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壱岐国続風土記
(現代語訳)


石田郡武生水邑 
共ニ七巻 

寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)


壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす

指導校正 山西 實     
現代語訳  松崎靖男     
編集協力  吉永 清     
 〃    平田秀子     




壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑村 第十
 仏閣


 如意山華光寺(にょいざんけこうじ)   壱岐市郷ノ浦町東触字深田

華光寺にある仏像の紹介

本堂(客殿)の本尊は木製の釈迦如来(しゃかにょらい)の 坐像(ざぞう)で、高さは
約38cm(1尺2寸5分)です。
両脇に随って並んでいる仏像(脇士)は 文殊(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩で、
それぞれに坐像で高さは21cm(7寸)です。その他に大権大師(だいごん)と達磨
大師(だるま)の仏像があり、ともに高さは36cm(1尺2寸)です。

住職の住居(方丈)にある本尊は 阿弥陀如来(あみだにょらい)の立像(りゅうぞう)で、
高さは45cm(1尺5寸)です。
弁財天の坐像は、高さが約8cm(2寸8分)で、平安中期の仏師で仏像彫刻の第一
人者とされた定朝(じょうちょう)の作と言われています。
大黒天の立像は高さが22cm(7寸4分)で、この仏像は弘法大師が彫刻するとき
に、一彫りするごとに三度礼拝して作った (弘法一刀三礼の作)と言われています。
多聞天は立像(りゅうぞう)で高さが6cm(2寸)です。
その他に七観音の仏像が有ると言われ、千手(せんじゅ)観音・馬頭(ばとう)観音・
(しょう)観音・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音の四体は、 立像で高さは10cm (3寸
4分)です。十一面観音と如意輪観音の二体は、坐像(ざぞう)で、 高さは7cm(2寸
3分)で、残り一体の准胝(じゅんでい)観音は、 立像で高さは10cm(3寸5分)です。
また、千手観音に従う28体の善神(二十八部衆)は、それぞれが立像で高さは
4.2cm(1寸4分)です。
以上の七観音と千手観音に従う28体の善神(二十八部衆)は、平安末期から鎌倉
初期にかけての高名な仏師である運慶(うんけい)の作と言われていますが、現住
職の石門(せきもん)和尚は、まだこれらを見たことがないと話されています。
以上が、住職の住居(方丈)に有るか、または有ると言われている仏像です。

修行僧の寮(衆寮)にある本尊は、鋳物(いもの)のお釈迦様で高さは20cm
(6寸5分)です。
巡礼十四番札所の六臂如意輪(ろっぴにょいりん)観音坐像は、高さが13cm
(4寸2分)です。


境内にある建造物の紹介

 本堂(大方丈)は、南南東(巳午)向で 茅葺き、間口(桁行)14.2m(七間五尺)・奥行
(梁行)10m(五間半)です。
 廊下は本堂(大方丈)と同じ南南東(巳午)向きで茅葺き、 幅(梁行)2.7m(壱間半)
長さ(桁行)7.9m(四間二尺)です。

 書院(小方丈)は、南向で瓦葺き、間口(桁行) 7.2m(四間)・奥行(梁行)4.2m
(二間二尺)です。
 寺の台所・住職や家族の居間(庫裏・くり)は西向で茅葺き、間口(桁行)13.6m
(七間半)・奥行(梁行)7.2m(四間)で、 庇(ひさし)は幅が6.3m(三間半)・長さが1.8m
(壱間)あり、瓦葺きです。

 修行僧の寮(衆寮)は東向で茅葺き、間口(桁行) 5.5m(三間)・奥行(梁行)3.6m
(二間)で、庇(ひさし)は幅が4.5m(二間三尺)です。
 観音堂は南東(辰巳)向で茅葺き、間口(桁行) ・奥行(梁行)ともに4.5m(二間半)
です。

 あずま屋(亭・ちん)は北北西(亥子)向で 茅葺き、幅(桁行)7.3m(四間)・奥行
(梁行)5.5m(三間)で、 四方に庇(ひさし)が付いて、3.6m(二間)と1.8m(一間)
出ていて瓦葺きです。
 経典を収める蔵(輪蔵)は、間口(桁行) ・奥行(梁行)ともに2.7m(壱間半)です。
土蔵は北北西(亥子)向で瓦葺き、間口(桁行) ・奥行(梁行)ともに3.6m(二間)です。

