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壱岐国続風土記
(現代語訳)


石田郡武生水邑 
共ニ七巻 

寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)


壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす

指導校正 山西 實     
現代語訳  松崎靖男     
編集協力  吉永 清     
 〃    平田秀子     




壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑村 第十一
 仏閣


 如意山華光寺(にょいざんけこうじ)   壱岐市郷ノ浦町東触字深田

華光寺の由緒

 最初当寺(華光寺)は、佐賀県唐津の領主であった波多家の、弔いの為の焼香を
行なう場所(香火所)でしたが、今は初代平戸藩主法印鎮信公の父である道可隆信
公と松浦宗陽隆信公(3代平戸藩主)の霊を、遠く離れたこの壱岐から拝めるように
した御位牌(遥拝の牌)があります。それで永禄田帳の記述に、7反6畝の水田が
加久院にあると書かれています。
 この寺(華光寺)に波多隠岐守様の奥様妙寿院の御位牌があり、二十三日は亡く
なられた日(忌日)です。それで、高五石を波多隠岐守様より頂き、御墓は華光
寺の後の年ノ尾にあります。
 また山(年ノ尾?)に森様と言う方の御墓があり、日高甲斐守(甲州)より御扶持
方の分、1反6畝を頂きました。よく考えて見ますと、森様と言う方は佐賀県唐
津の領主であられた波多壱岐守(野州刺吏・ママ)(さこう・もり)様だと思います。


(参考迄に)

 私が一支國研究会古文書輪読会より頂いた「壱岐国続風土記」の原文では、
波多盛は野州刺吏と書いてあり、つまり下野守と言うことですが、山口麻太郎翁
の「壱岐国史」やその他の文献では波多盛は壱岐守となっているので、現代語訳
壱岐国続風土記では壱岐守を採用しました。    *上野= 上州・下野=野州



現住職の石門和尚の談話

 華光寺はもとはと言えば、佐賀県唐津にあった波多家の当主の冥福を祈る所
(菩提所)でした。それで、波多家の方々の 霊を祀った場所(御廟)が当山にはたく
さんあります。
 平戸領となった後、松浦法印鎮信公(初代平戸藩主)の指図で、父である道可隆
信公を当寺(華光寺)2度目の創立者(再開基)とし、また壱岐国が平戸藩領になっ
た証拠として、道可隆信公の墓を当山に築かれました。
 その後、宗陽隆信公(3代平戸藩主)に壱岐国を任せられましたので、宗陽隆信公
の墓も年ノ尾に築かれました。道可隆信公と宗陽隆信公の墓は、卵型をした墓
(卵塔)として華光寺にあって、亀尾の館(亀丘城)より 灯籠二張り(一双)づつ贈
られてきて、当番・非番を設けて交替で守られていました。
 さらに当時は、盆や年末年始は華光寺に代参があり、殿様の代参をする人は
付き人(御借人)を連れて参りました。
 しかし山本常永が代官(目代)であった時に、拙僧(石門和尚)は呼ばれて下記の
ように言われました。
「私(山本常永)の父が(家父) 代官(目代)を勤めた時も、付き人(御借人)を連れて
武生水村の妙見宮及び当寺(華光寺)の代参人を勤めました。 私(山本常永)は武生
水村で成長したので、よくこれを知っています。
 しかし近頃は、世の中(一天下)が不景気でいろいろな事を節約するようになっ
たので、平戸に尋ねたところ、もうそのようにハデにする必要はないとの答え
が帰って来ました。
 それでこれからは、盆や年末年始に華光寺への代参は、付き人(御借人)を連れ
て参ることを止めます。もっとも各々が華光寺を信心し、神仏の加護、恩恵
(冥加)を得るための参詣は、今まで通り行っても構いません。武生水村の
妙見宮への参詣も又同じです。」
 拙僧(石門和尚)は話を聞いて、すべて山本常永の考えに従うことにしましたの
で、早速山本常永に次の事を尋ねました。
「元旦の朝は妙見宮より直に華光寺に参詣があるので、毎年午前4時頃から代
参人の退出迄、係りの僧(役僧)二人が詰めています。これも止めるべきでしょ
うか、如何致しましょう。」と質問をしたら、山本常永は係りの僧(役僧)の詰め
も止めるべきだと答えました。
 それ以後は、代官(目代)の参詣は殿様の代参としてではなく、個人としての
参詣となり、灯籠も一張ずつとなりました。
 華光寺の盆念仏の行事は村々より来て、そして念仏坊の頭が道可隆信公と宗
陽隆信公の両墓次いで客殿の庭にて念仏を唱へます。また正月16日にも両墓に
念仏頭が、念仏はじめを行うことが今でも続いています。
 それから境内に龍珠院(5代平戸藩主の長男)の御墓があり、墓を築いた年より
7回忌迄は、亀尾の館(亀丘城)より灯籠が毎年2張りずつ贈られました。そして
郡代や壱岐国の武士(国士)達も思い思いの灯籠をかかげて弔いました。
 また龍珠院の母である松林院(5代平戸藩主棟公の側室)が、その死を悼まれて
(愁傷)御位牌と香炉・花瓶・燭台の三つの仏具(三具足)を、供養するためのお金
(祠堂金)五両を添えて霊膳に捧げ、永く怠りなく供養するように命ぜられました。
それで、6月9日の祥月命日と7月9日の両日に供養(済施餓鬼)が行われ、松林
院が生存されている間は、供養料として毎年銭5貫文(二百疋・ママ)が送られて
来ていました。
 これは、松林院が奥田四郎左衛門に、前記供養を行なうよう詳細に言い付け
られたことによるものです。


