す食事)これ在る事。
御建立本願主は松浦肥前守鎮信公   
    

大鐘謹奉祈念国家安全武運長久福寿無量者也
大鐘(華光寺六世住持)謹んで国家安全・武運長久・福寿無量を
祈念し奉る者也   
    

(に) 時寛永十五戊寅年
時に寛永十五 (1638年) 戊寅 (つちのえとら)

     華光寺

   十二月廿八日  大鐘叟記
   十二月二十八日 大鐘叟(そう・翁)これを記す        

   為念如件
   念の為、如件(くだんのごとく・普段のように)     

 右大鐘が當国総本寺僧録所としるせハあやまりなる遍し
 右大鐘(華光寺六世住持)が当国総本寺僧録所と記せりは誤りなる遍(べ)し。        

 若當国曹洞の本寺などしるさバ可(か)ならんか
 もし当国曹洞の本寺など記さば可ならんか(よろしいのではないか)。        

 現住石門云當寺ハ前代御取持の所なり
 現住持の石門が云う。当寺は前代御取持(おとりもち・世話、仲立ち)の所なり    

 故天祥公牧山次郎右衛門に命して客殿を建立し給う
 故に天祥公牧山次郎右衛門に命じて客殿を建立し給う。        

 萬宝住持たり其後関室代回禄ありて
 萬宝住持たり。其の後関室の代に回禄(かいろく・火災)ありて        

 又御建立あり しかれど中一年隔て亦回禄せり
 又御建立されたけれど中一年を隔て亦(また)回禄(かいろく・火災)せり        

 故に天祥院忿怒て捨置給う時
 故に天祥院忿怒(いかりおこり)て捨て置き給う時         

 末寺より相願建立していまた屋根をふ可ず
 末寺より相願て建立し、いまだ屋根を葺かず        

 然る所に前々の由緒を以って国中に命してこれを

 ふ可しめ給うにより以来葺替ハ国中の役となると
 葺かしめ給うにより、以来葺き替は国中の役となると        

 此説実否訂正するに及ハす今これを表出す
 此の説は実否訂正するに及ばす今これを表出す。        




寛永二十年癸未正月十一日當国守鎮信寺産十石寄附せらる其状云
寛永二十年(1643年) 癸未(みずのとひつじ)正月十一日、当国守鎮信(天祥公・平戸
松浦藩4代藩主)
寺産十石寄附される。其の状に云う。   
    

   知行

 拾石 (十石)  目録別紙有

 令扶助所永可領地者也仍如件
 扶助令(せしむる)所永く領地す可きもの也仍如件 (よってくだんのごとし)

 寛永貳十年 (1643年)

   正月十一日鎮信押字

     花光寺

延宝四年丙辰九月十一日国守源鎮信末寺附属の證状下し給ふ其文云
延宝四年(1676年)丙辰(ひのえたつ)九月十一日、国守源鎮信末寺附属の證状を
下し給ふ。其の文に云う。   
    


壱州
  如意山華光寺末寺
(むしょうず) 
武生水 長福寺 (ちょうふくじ) 同   宝樹庵 (ほうじゅあん)
同    宝積寺 (ほうせきじ) 同   龍洞軒 (りゅうどうけん)
同    喚心院 (かんしんいん) 同   江釣院 (こうちょういん)
同    安興寺 (あんこうじ) 同   鳳翔寺 (ほうしょうじ)
同    長徳寺 (ちょうとくじ) 同   林鐘庵 (りんしょうあん)
同    大御堂 (おおみどう) 同   宝俊軒 (ほうしゅんけん)
同    平山寺 (へいざんじ) 同   長松院 (ちょうしょういん)
同    寿福寺 (じゅふくじ) 同   宝幢庵 (ほうとうあん)


(わたら) 
渡良   江画像ファイル (こうりょうけん) 渡良   西福寺 (さいふくじ)
 同    江上寺 (こうじょうじ)  同    願成寺 (がんせいじ)
 同    慈雲庵 (じうんあん)  同    西光寺 (さいこうじ)
 同    東獄院 (とうがくいん)  同    圓通院 (えんつういん)