 馬小屋(馬櫪・ばれき)は南向で茅葺き、間口(桁行) 5.5m(三間)・奥行(梁行)3.6m
(二間)です。
 鐘楼門(しょうろうもん)は、南南東(巳午)向で茅葺きです。 間口(桁行)2.4m
(八尺)・奥行(梁行)2.1m(七尺)です。

 石の階段は上下に分かれていて、上の階段は三十四段有り、長さは11.8m
(六間半)で、幅が1.8m(壱間)です。 途中の休み場の平地は奥行4.8m(二間四尺)で、
下の階段は十八段有り、長さ5.5m(三間)で幅が2.7m(壱間半)です。
 石の階段から3.6m(二間)に井戸が有り、石橋が本堂から南に89m(四十九間)
行った所に一基有ります。

 境内十四町三十三間(約1,590m)
(広さを表しているのに、長さの単位が書かれている為、私には理解不能)

  その中に寺地は、東西に73m(四十間)、石橋より首塚一本松まで218m
  (百二十間)、南北に90m(四十九間半)あり、本堂より石橋至る。
  同じく山
  同じく墓所
 寺領高は十石です。

(参考迄に)
 梁行・桁行について簡単に説明します。屋根の棟と平行方向が桁行となり、
それと直角方向が梁行ということになります。
 寺院建築では桁行の方が間口となっている場合が多いのですが、小さな庫裏や
蔵などは梁行の方に間口を設けている場合も少なくありません。
 現代語訳壱岐国続風土記では、分かり易さ・詠み易さを優先している為に、
建物は桁行を間口、梁行を奥行と統一して書きました。
 また方位も度数のほうが正確に分かるのですが、馴染みが薄く分かり辛いので、
分かり易くする為に、大略しか表せませんが16分割の東西南北に当て嵌めています。


壱岐梵刹帳(ぼんさつちょう)の記述

当寺(華光寺)は壱岐の曹洞宗両本寺(華光寺・竜蔵寺)の最高位です。
壱岐梵刹帳(ぼんさつちょう)の記述に、壱岐市郷ノ浦町東触字深田の如意山
(にょいさん)華光寺の本尊は木製のお釈迦様の坐像で 高さは37cm(1尺2寸3分)
両脇に随って並んでいる仏像(脇士)は文殊菩薩・普賢菩薩で、それぞれの高さ
は20cm(6寸7分)と書かれています。

壱岐梵刹新帳の記述では、如意山華渓院(かけいいん)華光寺(けこうじ)は、佐賀
県唐津市の領主である波多氏の天祐貴公大居士(岸岳城主波多宗無の子)
建てられた(草創)と書かれています。
慈母の華渓院妙春大姉(みょうしゅんだいし)は1301年(正安3年)2月27日に
亡くなられました(逝去)が、生まれは長崎県対馬市で、領主である宗氏の娘です。
父母に会うため対馬への渡航中急に病気になられ、壱岐の渡良大島の大泊に
係船しましたが、病気で苦しむことが頻繁となられたので、本居浦(壱岐郷ノ浦町)
に船を漕ぎ入れて、神仏に病気が治るように祈り、また様々な治療を行なわれ
ました。
 しかしこれといった効果も無い処に、ある朝 女人に姿を変えられた菩薩(化女)
が、突然 妙春大姉の前に現れてよくわかるように話されました。
「貴女が故郷を思う心は大変に強いものがあり、これより1Kmぐらい北東に山
があります。そこは弥勒(みろく)菩薩が世に現れる時、法を施し人々を救済す
る為の霊地です。そこの霊地から大海を見る時は、貴女の父母や親戚が目の前
にいるように見えます。」と言い終わって去られました。
人に理由(わけ)を話して、女人に姿を変えられた菩薩(化女)の跡を付けても
らうと、今の妙見山に隠れて見えなくなられました。その日 妙春大姉が語るに
は「私が死んだら、唐津と対馬の見える所に葬って下さい。」といって午前10時頃に
亡くなられました(逝去)
葬儀には佐賀県唐津市より覚叟大円和尚(かくそうだいえん)が来て引導を渡し、
菩提所を建て華渓院と名付けました。この覚叟和尚は波多家の一族です。

