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壱岐国続風土記
(読み下し)


石田郡武生水邑 
共ニ七巻 



寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)


壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす




指導校正  山西 實     
読み下し 松崎靖男     
編集協力  吉永 清     




壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑村 第十
 仏閣


 如意山華光寺(にょいざんけこうじ)   深田村
本尊は木体の釈迦如来の坐像で、高さ壱尺二寸五分(約37.8cm)、 脇士(わきし)
は文殊菩薩と普賢菩薩の各坐像で高さ七寸(約21.2cm)
大権(だいごん)大師と達磨大師の各衣垂 (ころもたけ)の長さ壱尺二寸(約36.3cm)
方丈(住職の居室)の本尊は阿弥陀如来の立像で高さ一尺五寸(約45.4cm)
七観音、その内の四体は立像(りゅうぞう)で高さ三寸四分(約10.3cm)、その内
二体は坐像(ざぞう)で高さ二寸三分(約6.9cm)十一面観音と如意輪観音
残り一体あり、立像で高さ三寸五分(約10.6cm)准胝(じゅんでい)観音
二十八部衆(*注1)の各立像が、高さ壱寸四分(約4.2cm)
以上は運慶(*注2)の作と云われるが、現住職の石門は之を見たことがない。

弁財天の坐像は、高さが二寸八分(約8.4cm)。 定朝(*注3)の作
大黒天の立像は高さが七寸四分(約22.4cm)。但し俵より頂に至る。
この大黒天の立像は、弘法大師が一刀三礼(*注4)して作ったと云われる。
多聞天は立像(りゅうぞう)で高さが二寸(約6.0cm)
衆寮(*注5)の本尊は鋳物(いもの)の釈迦で衣垂の長さ六寸五分(約19.6cm)
巡礼十四番札所の六臂如意輪観音坐像は高さが四寸二分(約12.7cm)
注1・二十八部衆(にじゅうはちぶ‐しゅう・千手観音の眷属である、28人の善神。)
注2・運慶(うんけい・平安末期から鎌倉初期にかけての仏師で、鎌倉新様式を築いた。)
注3・定朝(じょうちょう・平安中期の仏師で、優美な様式は定朝様とよばれ、仏像彫刻の規範とされた。)
注4・一刀三礼(いっとうさんらい・仏像を彫刻するときに、一刻みするごとに三度礼拝すること)
注5・衆寮(しゅうりょう・身分の低い僧のために設けられた寮舎)


大方丈は巳午向(165度)で茅葺き
  梁行は五間半(約9.9m)但し椽(たるき)五尺(約1.5m) 桁行は七間五尺(約14.2m)

廊下は大方丈と同じ向きで茅葺き
  梁行は壱間半(約2.7m)、桁行は四間二尺(約7.9m)あり、
  左右は各四尺(約1.2m)附瓦葺き中梁行は壱間半(約2.7m)
                           桁行は三間(約5.5m)茅葺き
小方丈は南(180度)向で瓦葺き
  梁行は二間二尺(約4.2m)、桁行は四間(約7.2m) 但し加え椽(くわえたるき)

庫裡(くり)は西(270度)向で茅葺き
  梁行は四間(約7.2m)、桁行は七間半(約13.6m)
  庇は壱間(約1.8m)と三間半(約6.3m)で瓦葺き

衆寮(*注1)は東(90度)向で茅葺き
   梁行は二間(約3.6m)、桁行は三間(約5.5m)、庇は二間三尺(約4.5m)
   他(ほか)に押入仏壇が二尺五寸(約75cm)と二間(約3.6m) 但し瓦様(*注2)

観音堂は辰巳(南東・135度)向で茅葺き
   梁行は二間半(約4.5m)、桁行は二間半(約4.5m)

(あずまや)は亥子(345度)向で茅葺き
   梁行は三間(約5.5m)、桁行は四間(約7.3m)
   椽周(たるきまわり)は四方庇(ひさし)、一間と二間で瓦葺き