什物(じゅうもつ・什器や宝物)一覧

 仏壇(厨子・ずし)に入った仏塔形の工芸品(舎利塔・しゃりとう)が一基あり、高さ
26.9cm(八寸九分)です。 また仏壇(厨子・ずし)は高さ33.3cm(壱尺壱寸)・幅14.5cm
(四寸八分)で、四つの門扉があり、金銀の装飾が施してあります。これは猷山和
(華光寺十一世猷山石髄)が、最上山形に於いて法華経を講じた時に、最上の殿様
(新庄藩戸沢氏か?)の奥様より賜わったものです。

 絹地に縫われた涅槃像(ねはんぞう)が一幅あり、 金襴(きんらん)の表具で仕立て
られた幅の大きな物です。当寺(華光寺)の 大秀和尚(十世獨外大秀和尚)の代に、多
くの人の助力によって作られました。

 菩提樹の下で悟りを開いた釈迦像(樹葉座釈迦像・じゅようざしゃかぞう)の絵が一幅
あり、これは山水画の巨匠である雪舟の弟子甫雪(ほせつ)が書いたもので猷山和
(華光寺十一世猷山石髄)が寄附された物です。

 一峰和尚が百歳の元旦に詠まれた詩歌を書いた物が一幅あります。
この詩歌は、下関の僧呂である一峰和尚は百三歳で亡くなられましたが(寂)
百歳の時に朝廷より紫の袈裟(紫衣・しえ)を戴きましたので、その時に詠まれた
ものです。

辰歳旦福禄寿星宿母胎離家薙髪作僧来六根不欠百齢満水自東流花自満(原文)
辰年の元旦、福禄寿の星(南極星の化身)母体に宿る。家を離れ、
頭髪を剃り、僧となって以来、六根の罪過を懺悔すること、百歳になるまで
欠かすことはなかった。しこうして、水は自ずと東に流れ、花は自ずと満つる。


私には上記の部分は、よく理解できませんでしたので、山西先生にお願いして
訳して貰いました。

百歳で朝廷より紫の袈裟(紫衣・しえ)を戴いた一峰和尚の書
 あひをい (相生・あいおい)の梅に 入るてふ (という)百千鳥 (ももちどり)
 囀る(さえずる)はる(春)は こころ(心)長閑(のど)けし

この一峰和尚の書は石髄和尚(華光寺十一世猷山石髄)が贈られたものです。

 大般若経が全部で六箱あり、これは大昔の朝鮮人の書本を、波多三河守の先
祖が寄進したものです。それから前年当寺(華光寺)が火災にあってこれを焼失し、
それ以来寺物を貯えて、やっと再び揃える事が出来た品です。

 大蔵経(一代蔵経)の経典全巻の内、 1338部(冊)7339巻(軸)があります。

 琥珀(こはく)の数珠が一連あり、百八の真紅の総(ふさ)が付いたもので、これ
は長崎の流人、長福院の比丘尼が寄進したものです。

金襴で出来た僧の正装衣(僧伽梨衣・そうぎゃりえ)が一肩あり、

 但黒繻珍之合切雜也道可居士室傳来阿蘭陀渡物源鎮信賜前住万室(原文)
 但し黒繻珍(くろじゅちん)之合切雜(織物・布地)也。 道可居士ノ室の
 阿蘭陀(オランダ)伝来の渡物(舶来品)を源鎮信が前住万室に賜う。