(なかどおり) 
中通  金谷寺 (きんこくじ) 同   薬城寺 (やくじょうじ)
同   法雲寺 (ほううんじ) 同   瑞石寺 (ずいせきじ)
同   雲秀院 (うんしゅういん) 同   宗音院 (そうおんいん)
同   西光寺 (さいこうじ) 同   善徳寺 (ぜんとくじ)
中通  瑞石寺 (ずいせきじ) 同   昌巌寺 (しょうがんじ)
同   珠覚院 (しゅかくいん)


(はんせい)
半城  長福寺 (ちょうふくじ) 同   松岩寺 (しょうがんじ)


(ながみね) 
長峯  古渓寺 (こけいじ) 同   玉泉寺 (ぎょくせんじ)
同   高源院 (こうげんいん) 同   慶福院 (けいふくいん)
同   珠覚院 (しゅかくいん)


(たていし) 
立石 覚音寺 (がくおんじ) 同   安楽寺 (あんらくじ)
同   源長寺 (げんちょうじ) 同   寿慶庵 (じゅけいあん)
同   醫王院 (いおういん) 同   湯温院 (ゆおんいん)
同   龍谷院 (りゅうこくいん) 同   西来軒 (さいらいけん)
同   妙喜庵 (みょうきあん) 同   観世院 (かんぜいん)
同   法林庵 (ほうりんあん)


(すみよし) 
住吉  龍養寺 (りゅうようじ) 同   宝泉庵 (ほうせんあん)
同   自徳庵 (じとくあん) 同   撫龍庵 (ぶりゅうあん)


(しはら) 
志原  不動堂 (ふどうどう) 同   圓光寺 (えんこうじ)
同   孝徳庵 (こうとくあん) 同   玉種庵 (ぎょくしゅあん)
同   福泉庵 (ふくせんあん) 同   源覚院 (げんかくいん)
同   萬鐘院 (ばんしょういん)


(はつやま) 
初山  南明寺 (なんみょうじ) 同   永林寺 (えいりんじ)
同   宝泉軒 (ほうせんけん) 同   竜雲寺 (りゅううんじ)



右寺画像ファイル可為華光寺末寺従公儀被仰出之趣堅相守於末々違背無之様可被申付者也
右寺の数、華光寺の末寺為(た)る可く、公儀従(より) 被仰出(おおせいださるる)
(おもむき)堅相守於(かたくあいまもるり) 末々(すえずえ)違背無之様
(いはいこれなきよう)可被申付(もうしつけらるべき)者也 
  

   松浦肥前守

 延宝四丙辰年 (1676年・ひのえたつ) 九月十一日 鎮信 (天祥公・平戸松浦藩4代藩主) 押字

   華光寺




貞享元年甲子八月鐘楼門を立て華鯨をかく其銘云
貞享元年(1684年)甲子(きのえね)八月、鐘楼門を 立て華鯨(梵鐘)をかく。
其の銘に云う。   
    

扶桑西海路壱陽石田郡物部郷如意山華光寺禅寺者長門大寧寺附庸而且亦副僧録也
扶桑(日本の異称)西海路(西海道) 壱陽(壱岐の異称)石田郡物部郷(ものべごう)如意山
華光寺禅寺は長門大寧寺の附庸(この場合、本寺に従属して、その命令に従う末寺)にて、
(かつ)亦、副僧録(そうろく・禅宗寺院とその人事を管理した僧職)
   

集衆報貶無法器也既久矣今慈門末龍雲寺鐵心叟捨衣鉢餘長兼一派寺庵
(人々)を集めて報貶し(人を貶めるようなことを報じる?・褒貶=ほめることとけなすこと・
デマを流すこと?)
法器(仏法を受け入れる素質)無し也。既に久矣。今、慈門末、
龍雲寺の鉄心叟、衣鉢を捨て餘長(以来長らく)一派の寺庵を兼ね、 
      

遠近士民抽丹悃醫師伯南捨生像新鋳法鐘以補闕典矣
遠近の士民は丹悃を抽んでる。医師伯南、生像を捨て新しく法鐘を鋳り、以って
闕典(規則・規定などが不完全なこと)を補う矣。 
    

