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壱岐国続風土記
(原文解説)

石田郡武生水邑 
共ニ七巻 



寛保二年壬戌
(1742年・みずのえいぬ)

壱岐州俊学大宮司
常陸介吉野連秀正
      著ハす



指導校正  山西 實     

原文解説 松崎靖男     

編集協力  吉永 清     










壱岐国続風土記
 石田郡武生水邑 (村) 第十四
 仏擱 (仏閣)




 古若山宝樹庵 (こにゃくざん・ほうじゅあん)  古若村

本尊聖観音坐像長九寸五分金躰脇士廣目多門各六寸七分
本尊は聖観音坐像で長 (たけ)九寸五分 (28.7p) 金体、
    脇士は廣目天と多門天で各六寸七分(20.3p)

 客殿 南向   茅葺
   梁行四間半 (8.2m)   桁行五間半 (10.0m)

 廊下   茅葺
   梁行一間半 (2.7m) 桁行一間半 (2.7m)

 庫裡 (くり)    茅葺
   梁行三間 (5.4m) 桁行四間半 (8.2m)

 境内  七畝廿二歩(27.6m四方)
   内寺地 竪十四間 (25.4m) 横五間>(9.1m) 貳畝十歩(231u・15.2m四方)
   同山  竪四十間(72.7m)  横四間 (7.2m)  五畝十歩(529u・23.0m四方)
   同墓所 竪二間 (36.3m)  横壱間 (5.4m)  二歩 (6.6u・2.6m四方)

 庵領二石

當庵ハ如意山末派なり壱岐梵刹帳云
当庵は如意山の末派なり。壱岐梵刹帳に云う。
武生水村古若山宝樹庵本尊聖観音坐像唐仏鋳物
武生水村古若山(こにゃくざん)宝樹庵の本尊は、聖観音坐像で唐仏の鋳物。
開基ハ宝聚英三大姉古若殿と申たる 后宮のよし云々
開基は宝聚英三大姉古若殿と申たる。后宮 (こうぐう・皇后) のよし云々。
安国寺にをいて自筆の文あり逆修のため地蔵安置仏供料寄附の地筒城書入云々
安国寺において自筆の文あり。逆修(ぎゃくしゅう・生前に、自分の死後の冥福のために仏事
をすること)のため地蔵を安置し、 仏の供料(くりょう・供養とする金品)として
寄附の地筒城を書入れ云々。

今按に古若ハ皇后にあらす安国寺の部にて考ふべし
今案ずるに古若は皇后にあらず。安国寺の部にて考ふべし。

一云武生水村古若山宝樹庵本尊金仏聖観音坐像九寸五分
一の説として云う。武生水村古若山宝樹庵の本尊は、
         金仏の聖観音坐像で九寸五分(28.7p)
永禄田帳云一反貳丈宝寿庵以上 寛永貳十年正月十一日庵領貳石となる
永禄田帳の記述に、一反二丈(37.2m四方)宝寿庵以上、
   寛永二十年(1643年)正月十一日庵領二石となる。
其證状云
其の証状に云う。

  知行 (ちぎょう)
貳石 目録別紙有
二石 目録は別紙に有り
令扶助処可領知者也仍如件
扶助令(せしめる) 処領知可(すべき)者也 仍如件(よってくだんのごとし)
寛永貳十年正月十一日鎮信押字
寛永二十年(1643年) 正月十一日鎮信(平戸藩4代藩主・天祥公)押字
                     宝樹庵

元禄九年丙子正月廿六日の庵領證状あり其文云
元禄九年(1696年)丙子(ひのえね) 正月廿六日の庵領證状あり。其の文に云う。

當寺領高二石之事任寛永廿年正月十一日先判之旨永不可有相違者也
当寺領高二石之事、寛永二十年(1643年)正月十一日先判之旨に任せ、
永く相違不可有(あるべからざる)者也

   元禄九年正月廿六日任押字
    元禄九年(1696年)正月二十六日
         任(まかす・平戸松浦藩5代藩主・棟の前名)押字
  壱岐国武生水村   宝樹庵