輪蔵(*注3)
   梁行は壱間半(約2.7m)、桁行は壱間半(約2.7m)
土蔵は亥子(345度)向で瓦葺き
   梁行は二間(約3.6m)、桁行は二間(約3.6m)

馬櫪(*注4)は南向(180度)で茅葺き
   梁行は二間(約3.6m)、桁行は三間(約5.5m)

鐘楼門(しょうろうもん)は巳午(165度)向で瓦様茅葺き
   梁行は七尺(約2.1m)、桁行は八尺(約2.4m)

石の階段は二段階で、
  上の階段は三十四段、竪の長さ六間半(約11.8m)横壱間(約1.8m)
途中の休み場の平地は、   二間四尺(約4.8m)
  下の階段は十八段、竪の長さ三間(約5.5m)横壱間半(約2.7m)

石橋   一基
  石の階段を去ること二間(約3.6m)、傍ら(かたわら)に井戸がある。
  石橋は本堂の後を去ること南に四十九間(約89m)

境内は十四町三十三間(約1,590m)
  その中に寺地は東西に四十間(約73m)、石橋より首塚一本松に至る百二十間(約218m)
  南北に四十九間半(約90m)本堂の後より石橋至る。

同山 同墓所  寺領の高は十石

注1・衆寮(しゅうりょう・身分の低い僧のために設けられた寮舎)
注2・瓦様(かわらよう・屋根付の仏壇で、その屋根が瓦葺きの様だとの意味か?)
注3・輪蔵(りんぞう・経蔵に設置した、一切経用の回転書架)
注4・馬櫪(ばれき・飼い葉桶、転じて馬小屋)


当寺は壱岐の曹洞宗両本寺(華光寺・竜蔵寺)の随一です。
壱岐梵刹帳(ぼんさつちょう)の記述に、武生水村深田如意山(にょいさん)華光寺の
本尊は木体の釈迦坐像で一尺二寸三分(約37.2cm)、 並びに脇立(わきだち)は文殊・
普賢で各々六寸七分(約20.3cm)です。
壱岐梵刹新帳の記述では、壱岐国石田郡物部庄(ものべしょう)武生水村深田如
意山華渓院(かけいいん)花光寺(けこうじ)は、肥前唐津の大守である波多氏の天
祐貴公大居士(*注1)の草創です。
慈母の華渓院妙春大姉(みょうしゅんだいし)は 正安三年(1301年)辛丑(かのとうし)
二月二十七日に逝去されました。
生まれは対馬の宗氏の息女です。父母に会うため対馬への渡航のおり、沖中
にて俄に病を患い、沖の大島大泊(*注2)に係船する。
病で苦しむことが頻繁となり、本居浦(壱岐郷ノ浦町)に船を漕ぎ入れて神仏三
宝に病気平癒の願掛けを行い、様々な医療を尽くしたが、これといった効果
も無い処に、ある朝化女(*注3)が一人忽然(こつぜん)と、かの妙春大姉の前に
来てよくわかるように言いました。
「貴女が故郷を思うこと甚だしい、これより十余町(1Km余)丑寅(北東・45度)
山がある。是は弥勒菩薩が世に現れる時、法を施し衆生(*注4)を救済する為の霊
地です。その霊地から大海を見る時は、貴女の父母や九族が目の前にあり」と
言い終わって去りました。
人に理由(わけ)を話して、その化女の跡を付けてもらったら、今の妙見山に
隠れて見えなくなりました。その日 妙春大姉は「私が死んだら、唐津対馬の
見える所に葬るべし」といって巳刻(午前9時から11時の間)逝去されました。
その時、唐津より覚叟大円和上が来て引導し(*注5)、菩提所を建立し華渓院と
称しました。この覚叟和上は波多家の一族です。
注1・天祐貴公大居士(てんゆうきこう だいこじ・波多宗無?・永仁元年、1293年亀ノ尾城を築城)
注2・沖の大島大泊(壱岐渡良大島の港)
注3・化女(けじょ・仏、菩薩が仮に女人の姿となって現れたもの)
注4・衆生(しゅじょう・生命のあるものすべて。特に、人間をいう)
注5・引導(いんどう・死者を救済するため、葬儀のとき導師が法語を説く事)


