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壱岐国続風土記



壱岐国続風土記
(読み下し)


石田郡武生水邑 
共ニ七巻 



寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)


壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす




指導校正  山西 實     
読み下し 松崎靖男     
編集協力  吉永 清     




壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑村 第十二
 仏閣


西国順礼堂   如意山(華光寺)境内
本尊は聖観音(しょうかんのん)の坐像で高さ九寸二分(27.8cm)、 地蔵大士の坐像は
高さ七寸四分(21.8cm)、西国三十三所を勧請したものです。

第一番は紀伊の国熊野那智山(なちざん)で、如意輪坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第二番は同国紀三井寺(きみいでら)で、十一面立像(りゅうぞう) 高さ九寸八分(29.6cm)
第三番は同国粉川寺(こかわでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第四番は和泉の国槙尾寺(まきのおでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第五番は河内の国藤井寺(ふじいてら=葛井寺とも書く)、で 千手坐像高さ五寸九分(17.8cm)

第六番は大和の国壺坂寺(つぼさかでら)で、同坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第七番は大和の国岡寺(おかでら)で、如意輪坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第八番は同国長谷寺(はせでら)で、十一面立像高さ九寸八分(29.6cm)
第九番は同国奈良南閻寺(なんえんじ)で、三面六臂坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第十番は山城の国宇治御室戸(みむろと)で、 千手立像高さ九寸八分(29.6cm)

第十一番は同国上醍醐寺(かみだいごじ)で、 三面八臂坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第十二番は近江の国岩間寺(いわまでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第十三番は同国石山寺(いしやまでら)で、如意輪坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第十四番は同国大津三井寺(みいでら)で如意輪坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第十五番は山城の国京新熊野観音寺(かんのんじ)で、 十一面立像高さ九寸八分(29.6cm)

第十六番は同国清水寺(きよみずでら)で千手立像長九寸八分(29.6cm)
第十七番は同国六波羅寺(正しくは六波羅密寺)で、 十一面立像高さ九寸八分(29.6cm)
第十八番は同京六角堂(ろっかくどう)で、如意輪坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第十九番は同一条講堂(いちじょうこうどう)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿番は同善峯寺(よしみねでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)

第廿一番は丹波の国穴太寺(あなおでら)で、 聖観音立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿二番は摂津の国総持寺(そうじじ)で、十一面立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿三番は同国勝尾寺(かつのおでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿四番は同国中山寺(なかやまでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿五番は播磨の国清水寺(きよみずでら)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)

第廿六番は同国法華寺(ほっけじ)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿七番は同国書写(しょしゃ)寺で、如意輪坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第廿八番は丹後の国成合清浄寺(なりあいせいじょうじ)で、 聖観音立像高さ九寸八分(29.6cm)
第廿九番は若狭の国松尾寺(まつおじ)で馬頭観音坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第三十番は近江の国竹生嶋(ちくぶじま)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)

第三十一番は同国長命寺(ちょうめいじ)で、聖観音坐像高さ五寸九分(17.8cm)
第三十二番は同国観音寺(かんのんじ)で、千手立像高さ九寸八分(29.6cm)
第三十三番は美濃の国谷汲寺(たにぐみでら)で、十一面立像高さ九寸八分(29.6cm)

 堂       茅葺(かやぶき)
   梁行(はりゆき)は二間半(約4.5m)、 桁行(けたゆき)は二間半(約4.5m)

 石階(せっかい)   五十二階
   竪(たて)十五間(27m)   幅四尺(1.2m)
   但し堂地より華光寺の庭に至る

 堂地
   東西十二間(22m) 南北七間(12.7m)

堂主   華光禅寺


当堂は補陀山(*注1)を勧請した物です。
石髓和尚(華光寺十一世)が記すには、 壱州如意山(華光寺)の補陀巌(ふだがん)
玉堂において、私(石髓和尚)は宝祚長久(*注2)国家安全の祈祷として、 毎年水無月
菩提道場(*注3)で修行し、仏法繁昌を祈ることを怠らず。
享保二年(1717年)丁酉(ひのととり)六月十七日に、例のごとくこれを修行しまし
た。その夜の夢に、私(石髓和尚)が 玉堂において丹誠無二(たんせいむに)に勤めてい
ると、補陀の教主(*注4)が蓮を持って、私(石髓和尚)に向かって言いました。
「貴方(石髓和尚)の祈る所の願いは、天に通じ天帝も感心しておられます。必ず
国を利し、生あるものを救済しなさい。そのようにすれば、貴方(石髓和尚)は七生
(*注5)幸福な家庭に生れ、幸せになれますと。
辺地(*注6)の者は仏への信仰を忘れ、 三宝(*注7)を敬うことをしません。この
ような者を救済する時は、さらに徳を積むことになります。この蓮華は、生仏一如
(*注8)を表し示しています。 ですから、いま貴方(石髓和尚)に与えます。」と私(石
髓和尚)の手に渡されました。
有難くこれを頂戴すると夢が覚めました。夜半すぐに堂に登り、観音像三十三体
を拝し奉り信をとりました。誠に仏法には盛衰はありません。
故に無間(*注9)に祈るときは、 妙(*注10)を得、徳(*注11)を得るものです。ただ、
仏法の妙や徳を得るも失うも、それは人にあります。

