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壱岐国続風土記



壱岐国続風土記
(原文解説)

石田郡武生水邑 
共ニ七巻 



寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)

壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす



指導校正 山西 實     

原文解説 松崎靖男     

編集協力 吉永 清     










壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑 (村) 第十三
 仏擱 (仏閣)


本城山(ほんじょうざん)長栄寺大御堂(おおみどう) 庄村
本堂本尊聖観音坐像長二尺五寸行基作脇立毘沙門天廣目天
本堂の本尊は聖観音坐像で長(たけ)は二尺五寸(75p) 行基(ぎょうき・奈良
時代の僧。百済系の渡来人・諸国を巡って布教。)作。脇立は毘沙門天・広目天
各長三尺餘運慶作客殿本尊地蔵坐像長壱尺弐寸
各長(たけ・高さ)三尺(90p)余りで、 運慶作。客殿の本尊は地蔵坐像で
長壱尺弐寸(36p )



 大御堂 巳午向 (165度)  茅葺
 方三間 (5.4m) 在二王 (二王在り)  長可三尺餘 (高さ0.9m余りばかり)

 客殿 東向 (90度)  茅葺 梁行四間 (7.2m)  桁行五間 (9.0m)

 廊下 茅葺 梁行貳間 (3.6m)  梁行壱間半 (2.7m)

 庫裡 (くり)  茅葺 梁行三間 (5.4m)  桁行五間 (9・0m)

 境内壱反十七歩 (1,047u)
  内堂地 竪九間 (16.3m)  横四間 (7.2m)  壱畝六歩 (119u)
  同堂山 竪七間 (12.7m)  横三間 (5.4m)  廿壱歩 (16.3m)  無運上 (運上無し)
  同墓所 竪九間 (16.3m)  横壱間 (1.8m)  九歩 (29u)

  同寺地 竪十三間 (23.6m)  横七間 (12.7m)  三畝一歩 (300u)
   除地 (のぞきち・年貢を納めなくてもよい土地)

  同山  竪廿間 (36.3m)  横八間 (14.5m)  五畝拾歩 (528u)
   運上山 (うんじょうやま・年貢を納めなければいけない山)

 堂領高 五石 外寺領畑四畝廿壱歩 (466u)  高四斗



當堂ハ如意山の末派なり壱岐梵刹帳云大御堂本尊聖観音坐像二尺五寸
当堂は如意山の末派なり。壱岐梵刹帳に云う。大御堂(おおみどう)の本尊は
聖観音坐像で二尺五寸(75p)

秘佛行基菩薩作脇立廣目天毘沙門天各立像三尺餘運慶作
秘仏にして行基菩薩の作。脇立は廣目天・毘沙門天の各立像(りゅうぞう)
三尺(90p)余りで運慶の作。


二王 一王ハ那羅延堅固といふ一王ハ秘迹金剛天といふ 三尺餘作者不分明
仁王(正しくは原書のとうり二王と書く)は  一王は那羅延金剛(ならえんこんごう)と云う。
一王は蜜迹金剛天(みっしゃくこんごうてん)と云う
 三尺(90p)余りで作者は不分明。

三畝地小松内大臣祈願にて當国に七堂御草創あり髓一故大御堂といふ
三畝地 小松内大臣(平重盛)の祈願にて、 当国に七堂(観音寺・定光寺・長徳寺・円福寺・
覚音寺・長栄寺・妙泉寺)を御建立された。随一故に大御堂と云う。

昔日六人衆追討の時焼失して四天ありし内二天見へす
昔日六人衆追討の時焼失して、四天あった内の二天見えず。
彩色或ハ堂再興の時開帳御免亦云武生水村庄本城山長福寺
彩色(さいしょく・仏像の色の塗り直しか?)或いは堂再興の時、 開帳(秘仏など扉を開いて
拝観できるようにすること)が許可される。亦も云う。武生水村庄の本城山長福寺は、