 於武家縁不為重宝也是後猷山石髓裏替縁破損也(原文)

この部分は、よく理解できませんでしたので、訳していません。

西国三十三所観音霊地之土砂石(どしゃせき)

四国八十八所之土砂石      山城愛宕山之土砂石
近江多賀之土砂石         山城稲荷之土砂石
山城祇園之土砂石         安藝厳島之土砂石
摂津生玉之土砂石         摂津住吉之土砂石
山城松尾之土砂石         讃岐金毘羅之土砂石
信濃善光寺土砂石         紀伊高野山之土砂石


(参考迄に)

 大蔵経の全巻は、唐代には1,076部5,048巻あり、新訳経の追加や遺漏の
補充がなされ大蔵経の規模はますます大きくなり、大正から昭和の初頭に
かけて刊行された『大正新修大蔵経』は、3,053部11,970巻もあるそうです。
 土砂石は御土砂のことか?御土砂であるならば、密教で行う土砂加持に
用いる洗い清めた白砂の事で、死体にかけると硬直がなくなり、死者の罪業を
除くことが出来ると言う。仏教用語は難しくよくはわかりませんが、とにかく
霊験あらたかな石か砂なので しょう。


華光寺に保管されている記録書類一覧

壱岐華光寺(けこうじ)の末寺改め帳 1692年(元禄5年)に改めました。
壱岐国曹洞宗(そうとうしゅう)本寺・末寺の改め帳
壱岐華光寺並びに末寺の境内改め帳
壱岐国の曹洞宗諸寺院の開山の事
華光寺の支配、並びに門主の触れ下し
諸寺院並びに堂数・本尊の改め帳
華光寺・末寺に掛る所の堂の諸事改め帳
諸寺院並びに堂数・本尊改め書き出し控え 1703年(元禄16年)
1692年(元禄5年)の寺領の御判物(花押を署して下達した文書)の写し
国守の触状の写し        二巻
両本山(華光寺・竜蔵寺?)の壁書(家法・掟書きなど)の触状写   二巻
末寺の世代記
1695年(元禄8年)雪月(ゆきづき・陰暦の12月)御先代の御判拝領の覚え


歴代住職の履歴及び事跡

華渓院開山の僧は覚叟大円(かくそうだいえん)和尚
 佐賀県唐津に生れ、1330年(元徳2年)2月1日に亡くなられ(遷化)、壱岐市
郷ノ浦町渡良地区船越の江画像ファイル(こうろうけん)の 境内に葬られました。

2世住職は養雲昌育(よううんしょういく)和尚(座元)
 壱岐の生れで1348年(貞和4年)10月24日に、亡くなられました(遷化)

3世住職は融峯祝公(ゆうほうしゅくこう)和尚(庵主)
 壱岐の生れで1384年(至徳元年)7月29日に、亡くなられました(遷化)

4世住職は栄室松厳(えいしつしょうげん)和尚(首座)
 佐賀県の生れで1426年(応永33年)5月27日に、亡くなられました(遷化)

 華光寺には是より後、長い間住職を勤める和尚がいなくて、その間は留守番
の僧呂(看坊)が住んで管理していました。

5世住職は松室通岩(しょうしつつうがん)和尚(座元)
 壱岐の生れで1501年(文亀元年)10月22日に、亡くなられました(遷化)

住職ではなかった(前住)梅室春香(ばいしつしゅんこう)和尚(庵主)
 1530年(享禄3年)5月26日に、亡くなられました(遷化)

華光寺開山の僧は宗雲長禅(そううんちょうぜん)大和尚
 佐賀県唐津市の生れで波多氏の一族です。特別に優れた高僧で、山口県長門
市の大寧寺十世奇伯瑞画像ファイル(きはくずいほう)和尚の弟子です。ですから、華渓院を受
け継いだ時に華光寺と改名し、世代を改めて新たに開山としました。

(見好書の記述)
 壱岐の華光寺住職 宗雲和尚は、佐賀県唐津市の生まれで、唐津付近を支配し
ていた領主である波多氏の一族です。
 宗雲和尚が出身地の唐津で、古い墓の辺りを通った時に「もしもし」という
声がしたので、ふり返って見れば誰もいないのに、また声がしました。
「私は墓の古霊です。子孫が昨日の夕方、私のために供養し僧侶にお布施をし
ましたが、仏の教えを破って僧侶は酒をのみ、子孫は肉を食べました。此の仏
の教えを破った罪が私に報い、昇天することを妨げています。」
 宗雲和尚は、古霊に昇天する事が出来るようにと頼まれたので、子孫を呼ん
で仏法に従って勤めを行なうように告げ、さらに「古霊の望むように親身にな
って法事を執り行なうようにしなさい」と言いました。
 そして古霊に向って、「徳のある僧の法力だから罪が消滅して昇天する事が
出来るようになった」と語りました。
 宗雲和尚は古霊を救った其の翌年に、華光寺の住職となり寺に入られました。