注 1・補陀山(ふださん・観音が住むという八角形の山)
注 2・宝祚長久(ほうそちょうきゅう・皇位が永く続くこと)
注 3・菩提道場(ぼだいどうじょう・仏道を修行する場所)
注 4・補陀の教主(ふだのきょうしゅ・観世音菩薩か?)
注 5・七生(しちしょう・永遠)
注 6・辺地(へんぢ・阿弥陀仏の本願を疑いながら極楽往生を願った者の生まれる所。)
注 7・三宝(さんぽう・仏、仏法、仏僧の三つの宝)
注 8・生仏一如(しょうぶついちにょ・迷いの衆生と悟りの仏が、 その本性においてはまったく同一である)
注 9・無間(むげん・絶え間のないこと)
注10・妙(みょう・いうにいわれぬほどすぐれていること)
注11・徳(とく・精神の修養によってその身に得たすぐれた品性)


石髓和尚が、又次のように云いました。
毎年三月十八日は、如意山補陀巌の祭礼日です。この祭礼日に老女がいて、立願
(*注1)することは、嫁が難産に逢い九死(*注2)の状態だと。 医者の云うには、「二
日の内に死んでしまうだろう」と。
ここにおいて老女は、心を尽くして嫁の長命を祈る。嫁の命が助かれば、すぐに
二夜三日籠り、普門品(ふもんぼん・観音経)三十三巻を誦し(*注3)、香花等を献じて
一心に礼を尽しますと。
すると不思議な事に、その時より快気し五日のうちに、健康なもとの体となりま
した。遂に願望成就したので、同族の者が大士(だいし・観世音菩薩)を敬うこと尋常
ではありません。
産後の嫁の病が治った事をすべての人が見聞し、観世音菩薩に祈願を込め、御利
益を得ようとします。
しかし、各々愚なるゆえ(信心が足りない為?)諸々の願いは成就しませんでした。
でも絶対に聖躰(この場合、観世音菩薩か?)を恨むような事があってはいけません。

石髓和尚が、更に云いました。
女の人が補陀巌に詣でて、密に堂主に語って云いました。「隣の家に悪女がいて、
私を呪って殺そうと望んでいます。出来ることならば、かの悪女を呪って殺して下
さい」と。
そこで、私(石髓和尚)が逢って諌めて云いました。「人を祈らば穴二ツほれ祈りまさ
に呪に通じるべし」と云う古語があります。祈る方も祈られる方も、二人共に日を並べ
て死んでしまうと。然れば此の願いは悪願です。古人が云う、「人を破るものは己
を傷つける」と。
ただ貴女が今日より、かの女と親身になって付き合いをすれば、遂には兄弟のよ
うになれると。ここにおいて此の女の心は、長閑(のどか)となり、私(石髓和尚)が
教えに随う故に、双方に隔心(かくしん・へだてごころ)がなくなり、後には家族同然と
思うようになり、遂に二女は同行して補陀巌に詣でた時、共に供養を執り行いまし
た。
世間は唯 是(ぜ)を非(ひ)となすことを知って、非(ひ)を是(ぜ)となすこと知
りません。此の故、日々に歩を三途の川に運んで、常楽(*注4)の本意を隔てます。
悲しい事です。
出家の身として、人の頼みでも決して悪い願いを叶える事は出来ません。

注 1・立願(りつがん・神仏に願をかけること)
注 2・九死(きゅうし・ほとんど命が助かりそうもないような状態)
注 3・誦し(しょうする・経文などを声を出して読む)
注 4・常楽(じょうらく・常住不変で苦がなく、楽であること)