文明三(ママ)壬辰年明窓長画像ファイル座元開基 長亨(ママ)三己酉年八月十日寂
文明四壬辰年(1472年) 明窓長霊(めいそうちょうれい)座元の開基。
長享三己酉年(1489年)八月十日寂(じゃく)


本尊地蔵坐像一尺貳寸高五石寺領御判物あり一云武生水村庄本城山
本尊は地蔵坐像で一尺貳寸(36p)、 高五石の寺領の御判物(ごはんもつ・大名などが
花押を署して下達した文書。江戸時代には朱印状・黒印状より権威のあるものとされた)あり。
一つに云う。武生水村庄本城山

長福寺本尊木躰尊地蔵坐像七寸大御堂本尊秘佛木躰聖観音貳尺五寸
長福寺の本尊は木体尊で地蔵坐像七寸(21p)、大御堂の本尊は秘仏の木体で
聖観音貳尺五寸(75p)

行基作脇立毘沙門天廣目天二尊各々三尺運慶作壱岐廻云長栄寺山号を
行基の作。脇立は毘沙門天・廣目天二尊各々三尺(90p)運慶の作。
壱岐廻(いきめぐり)に云う。長栄寺の山号を

本城といふ寺上に堂あり秘仏なり一年に両度の開帳なり行基菩薩の作なり
本城という。寺上に堂があり秘仏なり。一年に両度の開帳なり。
行基菩薩の作なり。

其後小松三位重盛卿の建給ふよし武田の番匠作るといひ伝ふ
其の後、小松三位(平)重盛卿の建給ふよし、武田の番匠作ると云い伝う。
中頃波多三河守没故の後甲斐守と合戦の時六人衆といふが此壱岐にあり
中頃(永禄八年・1565年)波多三河守没後、日高甲斐守と合戦の時、六人衆と
云う者が此の壱岐にあり。

此所に切こもり火をかけたり其時堂焼然れども本尊と脇士の二天これあり
此の所に切こもり火をかけたり。其の時に堂を焼く。然れども本尊と
脇士の二天これありて、

上の山の石の上に座し給へり壱岐国七堂の伽藍の其一なり六堂ハ廃失して
上の山の石の上に座し給へり。壱岐国七堂の伽藍の其の一つなり。
六堂は廃失して、

當田の堂ばかりのこるよし此長栄寺ハ草木繁茂して昼も物すこき所にて
當田の堂ばかり残る由。此の長栄寺は、草木繁茂して昼も物凄い所にて、
来る人少く天狗ありといひ伝へえたり郷の浦の者天狗にとられて此山に来る
来る人も少く天狗ありと云い伝えたり。郷の浦の者天狗にとられて此山に来る
故事もこれあり永禄田帳云壱町長福寺 此内半分鴨智(ママ)方以上 
故事もこれあり。永禄田帳に云う。壱町長福寺 此の内半分は鴨打方以上 
元和三年丁巳十二月廿八日堂領壱石寺領二石となる其證状云
元和三年丁巳(ひのとみ・1617年)十二月廿八日堂領壱石 寺領二石となる。
其の證状に云う。



 知行
壱石全可為寺領者也依如件
壱石全て寺領たる可きもの也 仍って如件(くだんのごとし)
元和三年十二月廿八日 隆信禁標
元和三年(1617年)十二月廿八日  隆信(三代平戸藩主・宗陽隆信)禁標
            大御堂

 知行
貳石全可為寺領者也依如件
貳石全て寺領たる可きもの也 仍って如件(くだんのごとし)
元和三年十二月廿八日 隆信押字
元和三年(1617年)十二月廿八日  隆信(三代平戸藩主・宗陽隆信)押字
            長福寺

元和七年辛酉十月七日八世梅庵長茂松浦源太郎
元和七年辛酉(1621年)十月七日八世 梅庵長茂(ばいあんながよし)松浦源太郎
源信清の茶堂をつとめ役領八石を得其證状云
源信清の茶堂をつとめ役領八石を得、其の證状に云う。