(2世住職長喜(ちょうき)和尚の記述)
 情けない事に末世の僧侶の風俗は、仏の教えを守る者を逆に非難して、僧侶
同士や僧侶と世間一般の人々の心を離れさせます。ですから仏の教えを敬うこ
とが世間一般の人々よりも劣り、このような有様なので、日々に仏の教えが衰
えて行きます。
 偶然にも、そこに貴い僧が居ればその徳をあなどるなど、これはすべて末世
の風俗にして浅ましい限りです。仏の正しい教え(正法)を復活させる志を広く
世間一般に喚起することが大変に大事なことです。

(過去帳の記述)
 開山僧は宗雲長禅(そううんちょうぜん)大和尚で、1539年
(天文8年)10月8日に亡くなられた(遷化)と書かれています。


華光寺中興の僧は異雪慶珠(いせつけいしゅ)和尚
 山口県長門市の大寧寺13世住職でもありました。壱岐市郷ノ浦町物部触に生
れ、1558年(永禄元年)の夏 堂にこもって修行をされ(結制安居)、10月25日に大
寧寺を中興された四世住職竹居和尚百年忌の法事を行なわれました。
 異雪和尚は山口県長門市の大寧寺より華光寺の住職となられましたが、山口
県の殿様(大内義隆)より大寧寺へ戻るように2度も使者船が来ました。ですから
大寧寺に再び戻られ、その後山口県山口市の龍福寺に隠居して1564年(永禄7年)
10月17日に亡くなられました(遷化)。それで龍福寺の中興とされています。
 山口県の殿様であった大内義隆公が尊敬し教えを受けた(帰依)僧で、壱岐市
郷ノ浦町物部触金谷寺の開山僧でもあられます。


2世住職は歓笑長喜(かんしょうちょうき)和尚
 壱岐の生れで1566年(永禄9年)4月8日に住職を継がれ、1594年(文禄3年)
10月21日に亡くなられました(遷化)
 長喜和尚の代に豊臣秀吉公の朝鮮出兵が始まり、武生水村の亀尾城にて、戦
勝及び航海安全を神仏に願う為の祈り(祈祷)が行われその筆頭(番頭)を務めら
れました。祈りは諸宗派の僧侶が十二人ずつ交代で勤めて、宝幢庵(ほうとうあん)
と宝積寺(ほうせきじ)が宿泊施設となりました。
 警護は国中の六十才以上の足軽に命じ、船荷の揚げ降ろしは無役の人々に
務めさせ、念仏坊がこれを使いました。長喜和尚が亡くなられた後は能山和尚
(華光寺三世住職)が祈りの筆頭(番頭)を勤められました。

(見好書の記述)
 華光寺住職の長喜和尚が、東国を仏道修行のために歩いていた(行脚)とき、
箱根を通って三島に向かう途中で、急に日が暮れました。道の左に明り(火)
見えましたので、尋ねて行けば寺でした。
 中に入れば僧侶と一般の人々が一緒にいて、暫らくして赤と青の2匹の鬼が
来て大罪と小罪とを述べました。すぐ(即時)に一人の大罪を、厳しくとがめて
長時間叱っています。
 よく見れば私の兄弟子の伝光でした。私を見て涙を流し泣いて言いました。
私と貴方とは一門の兄弟弟子だった。私はいたずらに年月を過ごし、責めに
あっています。
 まして私には三の怠(おこたり)があります。
一つめは母に孝行しませんでした、此れは大罪です。二つめは仏の恩を忘れて
先祖の恩に背いた罪です。三つめは寺の恩を沢山受けたのに、信者が仏にささ
げたお布施を使ってしまいました。
此の三つの過ちがあるために、四六時中責めにあっています。
 貴方に頼みます。箱根の念仏堂で御経を唱え、水をあげてもらえば、この責
めを免(まぬが)れます。長喜和尚がこれを承諾すると、たちまち寺が元の野原と
なりました。
 最後に念仏堂において一日一夜御経を唱えて水を手向け、兄弟子のために
成仏を願う供養を行なって終わりました。これで絶対に伝光が成仏をした
ことは間違いありません。
 帰国の日、兄弟子である伝光の一家に告げて又法事を執り行ないました。