石髓和尚が、又しても云いました。
近頃、補陀の岸において女の人が信心来参(*注1)するに、 一晩じゅう大士(だい
し・観世音菩薩)が夢に示して言いました。
「貴女は二親のために、巡礼すること毎度なり。これによって二親は滅罪して、
往生します」と告げられました。無意識のうちに合掌し大士(だいし・観世音菩薩)
拝し奉るところで夢が醒めると密に私(石髓和尚)に語りました。
(石髓和尚)は示して云いました。「貴女が信心深いことは誰もが皆知っています。
毎月補陀巌に詣でて信をとるならば、貴女も亦往生できます」と。
ほんとに此の女の人にかぎらず、多くの人が私(石髓和尚)の説法を聴いて利益を
得ることが多くあります。
世間の人、徒(いたずら)に高枕鼾睡(*注2)して世を渡ることがあってはいけませ
ん。又身中の虫(*注3)となることがあってもいけません。 妖(今回は わざわい と呼ぶ)
は家賊(かぞく・この場合、家庭内の揉め事か?)より起ります。
此の信女 (*注4)得心(*注5)して千日補陀巌に日参をしました。勤め難き行事で
す。
石髓和尚が、又しても云いました。
(石髓和尚)が壱陽(壱岐)補陀巌に於いて、 巡礼の功徳(*注6)を説きました。
然る者(*注7)が昨日巡礼の功徳を聞いて心に信を起し、 観念(*注8)していると、
夢の中で父が告げたと云います。
「私(然る者の父)は有罪にして苦をうけています。 でも私(然る者の父)の正日(*注9 )
に貴方(然る者)が聞法(*注10 )をしてくれる故、其の苦を遁れることが出来ると。
しかし、それでもなお赤鬼が畜生道に送るぞと云います。どうか私(然る者の父)
の為に三十三度巡礼して、貴方(然る者)が功徳を修めれば、此の苦を免れることが
出来ます」と。
ここに於いて夢が覚めたと。此の故に今日再来して、父が為に巡礼しますと。三
十三度巡礼が済むと、最後に私(石髓和尚)に頼み回向を行いました。
誠に巡礼の功徳は有難ものです。深水静かなれば、本月(ほんづき)が顕れるもの
です。然る者の父が法力によって畜生道を出難(しゅつなん)し、仏果を得ることは
疑いありません。

注 1・信心来参(しんじんらいさん・信仰の為参り来る)
注 2・高枕鼾睡(こうちんかんすい・安心しきって、いびきをかいて眠ること)
注 3・身中の虫(仏徒でありながら、仏法に害をなす者)
注 4・信女(しんにょ・五戒を受けた在家の女性信者)
注 5・得心(とくしん・納得すること)
注 6・功徳(くどく・来世に幸福をもたらす善行)
注 7・然る者(さるもの・なかなかの人物)
注 8・観念(かんねん・仏や浄土に心を集中して思念すること)
注 9・正日(しょうにち・正忌日の略・四十九日)
注 10・聞法(もんぽう・仏の教えを聴聞すること)


石髓和尚が、又しても云いました。
元禄元年(1688年)三月必死(*注1)の 罪人を助けて仕僕(しぼく・召使い)とする。
其の夜の夢に、救世(*注2)の二字を見ました。有難く思い拝し見れば、救世の
二字忽(たちまち)菩薩の形と変じました。有難くも補陀の教主(*注3)でした。こ
こに於いて無意識のうちに南無観世音菩薩と唱えると同時に夢がさめました。私
(石髓和尚)は霊夢と思い書に記しました。
同年(元禄元年・1688年)五月五日の夢に 牛に乗って海上を横行(*注4)するに縦
横の礙(さえぎり)なく乗り終わって、牛と私(石髓和尚)と知らず知らずに眠り込ん
で、四方の景を詠じ(*注5)心を花に慰めました。
しばらくして、山彦の声を聞いて夢が覚めました。子細に説明すると、牛とは私
(石髓和尚)の心です。海は生死の苦海(*注6)です。 此の海に自在(じざい・自由)を得
ることは、衆生利益(仏が人間に与える恵み)の仏心にかなう所です。
ついに仏果(*注7)を得て上品生(*注8)に至り、 九品(*注9)の景(けい・ありさま)
を見れば、心を浄土の華京(かけい)に慰めるべき前兆です。
此も私(石髓和尚)が後の為に、 霊夢(*注10)を史筆(*注11)に任せて書き記します。

注 1・必死(ひっし・必ず死ぬこと)
注 2・救世(ぐぜ・観世音菩薩のこと)
注 3・補陀の教主(ふだのきょうしゅ・観世音菩薩か?)
注 4・横行(おうこう・自由気ままに歩きまわること)
注 5・詠じ(えいじ・声を長くひいて歌うこと)
注 6・生死の苦海(せいしのくかい・輪廻転生の限りない苦しみを、海にたとえていう語)
注 7・仏果(仏道修行をして得る成仏という結果)
注 8・上品生(じょうぼんしょう・極楽浄土に往生する者の階位を上・中・下に三分した)
注 9・九品(くほん・極楽浄土の階位で上・中・下の三品を、 それぞれ又上・中・下の三生にわける)
注10・霊夢(れいむ・仏のお告げがある不思議な夢)
注11・史筆(しひつ・歴史を書き記す筆)