 知行 八石之都合進之候為覚如件以上
八石都合これを進(しんじ)候  覚(おぼえ)のため如件(くだんのごとし)以上
元和七年 松浦源太郎信清押字
元和七年(1621年)  松浦源太郎信清(宗陽隆信の弟)押字
  十月吉日    長茂へ旨


一時信清長茂に盃をあたへ手自魚味を賜ふ長茂頂戴してくらハす
一時信清(宗陽隆信の弟)長茂(八世住持)に盃をあたえて、 手自(てずから)魚味
(ぎょまい)を賜る。長茂頂戴して食らわず
信清其由をとふ長茂畏て出家のゆへくひなれ侍らすと答へけれハ益にたたさる
信清其の理由を問う。長茂畏まって出家の故食い慣れずにいますと、
答えれば役にたたざる

もの也とてかへされけり長茂弟子松屋芳吟三十八年住職す
もの也とて返されけり。長茂の弟子松屋芳吟(九世住持)三十八年住職をする。
寛永二年甲子(ママ)十二月廿八日寺領堂領ともに四斗六升となる其證状云
寛永二年乙丑(1625年)十二月廿八日寺領・堂領ともに四斗六升となる。
其の證状に云う。

 知行
四斗六升遣之者也仍如件
四斗六升之を遣(つかわす)もの也  仍って如件(くだんのごとし)
寛永二年十二月廿八日 隆信押字
寛永二年(1625年)十二月廿八日  隆信(三代平戸藩主・宗陽隆信)押字
          一州長福寺

 知行
四斗六升遣之もの也仍如件
四斗六升之を遣(つかわす)もの也  仍って如件(くだんのごとし)
寛永二年十二月廿八日 隆信押字
寛永二年(1625年)十二月廿八日 隆信押字
          一州大御堂


寛永七年庚午三月廿七日寺領五石となる其證状云
寛永七年庚午(1630年)三月廿七日寺領五石となる。其の證状に云う。

 知行
五石 目録別紙有 令扶助之所永可領地者也仍如件
五石 目録別紙有り 扶助せしめるの所永く領地すべきもの也 仍って如件
寛永七年三月廿七日 隆信押字
寛永七年(1630年)三月廿七日 隆信押字
           長福寺



 知行高帳
 
池ノ下 上ノ下 廿六間三尺・九間 七畝廿八歩半 分米壱石三斗八升五合六勺 中尾兵左衛門
池ノ下(地名) 上ノ下(土地の等級・ランク)
 廿六間三尺(48.1m)・九間(16.3m) 七畝廿八歩半(788u)
 分米(ぶんまい・検地によって定められた耕地の石高)壱石三斗八升五合六勺
 中尾兵左衛門

同所 上 三畝二歩半 分米七斗三升六勺五才 寿福寺
同所 上(土地の等級・ランク)  三畝二歩半(305u)分米七斗三升六勺五才  寿福寺

   下ノ下 廿四間・三間 四畝廿四歩 分米五斗七升八合五勺 日高分 神取分
   下ノ下(土地の等級・ランク) 廿四間(43.6m)・三間(5.4m) 四畝廿四歩(476u)
   分米五斗7升八合五勺
 日高分 神取分

田方合 壱反五畝廿五歩 分米貳石六斗九升四合七勺五才
田方を合せて 壱反五畝廿五歩(1,570u) 分米貳石六斗九升四合七勺五才


 屋敷方

庄 上 六間・六間五尺 壱畝十壱歩 分米壱斗九升一合三勺三才 大御堂 長福寺
(地名) 上(土地の等級・ランク)  六間(10.9m)・六間五尺(12.4m) 壱畝十壱歩(135u)
分米(ぶんまい・検地によって定められた耕地の石高)壱斗九升一合三勺三才
 大御堂 長福寺