壱岐は国境の島という特別な理由があるので、天下泰平・国家安全を神仏に
願う為の祈り(祈祷)と共に将軍家の供養(公方施餓鬼)を行い、次に亡くなられた
殿様の冥福(菩提)等を祈って修行にはげみ、宗門の規律を永く維持し、怠ける
ことなく寺法を固く守るようにと定められました。
その他に国君掟記(こっくんおきてがき)等があったと言われていますが、二度の
火災の為に無くなり、また佐川氏が代官(執権)の時ひととおり目を通すために
(一覧)と借りていきましたが、これを返しませんでしたので色々と由緒を伝える
証拠を失ってしまいました。
しかし昔の由緒を伝えるものとして、印山道可大居士(初代平戸藩主鎮信の父)
霊を祭った場所(御廟所)がこの寺にあり、 又他の殿様の霊を祭った場所(御廟所)
がこの境内に数ヶ所あります。

その他にも文禄年間の秀吉公朝鮮ノ陣の時、朝鮮国と我が国の大事な船舶の
中継基地として、出陣の門出の無事を神仏に願う為の祈り(祈祷)がありました。
その神仏に願う為の祈り(祈祷)は、 亀ノ尾の館(現在の亀丘城跡)に華光寺の住職
を筆頭にして、諸宗派の僧侶を十二人づつ出させて行なわれました。そして宝
幢庵(ほうとうあん)と宝積寺(ほうせきじ)が宿舎に充てられました。
ある説に七ヶ年(文禄・慶長ノ役の期間)の警固は六十才以上の足軽に命じ、人夫や
荷役の雑事に使う者は無役の人々を充て、市中の念仏坊等がこれを指揮したと
言われています。文禄・慶長ノ役の退陣以後は、諸宗派の僧呂が亀ノ尾の館
(現在の亀丘城跡)に出て来ることが無くなりました。


壱岐廻(いきめぐり)の記述について考証

 壱岐廻(いきめぐり)の記述では、華光寺は、龍蔵寺・安国寺・国分寺・金蔵寺
と共に壱岐五ヶ本寺の一つと書かれています。山を如意山 院を華渓院といい
佐賀県唐津の領主である波多天祐貴公大居士(唐津岸岳城主波多宗無の子)の建立
だと言われています。
 天祐公の慈母を華渓妙春大姉(かけいみょうしゅんだいし)といい、1301年(正安
3年)2月27日に亡くなられました(逝去)。この大姉を祀るので院号を華渓に
したと言われています。
 正門に掛けられた額は、江戸時代前半の書道の大家である佐々木玄龍先生が
書かれたもので、華渓院(妙春大姉)の霊を祭った場所 (御廟所)は寺山の中にあります。
 また別の説として、波多壱岐守盛(秦三河守)殿の夫人は対馬の領主の娘だと
言われています。夫に先立たれた後、父母に会うため対馬へ渡航の途中、この壱岐の
沖合で病気になり、治療の甲斐も無く亡くなられました(逝去)。華光山に葬りまつられて、
法名を華渓妙春と言われます。
 華渓院の開山は覚叟大円和尚(かくそうだいえん)と言い、1330年(元徳2年)
亡くなられました(遷化)。ほかの説では正安(1299〜1302年)の頃とも言われてい
ます。その後、山口県長門市大寧寺より住職が来たりすることもありました。
 ある説には、如意山華光寺の本尊は釈迦如来と山口県長門市大寧寺より
来られた長禅大和尚(華光寺の開山僧)だと云います。


(著者 吉野秀正の考え)
 前記に書かれた壱岐廻(いきめぐり)の記述を考えて見ますと、華渓院妙春大姉
が亡くなった(没した)1301年(正安3年)は、 今(1744年・寛保4年)から443年前。
 華渓院を開山した覚叟大円和尚の亡くなった(没した)1330年(元徳2年)は、
(1744年・寛保4年)から414年前。
 波多下野守泰が壱岐を領有する1472年(文明4年)は、今(1744年・寛保4年)
ら272年前。
 日高甲斐守喜が唐津岸岳城と壱岐を横領する1564年(永禄7年)は、今(1744年・
寛保4年)から180年前。
 日高甲斐守が波多氏に唐津岸岳城を奪回され、壱岐に逃れるのは1569年
(永禄12年)、対馬の宗氏との浦海の合戦は1571年(元龜2年)7月2日。
波多壱岐守盛(波多三河守源信時)殿の未亡人(後室)は、浦海の合戦の時は
なお存命中です。
 是等を参考にして壱岐廻(いきめぐり)に書いてある、波多壱岐守盛殿の夫人は
華渓院妙春大姉であるとする説は、経過した年数(年序)に食い違いがあることを
考えてみるべきです。