壱岐は、異国と我が国の岐街(*注1)といい格別の理由があるので、天下泰平
国家安全の祈祷並びに公方施餓鬼(*注2)、次に国守の菩提等を勤修(*注3)させ
て、宗門の軌範(*注4)を永く扇ぎ、怠惰(*注5)なく寺法を固く守るべきことを
定められる。
その他に国君掟記(こっくんじょうき)等があったと言うが、両度の炎上の為無く
なり、あるいは佐川氏が執権(*注6)の時、一覧のために借りたと言うがこれを戻
さなかった。だから彼此と証拠を失ってしまった。
然しながら昔の由緒を伝えるものとして、印山道可大居士(*注7)の御廟所が当
寺にあり、命によるものです。昔より国守の御廟所が当境内に数ヶ所あります。
その他にも天正・文禄の秀吉公朝鮮ノ陣の時、異国と我が国の舩掛の大事な
場所として、出陣の門出のため御祈祷があります。
また亀ノ尾の館に華光寺の住僧を番頭として、諸宗の僧侶を十二人づつ出勤
させて御祈祷勤行(ごんぎょう)があった。すなわち宝幢庵(ほうとうあん)と宝積寺
(ほうせきじ)が宿舎でした。
一つの説として、七ヶ年(文禄・慶長ノ役の期間)の警固は六十才以上の足軽を充
て、人夫や荷役の諸事に召し使う者は無役の輩で、市中の念仏坊等が補佐をする。
文禄・慶長ノ役の退陣以後は、諸宗の僧が亀ノ尾の館に出勤することが止んだ。
注1・岐街(きがい・区域の分かれ目・転じて、この場合は国境との意味か)
注2・公方施餓鬼(公方=将軍・対馬の万松院が徳川の歴代将軍を祭ったように、
   将軍家をまつる行事が往時にはあったかも?)
注3・勤修(ごんしゅう・仏道を勤め修めること、修行)
注4・軌範(きはん・模範、手本、道徳)
注5・怠惰(たいだ・なまけてだらしないこと)
注6・執権(鎌倉幕府の執権と違い、この場合一部地域の代理者・城代、郡代、代官の意味)
注7・印山道可大居士(初代平戸藩主鎮信の父である隆信)


壱岐廻(いきめぐり)の記述では、華光寺(曹洞宗)は、 壱岐五ヶ本寺(*注1)の一
つです。山を如意と称し院を華渓と称する。元唐津の大守である波多天祐貴公
大居士(波多宗無?)の建立だそうです。天祐公の慈母を華渓妙春といいます。
華渓院妙春大姉は正安三年(1301年)辛丑(かのとうし)二月二十七日逝去されま
した。この大姉を華(かざ)るゆえ院号を華渓としたそうです。
山門の額は佐々木玄龍先生の筆です。華渓院(妙春大姉)の御廟所は寺山の中に
あります。
一つの説として、波多三河守殿の夫人は対馬大守の息女だと。
後室(*注2)になられて、父母に会うため対馬へ渡航の時、この壱州の沖にて病
が起こり医療のかいなく没せられた。華光山に葬りまつって、法名を華渓妙春
と申すそうです。
華渓院の開山を覚叟大円和尚と言い、元徳二年(1330年)の頃に遷化(*注3)
れた。一説には正安(1299〜1302年)の頃とも云う。その後、長門国大寧寺よりも
住持が来たりすることあった。
一つの説として云います。武生水村深田如意山華光寺の本尊は釈迦如来と
                       長禅大和尚(華光寺の開山・長門国大寧寺より来る)

注1・壱岐の五ヶ本寺(華光寺・龍蔵寺・安国寺・国分寺・金蔵寺)
注2・後室(身分の高い人の未亡人)
注3・遷化(せんげ・この世の教化を終え、高僧などが亡くなること)