宝永三年丙戌七月十五日現住徹禅 鐘をかく其銘云
宝永三年(1706年)丙戌(ひのえいぬ)七月十五日
現住徹禅(てつぜん)鐘をかく。其の銘に云う。

壱岐国石田郡物部庄武生水村 古若山宝樹禅庵鐘銘

  于時宝永三丙戌年七月十五日
   時に宝永三丙戌年(1706年・ひのえいぬ)七月十五日
     願主當庵現住徹禅叟代

享保七年壬寅四月一日の庵領證状あり其文云
享保七年(1722年)壬寅(みずのえとら) 四月一日の庵領証状あり。其の文に云う。

高二斛之事任寛永二十年正月十一日元禄九年正月廿六日両先判之旨
寄附之永可寺納者也
高二斛(石)之事寛永二十年(1643年) 正月十一日元禄九年(1696年)正月廿六日
両先判之旨に任せ之を寄附す。永く寺納可(すべき)者也。

  享保七年 (1722年) 四月朔日篤信 (平戸松浦藩6代藩主) 押字
   壱岐国武生水村  宝樹庵

寛文十年庚戌七月九日栄宅出世正徳三年癸巳三月廿四日石門出世
各公文状あり其文に云
寛文十年(1670年)庚戌(かのえいぬ) 七月九日栄宅出世、正徳三年(1713年)
癸巳(みずのとみ)三月二十四日石門出世、各公文状あり。其の文に云う。

諸嶽山総持禅寺は日域曹洞依為出世第一之本寺
諸嶽山(しょがくざん) 総持禅寺(そうじぜんじ・横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山)
日域(にちいき・日の出る国の意から日本の異称) 曹洞出世第一之本寺に依為(たるにより)
就當山住持職之事任綸旨令転衣補任栄宅和尚之旨者也
当山住持職之事に就き綸旨に任せ、栄宅和尚を補任(ぶにん)する之旨転衣
(てんい・日本曹洞宗の三大出世一つで、徳川時代転衣は朝廷の綸旨を受ける)(せしむる)者也。

公文状 (くもんじょう) 如斯 (かくのごとし)
   妙高庵 (みょうこうあん)

維時寛文十年庚戌歳七月九日通知
時に寛文十年(1670年) 庚戌(かのえいぬ)の歳(とし)七月九日通知

   普蔵院 太源 (ふぞういん たいげん)
   洞川庵 無端 (とうせんあん むたん)
   傳法庵 大徹 (でんぽうあん だいてつ)
   如意庵 実峰 (にょいあん じっぽう)

七千八百十七世
進上宝樹庵 (宝樹庵に進上)
   衣鉢 (僧の名) 閣下

永平地画像ファイル模震丹天童之勝概吉祥峰秀為日域曹洞之本山
永平の地霊(永平の地に宿る精霊・今回は「永平寺の地の景気や雰囲気」)が 震丹(しんたん・
秦帝国の土地の意味、一般には中国のこと) 天童(中国浙江省にある天童山景徳禅寺)
勝概(しょうがい・素晴らしい景色、勝景)に模す (真似る・今回は「似ている」との意)
だから、この吉祥(きちじょう・めでたい兆し)の峰秀 (ほうしゅう・すぐれた峰)を日域(に
ちいき・日の出る国の意から日本の異称)曹洞之本山と為す。
 
古仏演法場 諸師瑞世処
 古仏(こぶつ・禅宗で、悟りをひらいた高僧の敬称)は 法場(ほうじょう・仏法を修行する場所、
寺)で演(えん・今回は「仏法を語って押し広める」)じ、
 諸師(しょし・曹洞宗では「数多くの師との意」、全員が優れた師という意味で使われるとは限らない)
は瑞世(ずいせ・曹洞宗の僧侶が、両本山「永平寺と総持寺」に、それぞれ一泊し一朝の住職を務める
こと)する処(ところ)


惟新命石門和尚 叢林飽歴辛苦備掌
(ここに)石門和尚を新に命ず。
 叢林(そうりん・大きな寺院、特に禅寺)
 飽歴(ほれき・飽きるまで留まる、たっぷりと留まる ?)
 辛苦(しんく・つらく苦しい思いをすること)
 備掌(たなごころにおさめる?)