(参考迄に)
 私が一支國研究会古文書輪読会より頂いた「壱岐国続風土記」の原文では、
波多壱岐守盛と書いた部分は、波多三河守信時となっていましたが、夫人の部分を
読みますと波多壱岐守盛の夫人である「新芳・真法(しんぽう)」を指しているのは
明らかなので、現代語訳では波多壱岐守盛と訂正しています。
 また、年代の数え方も独特のものが在り、「数え年」の数え方と言って
良いのでしょうか、原文での何年前は起年日を1年前としている為、現代語訳の
何年前+1年で書かれています。



波多家からの書翰の真偽

 1546年(天文15年)の波多隆(重)の 定書(さだめがき)が有ります。その文の記述
には、下記のように書かれています。

 定(さだめ)
 当寺(華光寺)は壱岐国曹洞宗の本寺であるので、波多家より色々な事を命じて
来た時は、自宗派だけでなく他宗派の小さな庵(独庵)迄、残す所無く触れまわ
って知らせて下さい。
 もし違反の僧侶があれば、その僧侶の本寺へ相談し真相を明らかにした(糾明)
上で、罪を問い罰を与えることを許すものである(裁許)
        波多源五郎 隆(重)より  
 1546年(天文15年)
   華光寺   住職(禅室)

 又1551年(天文20年)波多隆(重)の 触状(ふれじょう)も有ります。
その文の記述には、下記のように書かれています。

 山口県(西国)で陶晴賢の変(大内氏滅亡・蜂起)が起こったとの事、唐津より只今
連絡が来ました。
 この様な時は寺院の、宝物や日常使っている器具類(什物)等を盗み取るもの
がありますので、宗派に属さない小さな庵(在々独庵)迄用心するように、早々に
触まわって知らせて下さい。
 華光寺へは、寺番として足軽2人を、五日替わりに遣わすように言い渡しま
した。  以上
        波多源五郎 隆(重)より
 1551年(天文20年)
     華光寺へ

 1558年(永禄元年)12月28日、波多三河守源信時の下知状(げちじょう)が、
有ります。其の文の記述には、下記のように書かれています。

 当寺(華光寺)は昔より諸宗派の模範となる役寺で、諸寺院に於いて怠けたり
惰ったりして、寺法の絶えることが無いように言い渡して下さい。
 1558年(永禄元年)12月28日   
     波多三河守より
         華光寺へ

 又1569年(永禄12年)2月18日、波多三河守の奉書(ほうしょ)も有ります。
其の文の記述には、下記のように書かれています。

 今度 華光寺の建立に付き、材料や人夫は言うまでもなく、品々等も準備怠り
無く(異義無く)華光寺建立の手伝い(当役)を村々へ言い渡すことを、三河守殿が
命じられましたので、其の旨を心得て下さい。
今後、修理をする時や建て直しをする時も、前に述べたとおりにして下さい。
            波多壱岐正より
1567年(永禄10年)2月18日
  華光寺  住職(禅室)

 更に同年(1567年・永禄10年)10月28日、山林田畑の寄附状が有ります。
其の文の記述には、下記のように書かれています。

 当寺(華光寺)に、壱岐と唐津は同じ波多家の領地なので、将軍家の供養
(公方施餓鬼)並びに波多一族の月命日に位牌の供養(牌施餓鬼)を執り行うよう
命じたので、寺内の山林田畑の租税を免れることを許し(免許)、近村に田地
2町2反を寄附するので、すべて収めるようにしなさい。
     1567年(永禄10年)10月28日 
波多三河守より
      華光寺へ


(著者 吉野秀正の考え)
 前記 波多家の書翰五通は、本物は一通もなく全部が写した文書(写紙)です。
殊に波多三河守源信時は永禄(1558〜1570年)の始めの方で亡くなり、1564年
(永禄7年)12月29日 日高甲斐守喜が、波多壱岐守盛(源信時)の 後室(新芳)
追い払い、上松浦及び壱州を横領した事が印山記(いんざんき)に詳しく書いてあ
るので、写書吏の誤りだと思われます。
 波多家の書翰の写しは、どうも信用しがたい。(いぶかし・訝しい)
 但し華光寺の2町2反の事は、永禄田帳に載っているし、又 田の事を清書し
た公的な帳簿(田清帳)にも、志原村川原田免の水田1反1畝6歩、高3石4斗4
升9合、池田村前田免の水田2反25歩、高7石3斗8升、住吉村の水田4畝28
歩、高9斗1升 華光寺分と記してあるので間違いありません。