 今考えるに、正安三辛丑年(1301年・かのとうし)(*注1)は、人皇九十二代後伏見
院の冶政三年で、寛保四甲午年(1744年・きのえうま)に至り四百四十四年。
 元徳二庚午年(1330年・かのえうま)(*注2)は、人皇九十五代後醍醐天皇の冶政十
二年で、寛保四甲午年(1744年・きのえうま)に至り四百十五年。
 壱岐が波多家の領地となるのは、人皇百四代後土御門院の冶政八年で文明四
壬辰年(1472年・みずのえたつ)は、寛保四(1744年)甲午(きのえうま)年に至り二百
七十三年。
 日高甲斐守源喜が壱岐を押領せしは永禄七甲子年(1564年・きのえね)、寛保四
甲午年(1744年・きのえうま)に至り百八十一年。
源喜壱州にひらいたのは(*注3)永禄十二己巳年(1569年・つちのとみ)
浦海の合戦は元龜二年(1571年)辛未(かのとひつじ)七月二日。
波多三河守源信時の後室は、なお存命です。
是等を以って年序の齟齬(食い違うこと)を見るべし。
注1・正安三年(華渓院妙春大姉が没した年)
注2・元徳二年(華渓院を開山した覚叟大円和尚の遷化の年)
注3・永禄十二年波多氏に唐津岸岳城を奪回され、壱岐に逃れる


  
 天文十五年(1546年)丙午(ひのえうま) 波多源五郎源重の定書(*注1)一通が到来
しその文の記述に、

   定
当寺は一つの宗派(壱岐国曹洞宗)の本寺で、 殊更(ことさら)公儀(*注2)に従い、諸事
申し来る節は、自他宗の独庵(小さな庵)迄、残す所無く相(あい) 触被(ふれらる)(べ)く候。
もし違反の僧侶は、その本寺へ内談致し糾明の上裁許せしむ可(べ)き者也。

               波多源五郎   重
 天文十五年(1546年)
   華光寺 禅室(*注3)



天文二十年(1551年)辛亥(かのとい) 波多源五郎源重の触状(*注4)があり、
その文の記述に

西国蜂起(ほうき・動乱)の由(よし)唐津より只今触れ来り候。
この様なおりは寺家の什物(じゅうぶつ)等を盗み取るものにて候条。
在々独庵(*注5)迄用心致す様、早々に相触られる可く候
貴寺へは寺番として足軽両人宛(づつ)五日替わりに申し付け候以上

                  波多源五郎   重
 天文廿年(1551年)
     華光寺



永禄元年(1558年)戊午(つちのえうま) 十二月二十八日波多三河守源信時の下知
状あり、其の文の記述に

当寺は昔より諸宗門の軌範に依る役寺
諸寺院に於いて寺法の断絶が無いよう申し付けらる可き者也

永禄元年(1558年)十二月廿八日   波多三河守
     華光寺

注1・定書(さだめがき・法令、規則)
注2・公儀(今度は幕府ではなく、公的な機関・波多家)
注3・禅室(ぜんしつ・禅僧の居室・転じて、寺の住持の意味)
注4・触状(ふれじょう・触れ知らせる書状、回状)
注5・独庵(どくあん・宗派に属さない小さな庵)


永禄十二年(1569年)己巳(つちのとみ)二月十八日、波多三河守の奉書が到来す。
其の文の記述に、

 今度貴寺の建立に付き竹木(*注1)や夫丸(*注2) 之儀は申すに及ばず、品々も異
義無く(*注3)当役を村々へ申し付ける可き旨、三河守殿が仰せ越され候条其の
旨を得らる可く候。
今後、修理加え候か又は建立の節は同前(以前と同じ)(た)る可き者也。
   