  夫鐘之為用也百八聲中人天證入圓通三昧鬼畜脱出倒懸諸苦鳴呼大矣成
  夫(それ)鐘の用為るや百八聲の中に、人と天 円通 (えんつう・真理を悟る智慧その作用は
  自在であるこ と)
三昧に入る證。鬼畜は倒懸(とうけん・手足を縛ってさかさまにつるすこと。
  また、非常な苦しみのたとえ)
諸苦(しょく・諸々の苦しみ)を脱出す。 鳴呼(ああ・感嘆詞)
  大(だい)成る矣。
        

其徳也於是為之銘
其の徳や是に於いて銘と為す。        

銘に云う。
華鯨出画像ファイル (かげいしゅっこう)  哮吼偏傳 (こうくへんでん)
龍宮振蟄 (りゅうぐうしんちつ) 蚌臺覚眠 (ほうだいかくみん)
蒼浪千里 (せいろうせんり) 遠落客舩 (えんらくきゃくふね)
画像ファイル崖一島 (けんがいいっとう) 近濕法筵 (きんしつほうえん)
怠者以業 (たいしゃいぎょう) 後者以前 (こうしゃいぜん)
鴻音無尽 (こうおんむじん) 萬々斯年 (まんまんきねん)



貞享元龍舎甲子仲秋如意珠日住山嗣祖比丘獨外大秀叟代
貞享元(1684年)龍舎(龍雲寺?) 甲子(きのえね)仲秋(陰暦8月の異称)
如意珠日住山嗣祖比丘獨外大秀叟代    
    

主縁  龍雲寺鉄心叟 (てつしんそう)
方庵伯南居士 (ほうあんはくなんこじ) 岫峯西雲居士 (しゅうほうせいうんこじ)
本室妙源信女 (ほんしつみょうげんしんにょ) 紅顔妙雪信女 (こうがんみょうせつしんにょ)
秋岩智勝大姉 (しゅうがんちしょうだいし) 覚縁妙了大姉 (かくえんみょうりょうだいし)
金室妙剛信女 (きんしつみょうこうしんにょ) 仲因了冬信女 (ちゅういんりょうとうしんにょ)
則天妙省信女 (そくてんみょうしょうしんにょ) 紫間妙雲信女 (しかんみょううんしんにょ)
奇峰浄大信士 (きほうじょうだいしんじ) 畢空萬了首座 (ひつくうまんりょうしゅそ)


運載舩主     布屋三右衛門

大工 長門府中  小倉屋長崎十三郎藤原林次

小工          長崎九左衛門藤原吉貞

 右此鐘下関石屋五郎左衛門以三判鋳之
 右記の此の鐘は、下関石屋五郎左衛門 三判を以って之を鋳る。        

元禄九年丙子正月廿六日享保七年壬寅四月朔日寺産寄附の證状を賜ハる
元禄九年(1696年)丙子(ひのえね)正月二十六日 享保七年(1722年)
壬寅(みずのえとら)四月朔日寺産寄附の證状を賜わる   
    

 其文云
 其の文に云う。      

當寺領高十石之事任寛永二十年正月十一日先判之旨永寄附之訖者
当寺領高十石之事、寛永二十年(1643年)正月十一日先判の旨に任せ、
之を永く寄附し訖者(おわるといえり)。   
    

一宗軌範無違失可勵精誠之状如件
一宗の軌範(きはん・模範、手本、道徳)違失無く可し、
精誠(せいせい・純粋な誠実さ)に励むべきの状、如件(くだいんのごとく)
    

元禄九年 (1696年) 正月廿六日 任 (平戸松浦藩5代藩主・棟の前名) 押字

     壱岐国  華光寺

當寺領高十石之事任寛永廿年正月十一日元禄九年正月廿六日両先判之旨
当寺領高十石の事、寛永二十年(1643年) 正月十一日元禄九年(1696年)正月二十六日両先判の旨に任せ、    

永寄附之訖者仏法紹隆一宗軌範宜莫怠慢之状如件
永く寄附し之を訖者(おわるといえり)。仏法紹隆(しょうりゅう・先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること)
一宗軌範、宜しく怠慢することが莫之(ないようにとの)状、如件。   
    

享保七年 (1722年) 四月朔日 篤信 (平戸松浦藩6代藩主) 押字

    壱岐国  華光寺




   
































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