(参考迄に)
 私が一支國研究会古文書輪読会より頂いた「壱岐国続風土記」の原文では、波多
源五郎は重と書かれていますが、山口麻太郎翁の「壱岐国史」やその他の文献では
波多源五郎は隆となっており、重は源七郎なので、現代語訳では源五郎=隆を採用
しました。

 次に「波多三河守源信時」に対する認識で著者の吉野秀正自身に混乱が見られ
ます。「三河守殿の夫人」という言葉を用いた前後の部分を検証してみますと
「波多壱岐守盛の夫人」である「新芳・真法(しんぽう)」を指しているのは明らかな
ので、夫人をあらわす場合の「三河守」では「波多壱岐守盛」と訂正しています。
また吉野秀正が壱岐廻(いきめぐり)の記述を抜粋した部分が正確であるならば、
壱岐国神社の再調査である「延宝の査定」を行った壱岐廻の著書である橘三喜にも
あてはまると言えます。
 波多家の系図は一般的には 波多下野守泰―下野守興―壱岐守盛−三河守親と
なっており、三河守親=三河守信時の説が有力で、この説を採ると吉野秀正が言う
ような、波多三河守源信時は永禄の始めの方で亡くなったので、三河守に関して
年代的に写書吏の誤りがあるとする説は根拠を失ってしまいます。
 壱岐守盛が1542年(天文11年)に亡くなり三河守親が養子となって波多家を継ぐのが
1558年(永禄元年)です。一説には、1555年 (弘治元年)に三河守親が養子となったと
ありますが、吉野秀正は1558年(永禄元年)の説をとり、「波多三河守源信時は永禄の
始めの方で亡くなった」と書いたのでしょう。どちらの説をとるにしろ、この系図で考えると
興亡の激しい戦国時代に波多家は13年乃至16年の間も当主が不在となり、考え難い
出来事だと言えます。北波多村史では壱岐守盛と三河守親の間に(順代に疑義あり)との
注釈付きですが隠岐守好を入れていますし、吉野秀正も三河守親=三河守信時ではなく、
壱岐守盛と三河守親の間に三河守信時が在位したと考えたのではないでしょうか。
 ですから波多家の書簡に出て来る三河守は、三河守親ではなく三河守信時が独立した
存在として吉野秀正に認識され、「写書吏の誤りで訝しい」と筆を運ばせたのでしょう。


寛永15年冬の本堂建立について

 1638年(寛永15年)の冬に本堂(客殿)の建立がありました。故牧山次郎右衛門
の書状及び僧の大鐘(華光寺六世住職)が書いた物があります。其の文の記述には、
下記のように書かれています。

(牧山次郎右衛門の書状)
 華光寺の本堂(客殿)を御建立する際に仰せられた順序及び内容(次第)
一つ、本堂(客殿)の大きさは、 間口16.3m(九間)奥行12.7m(七間)とする。
   但し三方椽(たるき)
一つ、材料(竹木縄茅)や人夫(夫丸)の手配を言い渡す事 
一つ、材料(竹木縄茅)の事は、村々の軒数(けんすう)にかけて、差し出すように
   言う事。
   当然、大工・飯炊き(食焼)・小取の事も言い渡す事。
一つ、材木は大工を連れて村々を廻り、よく見て選んで決め(見立て)、そして
   取り寄せるように言い渡す事。

 右の通りに、明日出かけて村人に会ったら言って下さい。また平戸の大工だ
けで不足でしたら、壱岐の大工にも言い渡して下さい。明日よりは、昨年以来
取っておいた材料を、大工頭へ見せて取り寄せるよう言って下さい。
 先ず今日は、仰った(おっしゃった)通りに指図されます様(よう)、大工頭へ言い
渡して下さい。 以上
   9月11日(1638年・寛永15年)   牧山次郎右衛門より
   吉木軍兵衛殿へ

 追伸、おととい平戸からの書状を貴方へ渡して言った通り、華光寺の建立が
済む迄は、建築係りの両人へ仰せ付けられた通り、おととい詳しい事情(委細)
を言い伝えたので、昨日より華光寺へ出かけたわけを当然承知しています。
 以上
                        牧山次郎右衛門
                           吉木軍兵衛
                           大工頭伊助
                           小工十四人