     波多壱岐

永禄十年(1567年)二月十八日
   華光寺  禅室


同年(永禄十年・1567年)十月二十八日山林田畑の寄附状があり。 其の文の記述に、

 当寺は、壱岐と唐津は同前(同じ)(た)るに依り、 公方御施餓鬼(*注4)並びに
波多一族の月忌日(つきのきじつ)牌施餓鬼(せがき) 勤執(*注5)(せしむる)に依り
寺内の山林田畑の免許並びに近村に於いて田地二町二反永寄附するとのことだ
から全(すべて)収納令可(せしむべき)者也

永禄十年(1567年)十月二十八日波多三河守
   華光寺
注1・竹木(ちくぼく・材料)
注2・夫丸(ぶまる・人夫)
注3・異義無く(いぎなく・準備怠り無く)
注4・公方御施餓鬼(公方=将軍・対馬の万松院が徳川の歴代将軍を祭ったように、
         この時の将軍家である足利氏をまつる行事が往時にはあったかも?)
注5・勤執(ごんしゅう・つとめとりおこなう)


 右記のように波多家の書翰五通、本紙(本物)なく皆以(みなもって)写紙です。
殊に源信時は永禄(1558〜1570年)の始めの方で亡くなり、永禄七年(1564年)甲子
(きのえね)十二月二十九日源喜が、源信時の後室を追い払い、上松浦及び壱州を
押領した事 印山記(*注1)に詳しく書いてあれば、写書吏の誤りではないか。
上記波多家の書翰の写紙は、どうもあやしい。
 但し華光寺の二町二反の事は、永禄田帳に載っているので相違ありません。
 又、田清帳(*注2)に志原村川原田免の水田一反一畝六歩、高三石四斗四升九
合、池田村前田免の水田二反二十五歩、高七石三斗八升、住吉村の水田四畝二
十八歩、高九斗一升 華光寺分と記してある。
注1・印山記(松浦印山道可隆信の事を記してある書・初代平戸藩主鎮信の父)
注2・田清帳(たせいちょう・田の事を清書して提出された公的な帳簿)



寛永十五年(1638年)戊寅(つちのえとら) 冬に客殿の建立あり。故牧山次郎右
衛門の書状及び僧の大鐘が書き物あり。其の文の記述に

華光寺の客殿御建立仰出被(おおせいだされ)候次第、

一つ、間数九間(16.3m)七間(12.7m)、 但し三方椽(たるき)
一つ、竹木縄茅(材料)夫丸(ぶまる・人夫)申し付ける可き事
一つ、竹木縄茅の儀は、村々の軒数にかけて、出(だし)申す筈の事申す可く候
   尤も大工・食焼(めしやき・飯炊き)・小取申し付ける可き事
一つ、材木は大工を召連れ、村々を廻り見立て候て、取り寄せ申し可く候事

右の通り明日出合い申し談ず可く候。平戸大工だけで不足とあれば、壱岐の
大工にも申し付く可く候。
明日よりは、去年以来取り置きの材料を、大工頭へ見せ為致(いたさせ)取り寄
せ申し可く候。
先ず今日は被仰出(おおせいだされ)候通り、 差図被(さしずされ)候様(よう)
是亦(これまた)大工頭へ申し付け被(らる)可く候以上

   九月十一日(寛永十五年・1638年)   牧山次郎右衛門
  吉木軍兵衛殿

追啓(*注1)一昨日平戸からの御状(*注2)、 其元(そこもと)へ遣わし申し候通り
建立相済候迄、役方両人へ仰付被候通(おおせつけられそうろうとうり)一昨日委細申
し達し候故に、昨日より華光寺へ御出候由、尤に存じ候以上
                               牧山次郎右衛門
                               吉木軍兵衛
                               大工頭伊助
                               小工十四人
注1・追啓(ついけい・追伸ほどの意味)
注2・御状(ごじょう・他人を敬いその手紙をいう)