 曽領半座職位既開法門
 曽領 半座(はんざ・首位の座)職位 (しょくい・官職と官位)
 既に法門を開く。
 頃薫方住持親拠笏室
 薫方の頃、住持親しく筍笏に拠る?
 旧鉢嚢掛著於壁上破草
 靴抛向于湖辺
 靴を湖辺(こへん)に向于 (むかって)(なげる)

勅請斯降  正好致三呼祝  正に好んで三呼の祝を致す?
祖恩維重  切?拈一弁香
 長養已有年出頭亦応節
 臨疏不勝抃躍之至

道元 (どうげん・鎌倉前期の禅僧、日本曹洞宗の開祖)  押字
懐奘 (えじょう・鎌倉中期の曹洞宗の僧。道元に師事し、永平寺第2世)  押字
正徳三年(1713年)
  現住厳柳 (げんりゅう)  押字
  癸巳 (みずのとみ) 三月念 (廿の俗音・中国王朝「宋代」から用いられた) 四日
  宝樹寺 (ほうじゅじ) 石門和尚禅室

同年癸巳四月十五日石門綸旨頂戴右大弁奉
同年(1713年)癸巳(みずのとみ) 四月十五日石門綸旨を右大弁より頂戴し奉る

 開山一庵倫 (一庵宗倫?・いちあんそうりん) 座元 (ざげん)  朔日 (さくじつ)

 二世喜山悦 (喜山宗悦?・きざんそうえつ) 座元 
     慶長十二年 (1607年) 丁未 (ひのとひつじ) 三月廿十六日以前七日

 英庵白 (英庵宗白?・えいあんそうはく) 和尚
     慶長十二年 (1607年) 丁未 (ひのとひつじ) 三月廿六日古渓寺三世華光寺看坊

 三世参室禅養 (さんしつぜんよう) 座元 廿六日

 中興龍岳 (りゅうがく) 和尚 前総持住持

 四世仙玉聖 (仙玉宗聖?・せんぎょくそうしょう) 座元  朔日

 五世月窓文 (月窓宗文?・げっそうそうぶん) 座元 朔日

 六世椿屋寿 (椿屋宗寿?・ちんおくそうじゅ) 庵主 
     慶安元年 (1648年) 戊子 (つちのえね) 十一月六日

 再興鎮山栄宅(ちんざんえいたく)和上 華光寺九世前総持住持

 七世万画像ファイル嶺察 (ばんれいれいさつ) 和上
     天和三年 (1648年) 癸亥 (みずのとい) 九月廿三日

 八世亀雄鶴 (亀雄宗鶴?・きゆうくそうかく) 和上
     甲寅五月晦日 (みそか・毎月の最終日) 此代客殿再興

 九世天岩徹禅 (てんがんてつぜん) 首座 (しゅそ)
     宝永三年 (1706年) 丙戌 (ひのえいぬ) 六月廿九日

 十世仏住石 (仏住宗石?・ぶつじゅうそうせき) 和上
     此代客殿修覆 (しゅうふく) 閻魔堂建立

 十一世覚海門廣和上 (かくかいもんこう)  此代客殿庫裡再建

 十二世現住源明 (げんめい)



城首山 (じょうしゅざん) 宝積寺  城越 (じょうのこし)
本尊薬師坐像長六寸 古座像長五寸 子安観音坐像長五寸
本尊は薬師坐像で長六寸(18.2cm)  古座像は長五寸(15.2cm) 
子安観音坐像は長五寸(15.2cm)