同所 中 壱畝廿九歩 分米壱斗四升壱合八勺 右ハ大御堂屋敷 同人分
同所 中(土地の等級・ランク) 壱畝廿九歩(195u) 分米壱斗四升壱合八勺
    右ハ大御堂屋敷
 同人分

   中 貳畝壱歩 分米壱斗四升四合貳勺 右同人分
   (土地の等級・ランク)  貳畝壱歩(102u) 分米壱斗四升四合貳勺 右同人分

庄屋敷 下 十七間・十六間 九畝廿歩 分米五斗五升七合六勺 右同人分
庄屋敷(地名) 下(土地の等級・ランク)  十七間(30.9m)・十六間(29.0m)
      九畝廿歩(958u) 分米五斗五升七合六勺
 右同人分

平田 中 拾五間・十二間 六畝 分米四斗二升九合 日高分 近次郎作
平田(地名) 中(土地の等級・ランク)  拾五間(27.2m)・十二間(21.8m)
   六畝(595u) 分米四斗二升九合
 日高氏分を近次郎が請け負って作る

外園 中 廿貳間・十六間 壱反壱畝廿二歩 分米八斗三升八合九勺 本城兵七郎作
外園(地名) 中(土地の等級・ランク)  廿貳間(39.9m)・十六間(29.0m)
 壱反壱畝廿二歩(1,163u) 分米八斗三升八合九勺
 本城兵七郎作


とうのうし路 下ノ下 十四間・十三間
堂の後ろ(地名) 下ノ下(土地の等級・ランク)  十四間(25.4m)・十三間(23.6m)
 六畝二歩 分米三斗壱升二合四勺三才 長福寺分
 六畝二歩(601u) 分米三斗壱升二合四勺三才 長福寺分

同所 下ノ下 四間・二間 八丁(ママ) 分米壱升三合七勺三才 同人分
同所 下ノ下(土地の等級・ランク) 四間(7.2m) ・二間(3.6m) 八歩(26u)
 分米壱升三合七勺三才
 同人分

 畠屋敷合 三反八畝十五歩 分米二石六斗二升九合三才
 畠と屋敷を合せて 三反八畝十五歩(3,818u) 分米二石六斗二升九合三才

        内三斗三升三合一勺三才 大御堂屋敷分

田畠屋敷合 五反四畝十歩 分米五石三斗二升三合七勺八才
田と畠と屋敷を合せて 五反四畝十歩(5,388u) 分米五石三斗二升三合七勺八才

 内三斗三升三合二勺三才ハ大御堂屋敷分  外ニ九合三勺五才ハ不足
 内三斗三升三合二勺三才は大御堂屋敷分  外に九合三勺五才は足りず。



   寛永七年午 (1630年) 四月五日長福寺
元禄六年癸酉松屋芳ァ和尚京都より仏師壱人大工二人招下し
元禄六年癸酉(1693年) 松屋芳ァ(まつやほうぎん)和尚、京都より仏師一人と
大工二人招きて、

大御堂の聖観音毘沙門天王廣目天王の三尊を彩色し新に厨子を造立して
大御堂の聖観音・毘沙門天王・廣目天王の三尊を彩色(さいしょく・仏像の色の
塗り直しか?)し新に 厨子(ずし・仏像、仏舎利などを中に安置する仏具の一種)を造立して

これに安置し奉る同九年丙子正月二十六日寺領五石先判のことく
これに安置し奉る。同九年丙子(1696年)正月二十六日寺領五石先判のごと
相違なきの證状をたまハる其文云
相違なきの證状をたまわる。其の文に云う。

當寺領高五石之事
任寛永七年三月廿七日先判之旨不可有相違者也
寛永七年(1630年)三月二十七日先判の旨に任せ相違ある可からざるもの也
元禄九年 (1696年) 正月廿六日 任 (五代平戸藩主・棟の前の名) 押字
 壱岐国武生水村    長福寺