(華光寺六世住職大鐘の書状)
   鎮信公(天祥公・4代平戸藩主)御建立の事

 当寺(華光寺)は壱岐国の総本寺で、 禅宗全ての寺院を管理する役寺(僧録所)
す。とくに殿様(平戸藩主)の菩提所、その上に殿様の御先祖である印山道可居士
(初代平戸藩主鎮信の父)が、当山の三世住職である能山和尚に向けて御遺言を為さ
れました。だから御遺言の命に応じて、華光寺の再開基と呼ぶように致しました。
 それで、1559年(慶長4年)松浦式部卿(初代平戸藩主・鎮信)の御指図で華光寺
に御墓所が出来ました。御位牌をこれに安置し、毎年大供養(大施餓鬼)と共に
正月忌に食事(御斎)が出されます。
 御建立の発起人(本願主)は松浦肥前守鎮信公(4代平戸藩主)で、 大鐘(華光寺6世
住職)が謹んで国家安全・武運長久・福寿無量を、神仏に願いがかなうように
祈りました(祈念)。 
 時に1638年(寛永15年)   華光寺
   12月28日 大鐘和尚 これを記す
   念の為、前に述べたとおりです。

(著者 吉野秀正の考え)
 上記に大鐘和尚(華光寺6世住職)が壱岐国総本寺で、禅宗全ての寺院を管理する
役寺(僧録所)と書いたのは誤りで、壱岐国曹洞宗の本寺と書けば良かったのでは
ないでしょうか。

(現住職の石門和尚の談話)
「この寺は宗陽隆信公(3代平戸藩主)が懇意にされ大事に扱われた所です。
ですから天祥鎮信公(4代平戸藩主)は、 牧山次郎右衛門に命じて本堂(客殿)
建立されました。頃は萬宝大鐘(まんぽうだいしょう)和尚の時でした。
 その後、関室和尚(華光寺7世住職)の代に火災があって、また建立されましたが、
中一年を隔てまた火災があり焼けてしまいました。
 ですから天祥鎮信公は、ひどく怒られてそのまま捨て置かれていた時、末寺
より願いが出て来たので建立を許されましたが、なかなか屋根を葺くことが出
来ませんでした。
 それで印山道可居士(初代平戸藩主鎮信の父・道可隆信)の再開基や宗陽隆信公
(3代平戸藩主)が懇意にされ大事に扱われた事等の由緒を以って、壱岐国中に
天祥鎮信公が命じて、屋根を葺くようにされました。それ以来華光寺の屋根の
葺き替は国中の領民に課された労役となりました。
 此の説は、疑う必要もない事実です(実否を訂正するに及ばす)。今だから、言える
事ですが」と、現住職の石門(せきもん)和尚が話されました。


天祥鎮信公の寄附状と末寺一覧の証状

1643年(寛永20年)正月11日、天祥鎮信公(4代平戸藩主)が寺産十石を寄付
されました。其の状の記述には、下記のように書かれています。

   知行
 十石   領地の詳細(目録)は別紙にて与えます。
 援助(扶助)する為の土地を、永く領地とするようにしなさい。よって前に述
べたとおりです。
 1643年(寛永20年)
   正月11日鎮信より(天祥公・4代平戸藩主)押字
     花光寺へ


1676年(延宝4年)9月11日、天祥鎮信公(4代平戸藩主)が華光寺の末寺一覧の
証状を与えられました。其の文の記述には、下記のように書かれています。

壱州
 如意山華光寺末寺

壱岐市郷ノ浦町武生水地区
むしょうず
武生水 長福寺(ちょうふくじ)    同   宝樹庵(ほうじゅあん)
同    宝積寺(ほうせきじ)    同   龍洞軒(りゅうどうけん)
同    喚心院(かんしんいん)    同   江釣院(こうちょういん)
同    安興寺(あんこうじ)    同   鳳翔寺(ほうしょうじ)
同    長徳寺(ちょうとくじ)    同   林鐘庵(りんしょうあん)
同    大御堂(おおみどう)    同   宝俊軒(ほうしゅんけん)
同    平山寺(へいざんじ)    同   長松院(ちょうしょういん)
同    寿福寺(じゅふくじ)    同   宝幢庵(ほうとうあん)