 客殿 卯辰向 (105°)  茅葺 梁行三間半 (6.4m)  桁行四間 (7.3m)
 庫裡    茅葺 梁行三間半 (6.4m)  桁行五間 (9.1m)
 境内 五畝二歩 (502u・22.4m四方)
  内寺地 竪十四間 (6.4m)  横六間 (6.4m)
        貳畝廿四歩 (278u・16.7m四方)  三畝 (298u・17.2m四方) 之内
  同山  竪十七間 (6.4m)  横四間 (6.4m)  貳畝八歩 (225u・14.9m四方)   運上山
 寺領畑三畝廿四歩 (377u・19.4m四方) 高四斗 内寺地二畝廿四歩 (278u・16.7m四方)

當寺ハ如意山の末派なり壱岐梵刹帳云武生水村城首山宝積寺天正十壬午年
當寺は如意山の末派です。壱岐梵刹帳の記述に、 武生水村城首山宝積寺は
天正十壬午年(1582年・みずのえうま)

尭域首座開基云々本尊薬師一云武生水村
尭域首座(ぎょういきしゅそ)開基云々。本尊は薬師。 一つに云う、武生水村
城首山宝積寺本尊木躰薬師坐像四寸云々
城首山宝積寺の本尊は木躰薬師坐像四寸(12.1cm)云々。
寛永二年十二月廿八日寺領四斗六升の證状を得其文云
寛永二年(1625年)十二月二十八日寺領四斗六升の證状を得、其の文に云う。

  知行
四斗六升遣之もの也仍如件
四斗六升之を遣わすもの也。仍如件(よって、くだんのごとく)
寛永二年十二月廿八日隆信押字
寛永二年(1625年)十二月廿八日  隆信(三代平戸藩主・松浦宗陽隆信)押字
                     壱州 宝酌庵


去所に近頃源渓といふ堕落の僧あり常に破戒無慙の我侭者なり
去る所に近頃源渓(げんけい)といふ堕落(だらく)の僧あり。 常に破戒無慙(はかい
むざん・戒律を破りながら良心に恥じないこと)の我侭者(わがままもの)なり。

善をきらい悪を好んで人の与へさるに物を強てとり、人の施さるに酒を押して
のむ
善をきらい悪を好んで、人の与えざるに物を強いてとり、人の施さざるに酒を
押してのむ。

或とき銭を出して酒を買て飲けれハ取返し欠落し酒家より酒屋至り
或る時 銭を出して酒を買いて飲ければ、取返し欠落(かけおち・ひそかに逃げること、
逐電、出奔)し酒家(さかや)より 酒屋(さかや)至り

非分をなすこと亦類なし後にハ我志らす
非分をなすこと亦類なし。後には我志らす。
肉をくらい汁を吸て恥をさらす又或時ハ高声に村里を噪かす
肉をくらい汁を吸て恥をさらす。又或る時は高声に村里を噪(さわ)がす。
狂乱に似て年を重て後ハ地蔵の錫杖をとり
狂乱に似て年を重ねて後は地蔵の錫杖をとり、
或いハ念仏金をかり質に入れ酒をのみ
或いは念仏金をかり質に入れ酒をのみ、
或夜予路を過るに溝に蹉啼者あり立寄り聞ハ地蔵の御無理なり
或る夜 予 路を過るに、溝に蹉(つまずき)(なく)者あり。 立寄り聞けば
地蔵の御無理なり。

我ハ錫杖をとらすとて頻になくここにおいてよくとへハ彼源渓なり
我は錫杖をとらずとて頻(しきり)になく。ここにおいてよく問えば彼の源渓なり。
何としてかくなるやととへバ宝積寺の地蔵にをハれてかくのことしといふ
何としてかくなるやと問えば宝積寺の地蔵にを追われてかくの如しという。
則起立て善福寺に宿せしむ然れども其風狂をやめす空しく死す
(すなわち)起立て善福寺に宿せしむ。然れども其の風狂をやめず空しく死す。
予源渓に題して云常に酒屋に望んで酒銭をはかる門より内をみて口涎を流す
予 源渓に題して云う。常に酒屋に望んで酒銭をはかる門より内をみて
口涎を流す。
却て修羅を笑ふ自痾の客大海を呑尽七十年 以上見好書
却って(かえって)修羅を笑う。 自痾(じあ)の客、大海を呑尽すこと七十年
以上は見好書の記述