元禄十二年己卯正月四日回禄客殿庫裡再建享保二年丁酉大御堂
元禄十二年己卯(1699年)正月四日火事あり、客殿庫裡を再建する。
享保二年丁酉(1717年)大御堂

釿はしめあって同三年戊戌に至り三間四面の堂成見好書云
(けずり・)はじめがあって、 同三年戊戌(1718年)に至り三間四面の堂が
完成する。見好書に云う。

武生水村大御堂本尊聖観音ハ行基菩薩御作にして不思議の霊験仏なり
武生水村大御堂の本尊聖観音は、行基菩薩御作りになられたもので、
不思議の霊験仏なり。

予建立のため開帳して参詣せしめ造立の基となす男女残らす詣す
予建立のため開帳して参詣せしめ、造立の基となす。男女残らず詣でる。
予夢に大士手中に筍子を持し予に与ふ則夢覚おもふハ荀子ハ親竹より
予の夢に、大士(だいし・仏・菩薩の尊称・悟りを求める心を起こした人)手中に筍子
(たけのこ)を持ち予に与える。則に夢覚める。思うに荀子は親竹より

大なる物なり今度の建立ハ本より大く美麗に立るべしと心中にこれを歓ぶ
大なる物なり。今度の建立は元より大きく美麗に立るべしと、
心の中でこれを歓ぶ。


又次の夜の夢に大士虚空に現し相好目を驚し一心にこれを拝する処に
又次の夜の夢に大士 虚空(こくう・仏語で、何もない空間、大空)に現れ、
相好(そうごう・仏の身体に備わっている特徴、32の相と80種の好の総称)目を驚かせ、
一心にこれを拝する処に

微音を以て告給ハゝ皆人吾が體を開帳することをのミ知て
微音を以って告げ給はば、皆人吾が体を開帳することをのみ知りて
自己を開帳することをしらす唯願くハ自己の本心を開帳し放光動地して
自己を開帳することを知らず。唯願わくば自己の本心を開帳し
放光(ほうこう・仏がからだや白毫から光をはなつこと)
動地(どうち・大地を動かすこと。転じて、世間を非常に驚かすこと)して

群生を利すべし仏一代の説教も皆己心の一仏を開かんがためなり
群生(ぐんじょう・仏語ですべての生き物、多くの衆生)を利すべし。仏一代の説教も
皆己心(こしん・仏語で自分の心、自己の心)の一仏を開かんがためなり。

此にをいて礼して眼を自己に著て観念すると夢覚
此において礼して、眼を自己に著して観念すると夢覚める。

予思ふに真の好夢なり諸功徳皆己心をはなれす己心則仏なることを知て
予思うに真(まこと)の好夢なり。 諸功徳(しょくどく)皆己心をはなれず。
己心則(すなわち)仏なることを知りて

自己の開帳といふべし毎日の説法も大士の垂語を説て己心を度す
自己の開帳というべし。毎日の説法も大士の垂語(すいご・禅宗で、師の僧が弟子に
教え示す言葉)を説て己心を度する (どする・仏が悟りの境地に導く、迷いから救う)

聴人肝膽を碎て信仰す総して法師ハ道心堅固にして慈仁を含ミ
聴く人肝胆を砕きて(懸命に物事を行う・心を尽くす)信仰する。 総じて法師(ほっし・
一般に僧、出家)は 道心(どうしん・仏道を修め仏果を求める心、仏道に帰依する心)堅固にして
慈仁(じじん・なさけ深いこと)を含み、

三途に迷没の悲痛を傷ミ化他普益の恩を骨髄に徹すべし
三途(さんず・死者が行くべき三つの場所、火途、刀途、血途の三つ)に迷没の悲痛を傷み
化他(けた・仏語で他人を教化すること)普益の恩を骨髄に徹すべし。