壱岐市郷ノ浦町渡良地区
わたら
渡良   江画像ファイル(こうりょうけん)    同   西福寺(さいふくじ)
同    江上寺(こうじょうじ)    同   願成寺(がんせいじ)
同    慈雲庵(じうんあん)    同   西光寺(さいこうじ)
同    東獄院(とうがくいん)    同   圓通院(えんつういん)

壱岐市郷ノ浦町柳田地区
なかどうり
中通  金谷寺(きんこくじ)    同   薬城寺(やくじょうじ)
同   法雲寺(ほううんじ)    同   瑞石寺(ずいせきじ)
同   雲秀院(うんしゅういん)    同   宗音院(そうおんいん)
同   西光寺(さいこうじ)    同   善徳寺(ぜんとくじ)
同   瑞石寺(ずいせきじ)    同   昌巌寺(しょうがんじ)
同   興福寺(こうふくじ)

壱岐市郷ノ浦町柳田地区
はんせい
半城  長福寺(ちょうふくじ)    同   松岩寺(しょうがんじ)

壱岐市郷ノ浦町沼津地区
ながみね
長峯  古渓寺(こけいじ)    同   玉泉寺(ぎょくせんじ)
同   高源院(こうげんいん)    同   慶福院(けいふくいん)
同   珠覚院(しゅかくいん)

壱岐市勝本町鯨伏地区
たていし
立石  覚音寺(がくおんじ)    同   安楽寺(あんらくじ)
同   源長寺(げんちょうじ)    同   寿慶庵(じゅけいあん)
同   醫王院(いおういん)    同   湯温院(ゆおんいん)
同   龍谷院(りゅうこくいん)    同   西来軒(さいらいけん)
同   妙喜庵(みょうきあん)    同   観世院(かんぜいん)
同   法林庵(ほうりんあん)

壱岐市芦辺町那珂地区
すみよし
住吉  龍養寺(りゅうようじ)    同   宝泉庵(ほうせんあん)
同   自徳庵(じとくあん)    同   撫龍庵(ぶりゅうあん)

壱岐市郷ノ浦町志原地区
しはら
志原  不動堂(ふどうどう)    同   圓光寺(えんこうじ)
同   孝徳庵(こうとくあん)    同   玉種庵(ぎょくしゅあん)
同   福泉庵(ふくせんあん)    同   源覚院(げんかくいん)
同   萬鐘院(ばんしょういん)

壱岐市郷ノ浦町初山地区
はつやま
初山  南明寺(なんみょうじ)    同   永林寺(えいりんじ)
同   宝泉軒(ほうせんけん)    同   竜雲寺(りゅううんじ)

前記に述べた寺は、華光寺の末寺であると公儀より認められましたので、
この事(趣)を固く守って、後々まで違反(違背)することが無いように言い
付けます。
   松浦肥前守(天祥鎮信公・4代平戸藩主)より
 1676年(延宝4年)9月11日   鎮信(天祥公)押字
   華光寺へ


1684年(貞享元年)の鐘楼門の鐘銘

 1684年(貞享元年)8月、 鐘楼門を立てて釣鐘(華鯨)を吊るしました。その鐘に
記された文章(鐘銘)には、下記のように書かれています。

扶桑西海路壱陽石田郡物部郷如意山華光寺禅寺者長門大寧寺附庸而
且亦副僧録也(原文)

 日本(扶桑)九州(西海路) 壱岐国(壱陽)石田郡物部郷(ものべごう)如意山華光寺
禅寺は、山口県長門市大寧寺の直接の指揮下(附庸)にあって、その上に、禅宗
全ての寺院を管理する役寺(僧禄所)の補佐(副)を務めています。

集衆報貶無法器也既久矣今慈門末龍雲寺鐵心叟捨衣鉢餘長兼一派寺庵
遠近士民抽丹悃醫師伯南捨生像新鋳法鐘以補闕典矣(原文)


 衆生の苦しみ(罪科)をつぐなう法器(仏具 即ち釣鐘)が、絶えて久しく無い。
そこで今、慈門(慈しみ深い曹洞宗華光寺)の末寺龍雲寺の鐵心和尚が身命を賭け
(捨衣鉢餘長=僧侶になくてはならぬ衣鉢はもとより、そのほか無駄なもの・余計なものを打ち捨て)
曹洞宗の一派をまとめ、遠近の人々の真心に訴え、医師伯南ともども(捨生像=
生業も打ち捨て)、新しく法鐘を鋳り、これまで寺に足りなかった(不足していた=
闕けていた)ものをここに補う。