石髓和尚が、又しても云いました。
(元禄7年・1694年)の春、 捕魚者(ほぎょ・漁師のことか?)が補陀の岸に来て、密に
(石髓和尚)に語って云いました。
「昨日悪夢を見ました。私(捕魚者)が夢で死んで、 黄泉(よみ・死者の行く所)に趣く
途中の路に海がありました。渡ろうにも舟がありません。
按じ暮す(心配して過ごす)に、跡より二匹の鬼が来ました。
(捕魚者)を海に追込み中流にて、 捕魚者ども(他の漁師達)が四方より推し掛かり、
銛を以って私(捕魚者)を突こと七ヶ所。苦痛身にあまり海中において、我身を顧み
れば疑いもなく男鯨となっていました。
ここに於いて心を尽くして空に向かって南無観世音菩薩と唱えること十声しま
した。
家内(*注1)の者達は、声を聞いて皆驚く処に夢が覚めました。寝具を見れば悉
く汗に濡れ、全身に汗が流れています。
今 深くこれを思うに、死に果てれば決定(けつじょう・必ず) 大魚(たいぎょ)となる
こと間違いありません。石髓和尚、私(捕魚者)を救って下さい」と、涙を流して懺
悔しました。
(石髓和尚)が思うに、これはきっと殺生の報です。即ち示して云いました。一
生怠らずに参詣しなさいと。
又も云いました。毎日一千遍宝号(ほうごう・菩薩の名)を唱えなさいと。
捕魚者は非をしり、其の日より千日参詣して、称名(*注2)すること、今に至り
て怠らず。誠に此の勤によって終に滅罪の日が訪れました。
仏への信心がなければ、実に怖ろしき事であります。

注 1・家内(やない・一つ家に住んでいる人・家族の者)
注 2・称名(しょうみょう・仏を心中に念じ唱えること)


 墳墓
華渓院墓(注1) 西向  同境内高山
  封彊構(ほうきょうかまえ)竪十壱間(20m)横八間(14.5m)切石九輪塔があります。
  石階(せっかい)四十六段竪十四間五尺(26.9m)横壱間(1.8m)畑信時ノ室と云います。

野州大守盛墓(注2) 西向   横頭山
  墓方九尺(2.7m四方)高さ貳尺(0.6m)の石塔あり封彊竪七間(12.7m)横六間(11m)
 土階三間(5.5m)是より道に至り十一間(20m)


隆・重・正墓(注3) 西向   仝(どう)  又称隆山(又、隆山と称する)
  周囲九間半(17.2m)圓に土を盛って造り其の上に石を、
  築いて小石の塔を立て今其の上に、松数株生ています。

道可大居士墓(注4) 西向   如意山
龍珠院殿
  塚方九尺(2.7m四方)高さ三尺(0.9m)其の上に石の五輪塔を立て
  岸構(きしかまえ)入六間(11mm)横三間貳尺(6m)但し口五間四尺(9.7m)

宗光大居士墓(注5) 西向   仝
  墓方九尺(2.7m四方)高さ三尺(0.9m)其の上に石塔を立てています。
  石階廿十三段竪九間(16.3m)横七尺(2.1m)

開山墓(注6) 西向
  墓周囲十四間(25.4m)高さ壱間(1.8m)ばかりあります。
  土を盛って造り其の上に石を築き石塔を立てています

乱塔(らんとう・卵塔)
  東西十八間(32.7m)南北四間半(8.2m)内縦六間(11m)横五間(9.1m)
  前住の乱塔南向き、同竪十二間(21.8m)横三間五尺(6.3m)旦家(だんか)の乱塔と石門が云いました。

  初瀬浦は唐津の入津なるによって、山中に畑家の墓あり。亦あと崎に日高玄蕃の墓あります。

  以上は境内あらずと雖も聞いたことに随って記しました。

注 1・華渓院(かけいいん・対馬宗氏の娘で、 上松浦波多氏に嫁ぐ。父母に会う為渡海の途中、壱岐で没する。)
注 2・野州大守盛(波多盛・さこう・上松浦14代岸岳城主、波多隆・重・正3兄弟の伯父)
注 3・波多隆・重・正は(波多盛の甥で、三兄弟)
注 4・道可大居士(松浦隆信・25代当主、平戸松浦藩初代藩主法印鎮信の父)
注 5・宗光大居士()
注 6・開山墓(華渓院の開山僧である覚叟大円和尚か?  華光寺と改めた時の開山僧である宗雲長禅大和尚?)






   
































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