三世能山長察(のうざんちょうさつ)和尚
 山口県下関市の生れで、1594年(文禄3年)10月より亀尾城(かめのおじょう)
戦勝及び航海安全を神仏に願う為の祈り(祈祷)の筆頭を勤められました。
 1601年(慶長六年)の秋に発病し野族軒(やぞくけん)と言う別棟の小寺院に隠居
して移られました。だから郷ノ浦町沼津地区古渓寺の三世英庵和尚が留守番の
(看坊)として七年勤められました。1607年(慶長12年)英庵和尚の弟子が殿様
に拝謁して住職となりました。
 能山長察和尚は、1609年(慶長14年)9月7日に亡くなられました(遷化)


四世泰叟永通(たいそうえいつう)和尚
 壱岐市の生れで、1607年(慶長12年)10月21日に住職を継がれ、1618年
(元和4年)7月16日に亡くなられました(遷化)

(見好書の記述)
 壱岐華光寺住職 泰叟和尚の卵型をした墓の前に六地蔵の石体があって、
凶悪な男が石を以って顔面を恐れもなく打ち砕きました。
 この凶悪な男がその日から急に身体手足に瘡(かさ)が吹き出て、顔面が
まったいらになり、見苦しくて中々人に会えない状態になりました。
 この凶悪な男の所在を人に聞けば中尾の辺りとも庄の辺りとも言い、
私が厳しく責める事を恐れて、はっきりと話してくれません。
頃は元禄年中(1688年〜1704年)9月の事でした。

住職ではなかった(前住)聖岩長賢(せいがんちょうけん)和尚
 佐賀県唐津市の生れで、住職を継ぐことなく留守番の僧侶(看坊)でした。
 1622年(元和8年)4月25日に亡くなられました(遷化)

住職ではなかった(前住)明翁峯鑑(めいおうほうかん)和尚
 壱岐の生れで、住職を継ぐことなく庶務係りの僧侶(監寺)でした。
 1637年(寛永14年)9月25日に亡くなられました(遷化)

五世 大寧十八世 鉄村玄族鳥(てっそんげんぞくちょう)和尚
 福岡県の生れで、四世泰叟以後住職がいなくて留守番の僧侶(看坊)
ばかりなので、大寧寺の任命により来られ、1638年(寛永15年)
10月12日に亡くなられました(遷化)


六世 萬宝大鐘(ばんぽうだいしょう)和尚
(現住職の石門和尚の説)
 壱岐の生れで、天祥鎮信公(4代平戸藩主)が尊敬し教えを受けられたことにより
(帰依)、本堂(華光寺の)を建立されました。奉行は牧山次郎右衛門で、建築現場
の監督は吉木軍兵衛です。
 客殿は殿様が2度も建てられたと言われますが、初めの建立から三年して炎
上し、後の建立も、又三年して炎上してしまいました。
 其の翌年には華光寺が自ら建立し、曹洞宗一門中の加勢を受けました。
 さらに其の翌年には禅僧を集めての修行(江湖)を行い、殿様より白銀十枚を
拝領しました。 

 また天祥鎮信公の命により、平戸城下の良雲寺に出て行き、住職を薦められ
ました。理由は天祥鎮信公が尊敬し教えを受けられた(帰依)事によるものです。
 しかしながら隠居し年老いているので、断りましたところ壱岐市郷ノ浦町の
御津に造られた茶屋に捨て置かれました。
 この後、華光寺の隠居所を乞うと御津にあった茶屋を志原にある、日高甲斐
守の弟であり、存命中から勝国山を名乗っていた日高信助の館に移設して賜わ
りました。
 今萬鐘院と言われるのはここの事で、勝国山は信助の戒名で存命中から勝国
山と名乗り、萬鐘院は萬宝大鐘和尚が開基に由来するものです。
 萬宝和尚は殿様に拝謁の際も、行き帰りの船も殿様のもてなしを受けました。

 また郷ノ浦町志原の内で、川上の一谷に高二十石の地割り対象外(請地)の水
田が、前妻・双六・長野・帯田に4反の地割り対象外(請地)の畑があります。
元禄15年(1702年)冬の地割りの時、4反を村民が割り取りました。この後、
宝永年中(1704年〜1711年)の地割りの時、川上の水田から1町ばかりを村民が
割り取りました。
 だから石髄(華光寺十一世)は武生水の城代助役 後藤彦次右衛門に訴えました。
そして農地として地割り対象外の土地(請地)の由来を述べました。