       鎮信公(天祥公・平戸松浦藩4代藩主)御建立の事
当寺は当国の総本寺僧録所(*注1)為り。殊に大守公(平戸藩主)の菩提所、且つ
亦大守公の御先祖印山道可居士(*注2)、当山三代能山和尚に向け御遺言これ在り。
故に御遺言の命に応じ、当寺の再開基と称し奉る。然故(しかるゆえ)慶長四年
(1559年)松浦式部卿の御下知を以って当寺に於いて御墓所これに在り。御位牌
これに安置し、毎年大施餓鬼並びに正月忌に御斎(*注3)これ在る事。
御建立の本願主は松浦肥前守鎮信公、大鐘(華光寺六世住持)謹んで国家安全・武
運長久・福寿無量を祈念し奉る者也。
時に寛永十五(1638年)戊寅(つちのえとら)
     華光寺
   十二月二十八日 大鐘叟(そう・翁との意)これを記す
   念の為、如件(*注4)
注1・僧録所(そうろくしょ・禅宗寺院とその人事を管理した僧職・役所)
注2・印山道可居士(松浦隆信・初代平戸藩主鎮信の父)
注3・御斎(おとき・法事のときに出す食事)
注4・如件(くだんのごとく・普段のように)


 右記のように大鐘(華光寺六世住持)が当国総本寺僧録所と記せりは誤りです。
それならば、当国曹洞の本寺などと記せばよろしいのではないか。
 現住持の石門が云いました。「当寺は前代(*注1)御取持(*注2)の所なり」。
 故に天祥公(*注3)、牧山次郎右衛門に命じて客殿を建立されました。頃は萬宝
大鐘住持(華光寺六世)の時でした。
 其の後、関室(華光寺七世住持)の代に火災があって、又御建立されましたけれど、
中一年を隔て亦火災がありました。ですから天祥院(*注3)は、ひどく怒られて
捨て置き給う時、末寺より相願い出て建立は致しましたが、いまだ屋根を葺く
ことが出来ません。
 しかしながら前々の由緒(*注4)を以って、壱岐国中に(天祥公が?)命じて、こ
れを葺かしめ給うにより、以来葺き替は国中の役となると。
 此の説は、実否を訂正するに及ばす。今これを表出す。
注1・前代(此の場合、天祥公鎮信の父、平戸松浦藩3代藩主宗陽隆信のことか?)
注2・御取持(おとりもち・世話、仲立ち、今回は懇意にされ大事に扱われたとの意味か?)
注3・天祥公(平戸松浦藩4代藩主)
注4・由緒(この場合、壱岐国曹洞宗随一のことか?)


寛永二十年(1643年)癸未(みずのとひつじ) 正月十一日、当国守鎮信 寺産十石寄附
される。其の状に記す。

   知行
 拾石(十石) 目録別紙有
 扶助冷(せしむる)所永く領地す可きもの也仍如件(よってくだんのごとし)
 寛永貳十年(1643年)
   正月十一日鎮信(天祥公・平戸松浦藩4代藩主)押字
     花光寺

延宝四年(1676年)丙辰(ひのえたつ) 九月十一日、国守源鎮信 末寺附属の證状を
下し給ふ。其の文に記す。


壱州
 如意山華光寺末寺
むしょうず
武生水 長福寺(ちょうふくじ)    同   宝樹庵(ほうじゅあん)
同    宝積寺(ほうせきじ)    同   龍洞軒(りゅうどうけん)
同    喚心院(かんしんいん)    同   江釣院(こうちょういん)
同    安興寺(あんこうじ)    同   鳳翔寺(ほうしょうじ)
同    長徳寺(ちょうとくじ)    同   林鐘庵(りんしょうあん)
同    大御堂(おおみどう)    同   宝俊軒(ほうしゅんけん)
同    平山寺(へいざんじ)    同   長松院(ちょうしょういん)
同    寿福寺(じゅふくじ)    同   宝幢庵(ほうとうあん)

わたら
渡良   江画像ファイル(こうりょうけん)    同   西福寺(さいふくじ)
同    江上寺(こうじょうじ)    同   願成寺(がんせいじ)
同    慈雲庵(じうんあん)    同   西光寺(さいこうじ)
同    東獄院(とうがくいん)    同   圓通院(えんつういん)