朝暮仏に向て結縁斎度の願を發し漸々に功をとけ利生心に満よ
朝暮仏に向かって結縁(けちえん・仏、菩薩が世の人を救うために手をさしのべて縁を結ぶこと)
斎度(さいど・仏が、迷い苦しんでいる人々を救って、悟りの境地に導くこと)の願を発し
漸々(ようよう)に功をとげ利生 (りしょう・利益衆生の意、仏・菩薩が衆生に利益を与えること)
心に満よ

是大悲廣普の妙益なり今日も此旨を示し了ぬ享保四年二月大御堂建立事畢ぬ
是大悲(だいひ・衆生の苦しみを救う仏、菩薩の大きな慈悲) 廣普(こうふ・一般に広く
知らせること)の妙益なり、今日も此旨を示して終わる。 享保四年(1719年)二月
大御堂建立の事終わる。


故入佛安座す予又法徳を談じて男女を利す示して云
故に入仏安座す。予又仏法の徳を談じて男女を利す。示して云う。
辺土の男女ハ障り多く難あり
辺土の男女は障りが多く難あり。
故唯一筋に菩提を願ひとれ出家も正路にして法を人に示せ必仏法を以て世を
故に唯一筋に菩提を願いとれ。出家も正路(しょうろ・人のふみ行うべき正しい道理)
にして法を人に示せ。必ず仏法を以て世を

渡る橋とせされ聖教を以て身を養ふ媒とせされ名利を捨るを以て心とせよ
渡る橋とせざれ。聖教(しょうぎょう・釈迦の説いた教え、また仏教の経典)を以て身を
養う媒(なかだち)とせざれ。名利を捨るを以て心とせよ。

一七日の説法皆此心にて示し畢ぬ仏心宗ハ自己を相見するを入仏といふ
一七日(いちしちにち)の説法 皆 此心にて示し畢ぬ。 仏心宗(ぶっしんしゅう・
禅宗の異称。文字などによらず、ただちに仏心を悟ることを教える宗門の意)は自己を
相見(しょうけん・会うこと。対面すること)するを入仏という。


心身安楽なるを安座といふ誠に仏に不能免定業不能度無縁不能無縁不能
心身安楽なるを安座という。誠に仏に不能(あたわず・出来ない事)は、
定業(じょうぎょう・前世から定まっている善悪の業報)を 免ずること不能(あたわず)
無縁(むえん・仏と縁や関係のない者)を 度す(どす・仏が悟りの境地に導く、迷いから救う)
こと不能(あたわず)、 無縁(むえん・)不能(あたわず)

尽生界の三ツあるときハ好々力を尽して縁を設け度すべし
尽生界の三ツあるときは、好々(よくよく)力を尽して、 縁を設け(仏との縁をもうけ)
度す(どす・仏が悟りの境地に導く、迷いから救う)べし。


凡僧ハ仏此三不能あることをしらすこれをしる人ハ心に精進し
凡僧は仏此三ツの不能あることを知らず、これを知る人は心に精進し
縁を設くべきものなり又大御堂説法の 中画像ファイル日雨天にして仏詣の
仏との縁を設くべきものなり。又大御堂説法の最中に数日雨天にして、
仏詣(ほとけまいり)

諸人半を減す僧俗恨む縁なきことを予も又強てこれを思ふ
諸人半分を減す。僧俗恨む 縁なきことを予も又 強いてこれを思ふ。
雨をこうふも晴をこふも説法利生のためなれバ豈に納受なからんや
雨を請うも晴を請うも、説法(せっぽう・仏教の教義を説き聞かせること) 利生(りしょう・
利益衆生の意、仏・菩薩が衆生に利益を与えること)のためなれば 豈に納受(のうじゅ・
神仏が願いなどを聞き入れること)なからんや。

唐人ハ詩章を以て人に通し本朝ハ唱歌を以て物に達す
唐人は詩章(ししょう・詩や文章)を以て人に通じ、 本朝は唱歌(しょうが・琴、琵琶など
の旋律を口でうたうこと)を以て物に達す。