 彦次右衛門は地割り役人を呼び出して、取調べをいたしました。農長の松本
清右衛門が農地として地割り対象外の土地(請地)と言うが証文も無く、また田
の事を清書した公的な帳簿(田清帳)にも載ってもいない、だから村民が、割り取
ったと言っている。
 それならばしかたがないとなり、村民が得をしました。

(過去帳の記述)
 大鐘和尚は、1660年(万治三年)11月23日に亡くなられたとあります(遷化)

(参考迄に)
 私が一支國研究会古文書輪読会より頂いた「壱岐国続風土記」の原文では、
六世萬宝大鐘和尚の個所は、各出来事が入り混じって書かれ読み辛いので、
本堂(客殿)の事、萬鐘院の事、地割りの事と文章を整理して書きましたので、
原文と文章の順番が違う事を御了承 下さい。


七世 関室族鳥門(せきしつぞくちょうもん)和尚
 壱岐の生れで、1662年(寛文二年)正月28日に亡くなられました(遷化)


八世 自鳳雄暾(じほうゆうとん)和尚
 壱岐の生れで1671年(寛文11年)4月9日亡くなられました(遷化)
 此の和尚の代に総本寺(永平寺?)の掟書きが山口県の大寧寺より来ました。
龍蔵寺に保管されている間に、一通が二通に書き変えられました。
 この後鎮山和尚(華光寺九世住職)の代に言い争いが起り、大寧寺二十四世の
灯外和尚が調べた結果、一枚の掟書き半分より前の書き変えた物は華光寺が
所持し、半分より後の書き変えた物は龍蔵寺が所持しています。
 華光寺にあたる所は真押字(おうじ・花押)で、龍蔵寺にあたる所は偽押字ですが、
両通ともに大寧寺に取り上げられました。
 なお、以後の裁許状(さいきょじょう)と考合せ見て下さい。


九世 鎭山栄宅(ちんざんえいたく)和尚
 壱岐の生れで、この和尚の代(1674年・延宝二年)に龍蔵寺との本寺についての
言い争いが起り、龍蔵寺が亀尾城へ本寺について根回しをした事により騒ぎと
なりました。
 それで華光寺が龍蔵寺の末寺に決まろうとした時に、壱岐市郷ノ浦町渡良
地区の東岳院僧呂の嶺音(れいおん)が傍(かたわ)らより言い出しました。
「今度の両寺の騒ぎは、平戸藩の御領内のことですが、壱岐曹洞宗の本寺は
山口県の大寧寺が決め、昔より今日まで華光寺が勤めてきました。もし大寧寺
が納得しなければ他国との事だから、平戸松浦家の殿様と長州(山口県)毛利家の
殿様の争いになったら、どうするんですか」と。
 奉行衆は立場を越えたこの出過ぎを叱りましたが、嶺音は更に意見を言い、
この件を白紙に戻します。ですから両寺の争いは放置できない重大な出来事に
なろうとしていました。
 それで大寧寺に使者を遣わしたことで、大寧寺が近頃この件を扱い和睦を
させました。扱帖(あつかいちょう)はありますが、今はこれを略します。
 鎭山和尚は1679年(延宝7年)正月13日に亡くなられました(遷化)


十世 獨外大秀(どくがいだいしゅう)和尚
 壱岐の生れで、初めて梵鐘を鋳させて楼門を建て、御釈迦様が亡くなられる
時の寝姿(涅槃像)を布に縫い、禅僧を集めて修行(江湖)を行なわれました。
 1698年(元禄11年)4月6日亡くなられました。(遷化)


十一世 猷山石髄(ゆうざんせきずい)和尚
 壱岐の生れで、庫裡(くり)・知客寮及び観音堂を建てられ、巡礼観音三十三体
及び華光寺の開山僧である宗雲長禅大和尚の像・自分の像を彫刻し、新書十二
部を編集され、いろいろな所において説法三昧の人生を過ごし、華光寺に禅僧
を集めての修行(江湖)を4回行い、末寺でも7ヶ所で禅僧を集めて修行(江湖)
を9回行なわれました。
 このことが殿様の耳にまで聞え、家老の奉書が来ました。