なかどうり
中通  金谷寺(きんこくじ)    同   薬城寺(やくじょうじ)
同   法雲寺(ほううんじ)    同   瑞石寺(ずいせきじ)
同   雲秀院(うんしゅういん)    同   宗音院(そうおんいん)
同   西光寺(さいこうじ)    同   善徳寺(ぜんとくじ)
同   瑞石寺(ずいせきじ)    同   昌巌寺(しょうがんじ)
同   興福寺(こうふくじ)

はんせい
半城  長福寺(ちょうふくじ)    同   松岩寺(しょうがんじ)

ながみね
長峯  古渓寺(こけいじ)    同   玉泉寺(ぎょくせんじ)
同   高源院(こうげんいん)    同   慶福院(けいふくいん)
同   珠覚院(しゅかくいん)

たていし
立石  覚音寺(がくおんじ)    同   安楽寺(あんらくじ)
同   源長寺(げんちょうじ)    同   寿慶庵(じゅけいあん)
同   醫王院(いおういん)    同   湯温院(ゆおんいん)
同   龍谷院(りゅうこくいん)    同   西来軒(さいらいけん)
同   妙喜庵(みょうきあん)    同   観世院(かんぜいん)
同   法林庵(ほうりんあん)

すみよし
住吉  龍養寺(りゅうようじ)    同   宝泉庵(ほうせんあん)
同   自徳庵(じとくあん)    同   撫龍庵(ぶりゅうあん)

しはら
志原  不動堂(ふどうどう)    同   圓光寺(えんこうじ)
同   孝徳庵(こうとくあん)    同   玉種庵(ぎょくしゅあん)
同   福泉庵(ふくせんあん)    同   源覚院(げんかくいん)
同   萬鐘院(ばんしょういん)

はつやま
初山  南明寺(なんみょうじ)    同   永林寺(えいりんじ)
同   宝泉軒(ほうせんけん)    同   竜雲寺(りゅううんじ)

右寺の数、華光寺の末寺為(た)る可く、公儀従 (より)被仰出(おおせいだされ)
之趣(おもむき)堅相守於 (かたくあいまもり)末々(すえずえ)違背無之様
(いはいこれなきよう)可被申付(もうしつけらるべき)者也

   松浦肥前守

 延宝四丙辰年(1676年・ひのえたつ) 九月十一日 鎮信 押字
                      (天祥公・平戸松浦藩4代藩主)
   華光寺


貞享元年(1684年)甲子(きのえね)八月、 鐘楼門を立て華鯨(梵鐘)をかく。
其の銘に記す。
扶桑(日本の異称)西海路(西海道) 壱陽(壱岐の異称)石田郡物部郷(ものべごう)如意
山華光寺禅寺は長門大寧寺の附庸(*注1)にて、且 (かつ)亦、副僧録(*注2)
(人々)を集め貶める事を報じて(*注3) 法器(*注4)無し也。既に久矣。
今、慈門末、龍雲寺の鉄心叟、衣鉢を捨て以後長らく一派の寺庵を兼ね、
遠近の士民は丹悃抽んでる。医師伯南生像を捨て新に法鐘を鋳り、以って闕典
(*注5)を補う矣。
 夫(それ)鐘の用い為るや百八聲の中に、 人と天 円通(*注6)三昧に入る證。
鬼畜は、倒懸(*注7)諸苦(*注8)を脱出する。 鳴呼(ああ・感嘆詞)(だい)成る矣。
其の徳や是に於いて銘と為す。