 開山尭域渟 (尭域宗渟?・ぎょういきそうてい?) 庵主
         天正十五年 (1587年) 丁亥 (ひのとい) 十二月三日

 二世節叟忠庵 (せっそうちゅうあん)
         慶長四年 (1599年) 己亥 (つちのとい) 五月四日

 三世建宗朕 (建宗宗朕?・けんそうそうちん) 庵主 廿七日

 四世明翁鑑 (明翁宗鑑?・めいおうそうかん) 庵主 廿五日

 五世融峯祝 (融峯宗祝?・ゆうほうそうしゅく) 庵主和上  晦日(みそか・毎月の最終日)

 六世中興萬画像ファイル(萬霊宗通?・ばんれいそうつう) 和上
         天和三年 (1683年) 癸亥 (みずのとい) 九月廿三日

 七世梅岩獨香 (ばいがんどっこう) 首座 (しゅそ)   
         享保四年 (1719年) 己亥 (つちのとい) 五月五日此代客殿造立

 八世聖岩舜梁 (しょうがんしゅんりょう) 座元 
         享保八年 (1723年) 壬卯 (みずのえう) 八月廿六日

 九世智岩嶺察 (ちがんせいさつ) 首座 
         宝永七年 (1710年) 庚寅 (かのえとら) 五月八日

 十世現住鶴禅 (かくぜん)



水月山龍洞軒 (すいげつりゅうとうけん)  片原村 (かたばるむら)

本尊聖観音坐像長可壱尺貳寸
本尊は聖観音坐像で長(たけ) 壱尺貳寸(36.4cm)(ばかり)

 客殿 南向 茅葺
   梁行四間 (7.3m)  桁行五間 (9.1m)

庫裡 (くり)    茅葺
   梁行三間半 (6.4m)  桁行五間 (9.1m)

廊下
   梁行壱間 (2.7m)  桁行壱間半 (2.7m)

境内七畝十三歩 (737u・27.2m四方)
 内寺地 竪十二間 (21.8m)  横十一間 (19.9m) 四畝十二歩 (436u・20.9m四方)
 同山 竪廿五間 (45.5m)  横三間 (5.5m)  二畝十五歩 (248u・15.7m四方)  運上山
 同墓所 竪八間 (14.5m)  横貳間 (3.6m)  十六歩 (53u・7.3m四方)

軒領畑四畝六歩 (416u・20.4m四方)  高四斗

當軒ハ如意山の末派壱岐梵刹帳云武生水村水月山龍洞軒
当軒は如意山の末派。壱岐梵刹帳に云う。武生水村水月山龍洞軒
文亀二壬戌年則室軌公記室開基云々
文亀二壬戌年(1502年・みずのえいぬ) 則室軌公(そくしつきこう?)記室(きしつ)
の開基云々。

本尊聖観音坐像一云武生水村水月山龍洞軒本尊木躰聖観音坐像四寸八分以上
本尊は聖観音坐像で一に云う。武生水村水月山龍洞軒の本尊は木躰聖観音坐像
で四寸八分(14.5cm)以上


元和三年丁巳十二月廿八日軒領壱石の證状あり其文云
元和三年(1617年)丁巳(ひのとみ) 十二月廿八日軒領壱石の證状あり其の文に云う

  知行
壱石全可為寺領者也仍如件
壱石全(すべて)寺領為可(たるべき) 者也(ものなり)仍如件(よってくだんのごとし)
元和三年 (1617年) 十二月廿八日 隆信 (三代平戸藩主・松浦宗陽隆信) 押字
     龍洞軒


寛永二年乙丑十二月廿八日仏領四斗六升となる其證状云
寛永二年(1625年)乙丑(きのとうし) 十二月廿八日仏領四斗六升となる。
其の證状に云 う。


  知行
四斗六升遣之もの也仍如件
四斗六升之を遣わすもの也仍如件(よってくだんのごとし)
寛永二年十二月廿八日 隆信 (三代平戸藩主・松浦宗陽隆信) 押字
   壱州  龍洞軒