私には上記の部分は、よく理解できませんでしたので、山西先生にお願いして
訳して貰いました。
夫鐘之為用也百八聲中人天證入圓通三昧鬼畜脱出倒懸諸苦鳴呼大矣成(原文)
 この鐘を用いる事により、人々の悩みの声(百八声)の中に、人と天との
関わりの真理を悟り(円通)雑念を捨てて 更に真理を究明すること(三昧)への
証でもあります。残酷で無慈悲な行いをする者(鬼畜)でも、非常な苦しみ(倒懸)
や諸々の苦しみ(諸苦)から脱け出すことができると言う、大変有難いものです。

其徳也於是為之銘(原文)
その有難い釣鐘の音の効果(徳)を是に文章として書きます。

 釣鐘に書かれている文章
華鯨出画像ファイル (梵鐘、弓を射るが如く引き絞り打てば、)
哮吼偏傳(獅子や猛虎が哮り立ち吼えるが如く、遍に伝わる。)
龍宮振蟄(その梵鐘の音に、海深く龍宮にひそむものまで振るい立ち、)
蚌臺覚眠(蛤等のドブに潜む貝までが、眠りから覚めて四方を眺める。)
蒼浪千里(蒼き浪が果てし無く続き、)
遠落客舩(その遠き彼方に客船が落ちるように消え行く。)
画像ファイル崖一島(落ち行く先には、険しく切り立った島が一つ、)
近濕法筵(観音菩薩が近くを慈愛で以って濕おし、仏法を説く所の補陀落なり。)
怠者以業(怠者は業を以って、)?
後者以前(後者は前を以って、)?
鴻音無尽(梵鐘の音、大きく深い恵を以って慈しみ、それ尽きる事無く、)
萬之斯年(未来永劫続くもの也。)

貞享元年(1684年)仲秋(陰暦8月の異称)、如意山華光寺十世住職
              獨外大秀(どくがいだいしゅう)の代に造る


(釣鐘を造るときに関わった人々)
主縁  龍雲寺の鉄心和尚(山口県長門市?)
方庵伯南居士(ほうあんはくなんこじ) 岫峯西雲居士(しゅうほうせいうんこじ)
本室妙源信女(ほんしつみょうげんしんにょ) 紅顔妙雪信女(こうがんみょうせつしんにょ)
秋岩智勝大姉(しゅうがんちしょうだいし) 覚縁妙了大姉(かくえんみょうりょうだいし)
金室妙剛信女(きんしつみょうこうしんにょ) 仲因了冬信女(ちゅういんりょうとうしんにょ)
則天妙省信女(そくてんみょうしょうしんにょ) 紫間妙雲信女(しかんみょううんしんにょ)
奇峰浄大信士(きほうじょうだいしんじ) 畢空萬了首座(ひつくうばんりょうしゅそ)

 山口県下関市より釣鐘を運んだ船の船主は布屋三右衛門で、鐘楼門を建てた
大工は山口県下関市長府(長門府中)の小倉屋長崎十三郎藤原林次、 助手(小工)
長崎九左衛門藤原吉貞です。
 前記の鐘は、山口県下関市の石屋五郎左衛門が鋳造しました。


華光寺への領地安堵の証状

 1696年(元禄9年)正月26日、1722年(享保7年)4月1日に寺の領地を
安堵(寄附)された証状を頂きました。
其の文記述には、下記のように書かれています。

 華光寺の高十石の領地は、1643年(寛永20年)正月11日に与えられた証状の
通り、そのまま永く安堵(寄附)します。壱岐曹洞宗(一宗)の模範(軌範)となるよう
過ち(遺失)など起こさず、純粋な誠実さ(精誠)を以って励むことは、前に述べたと
おりです。
  1696年(元禄9年)正月26日 
     任(5代平戸藩主・棟の前名)押字
     壱岐国  華光寺へ

 華光寺の高十石の領地は、1643年(寛永20年)正月11日、1696年(元禄9年)
正月26日の両日に与えられた証状の通り、そのまま永く安堵(寄附)します。
仏法をさらに盛んにして(招隆)壱岐曹洞宗の模範(軌範)となり、怠慢しないよ
うにすることは、前に述べたとおりです。
  1722年(享保7年)4月1日
       篤信 (6代平戸藩主)押字
       壱岐国  華光寺へ





   
































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