 銘に云う。

華鯨出画像ファイル(梵鐘、弓を射るが如く引き絞り打てば、)
哮吼偏傳(獅子や猛虎が哮り立ち吼えるが如く、遍に伝わる。)
龍宮振蟄(その梵鐘の音に、海深く龍宮にひそむものまで振るい立ち、)
蚌臺覚眠(蛤等のドブに潜む貝までが、眠りから覚めて四方を眺める。)
蒼浪千里(蒼き浪が果てし無く続き、)
遠落客舩(その遠き彼方に客船が落ちるように消え行く。)
画像ファイル崖一島(落ち行く先には、険しく切り立った島が一つ、)
近濕法筵(観音菩薩が近くを慈愛で以って濕おし、仏法を説く所の補陀落なり。)
怠者以業(怠者は業を以って、)?
後者以前(後者は前を以って、)?
鴻音無尽(梵鐘の音、大きく深い恵を以って慈しみ、それ尽きる事無く、)
萬之斯年(未来永劫続くもの也。)
  貞享元(1684年)龍舎 (龍雲寺?)甲子(きのえね)仲秋(陰暦8月の異称)
如意珠日住山嗣祖比丘獨外大秀叟代
主縁     龍雲寺鉄心叟(りゅううんてつしんそう)

方庵伯南居士(ほうあんはくなんこじ) 岫峯西雲居士(しゅうほうせいうんこじ)
本室妙源信女(ほんしつみょうげんしんにょ) 紅顔妙雪信女(こうがんみょうせつしんにょ)
秋岩智勝大姉(しゅうがんちしょうだいし) 覚縁妙了大姉(かくえんみょうりょうだいし)
金室妙剛信女(きんしつみょうこうしんにょ) 仲因了冬信女(ちゅういんりょうとうしんにょ)
則天妙省信女(そくてんみょうしょうしんにょ) 紫間妙雲信女(しかんみょううんしんにょ)
奇峰浄大信士(きほうじょうだいしんじ) 畢空萬了首座(ひつくうまんりょうしゅそ)

運載舩主     布屋三右衛門
大工 長門府中  小倉屋長崎十三郎 藤原林次
小工          長崎九左衛門藤原吉貞

 右記の此の鐘は、下関石屋五郎左衛門 三判を以って之を鋳る。
元禄九年(1696年)丙子(ひのえね) 正月二十六日享保七年(1722年)壬寅(みずのえとら)
四月朔日寺産寄附の證状を賜わる

 其の文に記す。

当寺領高十石之事、寛永二十年(1643年)正月十一日先判の旨に任せ、永く寄附
し訖者(おわる)
一宗の軌範(*注9)違失無く可し、精誠(*注10) に励むの状、如件(くだいんのごとし)
元禄九年(1696年)正月廿六日 任(*注11)押字

     壱岐国  華光寺

 当寺領高十石の事、寛永二十年(1643年) 正月十一日元禄九年(1696年)正月二十
六日両先判の旨に任せ、永く寄附し訖者(おわる)
 仏法招隆(*注12) 一宗軌範、宜しく怠慢することが莫之(ないようにとの)状如件
享保七年(1722年)四月朔日 篤信(*注13)押字

    壱岐国  華光寺

注 1・附庸(ふよう・本来は国の関係を云うが、 この場合、本寺に従属して、その命令に従う末寺との意)
注 2・僧録(そうろく・禅宗寺院とその人事を管理した僧職)
注 3・報貶(ママ)(ほうへん・人を貶めるようなことを報じる? ・褒貶=ほめたりけなしたり・デマを流す?)
注 4・法器(仏法を受け入れる素質)
注 5・闕典(けってん・規則・規定などが不完全なこと)
注 6・円通(えんつう・真理を悟る智慧その作用は自在であること)
注 7・倒懸(とうけん・手足を縛ってさかさまにつるすこと。また、非常な苦しみのたとえ)
注 8・諸苦(しょく・諸々の苦しみ)
注 9・軌範(きはん・模範、手本、道徳)
注10・精誠(せいせい・純粋な誠実さ)
注11・任(まかす・平戸松浦藩5代藩主・棟の前名)
注12・紹隆(しょうりゅう・先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること)
注13・篤信(あつのぶ・平戸松浦藩6代藩主)






   
































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