我今拙哥を以て雨の晴を祈るあめふれバ詣ての人のもの思ひ晴らしてたもれ
我今拙歌(せっか・へたな歌、自分の作った歌をへりくだっていう語)を以て雨の晴れるを
祈る。雨降れば詣での人の物思い(思いわずらうこと)晴らして下さい。

補陀落の道紙にかき真前に奉納す其夜大士御返歌云あめふりて五穀のこのミ
補陀落(ふだらく・観音が住むという八角形の山)の道、紙にかき真前に奉納す。
其の夜大士の御返歌に云う。「雨降りて五穀の木の実

多けれバ其日に晴る補陀落の道其日より天晴貴賎群をなして恙なく入仏安座す
多ければ、其の日に晴れる補陀落の道」。其の日より、天晴れ貴賎群をなして
(つつが)なく 入仏安座(にゅうぶつあんざ・自己と向き合い、身心ともに安楽になるここと)す。

貴賎男女平等に未来得果の好因縁を結ふものか時は享保四年二月十八日
貴賎男女平等に未来得果の好い因縁(いんねん・前世から定まった運命)を結ぶものか。
時は享保四年(1719年)二月十八日

此御堂本小松内大臣の御建立なり一国一堂の一なり又云此大御堂の住僧
此の御堂は、もとは小松内大臣(平重盛)の御建立なり。一国一堂の一つなり。
又も云う。此の大御堂の住僧


梅庵代に手習の童子あり或晩住僧殿に入り念経するに外より童子を呼ぶ
梅庵(八世住持)の代に手習いの童子あり。 或晩住僧、殿に入り念経するに外より童子を呼ぶ。
出て見れハ朋友門に出る間に唐津にゆく路の程二十里なり
出て見れば朋友(ほうゆう・同門の友)門に出る間に唐津にゆく。 路の程二十里なり。
怖れもなく遊居たり住僧子をよべども見へす
怖れもなく遊び居たり。住僧子を呼べども見へず。
一類にきかしめ一日々々尋ぬれども住家をしらす
一類(いちるい・親族関係にあるもの、一族、一門)に聞かしめ、一日々々尋ぬれども
住家(すみか・住んでいる所、この場合居場所)を知らず。

住僧烈然として腹を立て大士に向て恨申ハ大士ハ救を以て尊とす
住僧烈然(れつぜん・)として腹を立て、 大士(だいし・仏・菩薩の尊称・悟りを求める
心を起こした人)に向かって恨み申すは、 大士は救(すくい)を以て尊(とうとし)とす。

今仏地にして難あること無慈悲の至なり三日の内に験なくんバ
今仏地(ぶつじ・仏の教えの説かれる場所、寺院またはその寺地)にして難あること無慈悲
(むじひ・思いやりの心がないこと)の至りなり。 三日の内に験(しるし)がなければ、

再尊敬せすと高聲に呼告こと度々なり不思議なるかな三日目の晩方
再び尊敬せずと高聲(たかごえ)に 呼告(よびつぐる)こと度々(たびたび)なり。
不思議なるかな三日目の晩方、

住僧物おもい顔にて門に出れハ其子立居たり手をとり
住僧物思い顔にて門に出れば其の子立居たり。手をとり
汝ハ何国より来るそととへハ次第を語る何のため又帰るそととへハ
汝は何国(いずれのくに)より来るぞと問えば次第を語る。何のため又帰るぞと
問えば、

一人の肩にのり高山をゆくに跡より黒衣の僧来り其子かへせかへせとよふ
一人の肩に乗り高山を行くに跡より黒衣の僧来り。其の子を返せ返せと呼ぶ。
肩に乗せし人の云汝ハ師の僧腹を立てこれを恨む故此僧汝を
肩に乗せし人の云う、汝は師の僧腹を立てこれを恨む。故に此の僧汝を
つれに来ると追誥手を取今ここに倡給ふて入堂し給ふと語る。
つれに来ると追い詰め、手を取り今ここに倡え給うて入堂し給うと語る。
梅庵無間に入堂するに人なし
梅庵(八世住持)無間(まなし)に入堂するに人無し。