(奉書の記述)
 一筆啓上、先頃 平戸への御出府のおりは旨い具合に殿様との面会が済み
御目出度いことです。
 されば貴僧は学問も徳も在り行跡も宜しいので、末寺の僧だけでなく壱岐
国中の僧まで、生活態度が良くなったと聞かれ、大変に喜ばれています。
ますます末寺の僧や壱岐国中の僧にまで、仏法修行を怠らず励むよう望まれて
います。右の考えを言い伝えるよう仰せられた処、早くも出船に付き、このよ
うに述べたらずになりました。                謹言
 八月六日
   熊沢右衛門八  正勝 押字
   村松伊織    正  押字
   松浦作右衛門  虎正 押字
   松浦求馬    信久 押字
 華光寺


 1694年(元禄7年)春に龍蔵寺の賢嵬(けいかい)和尚と、壱岐曹洞宗の本寺を
めぐる言い争いが起り、華光寺が山口県の大寧寺に訴えました。
 大寧寺の了譚和尚(前住)は1674年(延宝2年・鎭山和尚の代)の五ヶ寺の取り扱い
の例に任せ、これを判断しました。

(了譚和尚の書状)
 一つ壱岐華光寺の石髄長老は、同じく壱岐龍蔵寺の賢嵬長老に対して、壱岐
国曹洞宗の支配並びに席次争いの事を、口上書を以って大寧寺に訴えて来まし
たので、龍蔵寺を呼び出して返答書を提出させました。
 当寺(大寧寺)が細かい点まで調べた処、先年の1674年(延宝2年・鎭山和尚の代)
の春の言い争いのときには、五ヶ寺の取り扱いの判断は間違い無く昔より両寺
において支配を行って来た事、其の証拠も明らかです。その事で殿様の御黒印
も右の通り見えます。
 ですから華光寺は当山(大寧寺) 十世奇伯瑞画像ファイル(きはくずいほう)和尚の弟子である
宗雲長禅(そううんちょうぜん)和尚の開山、龍蔵寺は当山(大寧寺)十三世異雪和尚
の開山した所です。
 前述したように華光寺は龍蔵寺よりも歴史の古い寺で、他の国に於いてもそ
のような例が有りますので、いまより以後 席次は華光寺が上座に坐るべきです。
それで当山(大寧寺)集会等の節の席次も、先に決めた通りにすべきです。
 尤も双方の口上書を細かに解明すれば、裁許の品も有ると言うが、両寺共に
当山(大寧寺)の一門の分れなので、心の中に隠したてすること無く意見を交わし
て、言い争いを止めるようにしなさい。
 これ以後は、両寺にてますます壱岐曹洞宗末寺の指導を行い、いろいろな事
に言い争いをしないで仲良くし、仏の教えを広めるようにしなさい。

 1694年(元禄7年)甲戌(きのえいぬ)   大寧寺
     5月21日   了譚(りょうたん)
 壱州   華光寺


 翌年の1695年に華光寺は江戸まで出向き、松浦棟公(五代平戸藩主)に訴えます。
 松浦棟(たかし)公は幕府の寺社奉行が交代して間もないので、それゆえに安国
山総寧寺、太平山大中寺、長昌山竜穏寺の曹洞宗関東三ヶ寺を招いて、この事
の是非を判断された。

(松浦棟公の書状)
 今度の華光寺石髓(せきずい)和尚と龍蔵寺賢嵬(けんかい)和尚との、壱岐国
曹洞宗の指揮並びに宗派の本寺言い争いに就いて、華光寺が江戸まで出て
来て訴えたので、龍蔵寺を呼び寄せ真相を明らかにした。
 1674年(延宝2年・鎭山和尚の代)3月山口県大寧寺に於いて、両寺が意見を
言い争った時の五ヶ寺取り扱いの書状、去年の1694年(元禄7年)5月大寧寺
了譚和尚(前住)が判断をした書状及び両寺の証書等を調べたが、昔より華光寺
だけによる壱岐曹洞宗の単独支配は、其の証拠がはっきりとはしない。
 なかでも1674年(延宝2年)の春の言い争いを止めた後、壱岐曹洞宗末寺の
諸寺院を華光寺と龍蔵寺が優劣無く、これを指揮していると、1689年(元禄2年)
3月に答えた所、曹洞宗関東三ヶ寺の連書に壱岐曹洞宗の末寺は、両寺にて
支配させる旨これを載せている。どの点からみても壱岐曹洞宗の末寺を両寺が
指揮することは明らかである。

(注意)
 松浦棟公の書状で、◎から◎の部分は、華光寺と龍蔵寺の関係について訳して
書いていますが、私自身も断片的にしか理解出来ず、文章としてよく読めないと
思います。興味のある方は原文の方を御覧下さ い。