此疑ひもなく大士なり夫より弥信をとり一類縁者迄渇仰身に餘り
此れ疑いもなく大士なり。夫より弥(いよいよ)信をとり、一類縁者迄
渇仰(かつごう・渇いた者が水を切望するように、仏を仰ぎ慕う意)身に余り

日々に徳を慕ふ此是尊の利益なり予思ふに肩にのせしハ天狗なるべし
日々に徳を慕う。此れ是尊(ぜそん)の利益(りやく)なり。 予思ふに肩に
乗せしは天狗なるべし。

僧形にして取戻ハ大士なるべし不思議の神通力なり
僧形にして取り戻すは大士なるべし。不思議の神通力なり。
予丑七月十八日の夜?夢を見る観音大士文殊大士を守持して予にあたへて云
予丑(享保六・1721年)七月十八日の夜霊夢を見る。観音大士・文殊大士を
守持(しゅじ)して予にあたへて云う。

これハ肉身の文殊なり此を頂戴せハ智明を増長し愚者を救ふべしと
これは肉親の文殊なり。此れを頂戴せば智明を増長し愚者を救うべしと。
ありがたく思い頂戴して文殊大士見上れバ
ありがたく思い頂戴して、文殊大士見上げれば、
行徳身に随て行住坐臥自在なりここにをいて夢さむ?夢おもふゆへかき記す
行徳(ぎょうとく・仏道修行によって身に備わる徳)身に随いて 行住坐臥(ぎょうじゅうざが・
仏語で人の起居動作の根本である、行く・とどまる・座る・寝るの四つ)自在なり。
ここに於いて夢覚める。霊夢と思う故書き記す。

誠に文殊ハ三世の智母なり観音ハ三世の慈悲の門なり以上
誠に文殊は三世の智母なり。観音は三世の慈悲の門なり以上。
享保七年四月朔日先寺領相違なきの證状を賜ふ其文云
享保七年(1721年)四月朔日先に寺領相違なきの證状を賜ふ。 其の文に云う。

高五解(ママ)之事  任寛永七年三月廿七日元禄九年正月廿六日両先判之旨
寄附之永可寺納者也
高五石之事 寛永七年(1630年)三月廿七日 元禄九年(1697年)正月廿六日両先判之
旨に任せ、寄附永く寺納すべき者也

享保七年 (1721年) 四月朔日  篤信 (六代平戸藩主) 押字   壱岐国武生水村


   開山明窓長画像ファイル (めいそうちょうれい) 座元 長享三己酉 (1489年) 八月十日物部村薬城寺同開山

   中興亀歳鑑 (亀宗歳鑑?・きそうさいかん)  十三日

   二世天佐佑 (天宗佐佑?・てんそうさゆう)  十八日
    
   三世助叟伯 (助宗叟伯?・じょそうそうはく)  元亀四年辛酉 (ママ)(癸酉・1573年) 七月十七日

   四世満天昌泉 (まんてんしょうせん) 座元  慶長五年庚子 (1600年) 十月八日

   五世文室学 (文宗室学?・ぶんそうしつがく)  十八日

   六世聖岩長賢 (しょうがんちょうけん) 和尚  元和八年壬戌 (1622年) 四月廿五日

   七世蘭喜春 (蘭宗喜春?・らんそうきしゅん)  寛永二年乙丑 (1625年) 五月朔日

   八世梅庵長茂 (ばいあんちょうも) 和尚  延宝三年乙卯 (1675年) 二月十五日

   九世嗣法中興松屋芳吟 (しょうおくほうぎん)  享保四年己亥 (1719年) 六月四日

   十世蘭桂芳瑞 (らんけいほうずい) 和尚





   
































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