◎ その上に、龍蔵寺の先師剛岳禅全(ごうがくぜんぜん)和尚は、始め大寧寺十三
世異雪(いせつ)和尚の直接の弟子である山口県山口市龍福寺の 住職 亀川画像ファイル
(ほうりん)和尚に付き従っていたが、自分が龍蔵寺住職を継いだ事(嗣法)を証明
する為に、華光寺三世能山和尚に住職を継いだ事の正当性(伝法)を認めて貰い、
それ以来龍蔵寺は華光寺の末寺と成る。
 なのに亀川和尚は歴代住職の系図(法脈)を書き替え(系削)、また大寧寺十二
世亀洋宗鑑(きようそうかん)の名前の書かれた木札(牌銘)を立て、開山とする。
 だから近年本寺である大寧寺に聞え、亀洋和尚の名前が書かれた木札(牌銘)
を除くようにと石髓和尚が主張したので、曹洞宗関東三寺を招いて両寺の
歴代住職の事跡を記した書物(嗣書)と歴代住職の系図(法脈)等を開き見る
ことになった。
 華光寺の歴代住職の事跡を記した書物(嗣書)の側に禅金(剛岳禅全?)の署名
(判形)能山が授け与え(附与)、 禪金(剛岳禅全?)この事を、歴代住職の事跡を
記した書物(嗣書)に付け加えて書いたが(附記)が、 歴代住職の系図(法脈)には
載せませんでした。
この証明は華光寺四世泰叟(たいそう)和尚が書いた歴代住職の系図(法脈)
写したもの(在判)が龍蔵寺には有る。
 異雪和尚が、後世に伝える為末期に臨んで残した詩や身に付けていた法衣が
龍蔵寺に有り、当寺(龍蔵寺)の開山僧である異雪和尚の法衣です、とこれを記し
た禅金(剛岳禅全?)の承認の判がここに明らかに見える。
 その上に本寺である大寧寺二十四世灯外和尚が、亀川和尚を除いて改めて
異雪和尚の直接の教えを以って、ここに後の証拠とする。◎

 これ以後は不服など言わず、本寺の使者に逆らう事なく従い、この事
壱岐曹洞宗一派の指揮及び座位の席次、その他去年の夏大寧寺了譚の
判断した趣旨を、ますます固く守りひたすら融和し、逆らって背くような
事があってはいけない。
 壱岐曹洞宗一門の諸寺院は将来に亘ってこれを守り、儀礼等の決まりを
怠ることのないようにしなさい。後の参考になるようにこれを書き記し、
双方へこれを与えるものである。

 1695年(元禄8)4月12日 壱岐守(平戸松浦五代藩主棟)
             壱州石田郡武生水村
                華光寺(十一世石髄)


 石髓和尚は1731年(享保16年)3月19日に亡くなられました。(遷化)

(石門和尚の談話)
 亡くなられた師匠の石髓和尚は、一生仏教の経典を民衆の前で講じられまし
た。いわゆる法華経・梵綱経・恩重経・地蔵経・薬師経・円覚経・因果経等で
す。
(如意山の記事)
 石門和尚と交代の後、石髓和尚は福岡県の宗性寺(しゅうせいじ)や佐賀県の唐
津・名護屋、長崎県の平戸地方で、それぞれ寺の集まりで説経を行われました。


住職ではなかった金峯長連(きんぽうちょうれん)和尚
 父は横田某(なにがし)、出家して対馬市尾崎龍蔵寺の住職となりました。金峯
長連和尚の為に法衣を送り、だから前住に成ることが出来ました。理由は肉親
であることや故郷である為です。

住職ではなかった亀雄英鶴(きゆうえいかく)和尚
 鎮山(華光寺9世住職)和尚・独外(華光寺10世住職)和尚の 両僧に出世銀及び客殿
の柱代を出し、法会や葬式で導師につき従う僧(伴僧)を勤めました。
 だからあけて前住と成りました。1674年(延宝2年)に亡くなられました(遷化)

前住心海長伝(しんかいちょうでん)和尚
 宝永6年(1709年)7月6日に亡くなられました(遷化)

現住石門(せきもん)和尚
 1720年(享保5年)春に住職となって寺に入る(入院・じゅいん)
 1721年(享保6年)夏に江湖興行
 1722年(享保7年)春に梅津新田の開発を始める
 1725年(享保10年)春に至るも未だ成就せず。
 また客殿堂及び土蔵・樓門を修理し安興寺及び廊下・後庇(こうひ)を建立し
 西光寺・金谷寺・太平寺・圓光寺等の江湖に円覚経及び起信論を講ずる。





   
































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