寛文六年丙午六月鐘をかく其銘云 鐘指口二尺壱寸八分
寛文六年(1666年)丙午(ひのえうま)六月鐘をかく。
其の銘に云う。 鐘の指口(さしぐち)二尺壱寸八分(66cm)


大日本国壱岐州石田郡物部之庄水月山龍洞軒鐘之記
大日本国壱岐州石田郡物部之庄水月山龍洞軒鐘之記
爰有所發願旨趣吾得人身生仏国厠僧倫著法衣然未知生前裡福
(ここに) 發願(ほつがん・仏に願をかけること、誓願を起こすこと)する所有り。
旨趣(ししゅ・事柄の意味、理由、趣旨)は 吾(われ)人身仏国に生を得(え)厠僧倫 法衣
を著し、然(しかれども)(いまだ)生前に 裡福(りふく・「裡福はあざなへる縄のごとし」、裡
は福の種、福は裡の種)知らず。

矧明将来好に乎幸遇小痴福為助
道方便於是先続大品般若経一部
六百巻荘法宝次鋳鳧鐘一口厳法
器□鉢嚢頌誠信了□伏□
帝道遐昌
仏日増輝国界大平万民豊楽専
願上報四恩下盗三有法界有情同圓
種知慈今

寛文六暦丙午林鐘如意目
寛文六暦(1666年) 丙午(ひのえうま)林鐘如意目
   住持比丘亀雄英鶴謹誌
 住持比丘(びく・出家得度した男子、修行僧) 亀雄英鶴謹(つつしんで)(しるす)
肥前国平戸住
   伊藤大隅小掾 (おおすみしょうじょう) 藤原貞勝作
   野中源左衛門尉□之

寛保三年 (1743年) 癸亥 (みずのとい) 五月再興
 開山則室軌 (そくしつきこう?) 記室 (きしつ)
          文亀二年 (1502年) 壬戌 (みずのえいぬ) 三月

 中興天翁殊公 (てんおうしゅこう) 座元  慶長六年 (1601年) 辛丑 (かのとうし)

 二世徳岩延 (徳岩宗延?・とくがんそうえん?) 座元
                弘治元年 (1555年) 乙卯 (きのとう)

 三世嶺雪鷲 (嶺雪宗鷲?・れいせつそうしゅう?) 座元

 四世泉翁参 (泉翁宗参?・せんおうしゅうさん?) 座元

 五世養典育 (養典宗育?・ようてんそういく?) 座元

 六世殊白文 (殊白宗文?・しゅはくそうぶん?) 座元

 七世歓江悦 (歓江宗悦?・きんこうそうえつ?) 座元

 現住一統 (いっとう) 和尚


金水山江釣院 (きんすいざんこうちょういん)   田迎村 (たむかえむら)
客殿本尊釈迦坐像長六寸七分
客殿の本尊は釈迦坐像で長(たけ) 六寸七分(20.3p)
祠堂本尊地蔵坐像長七寸七分餘
祠堂の本尊は地蔵坐像で長七寸七分(23.3p)

 客殿 東向 茅葺
   梁行三間半 (6.4m)  桁行五間半 (10m)

廊下   茅葺
   梁行二間 (3.6m)  桁行一間半 (2.7m)

庫裡 (くり)    茅葺
   梁行三間 (5.5m)  桁行四間 (7.3m)

境内   三畝十四歩 (343u・18.5m四方)
  内寺地 竪十三間 (23.6m)  横五間 (9.1m)  二畝五歩 (215u・14.7m四方) 院領の内 
  同山 竪九間 (16.4m)  横四間 (7.3m)  壱畝六歩 (119u・10.9m四方)  運上山
  同墓所 竪三間 (5.5m)  横壱間 (1.8m)  三歩 (9.9u・3.1m四方)

院領畑  三畝廿四歩 (377u・19.4m四方)  高四斗


當院ハ如意山の末派なり壱岐梵刹帳云
當院は如意山の末派なり。壱岐梵刹帳に云う。
武生水村金水山江釣院天文十二癸卯年開闢長禅和尚を請て開山とす
武生水村金水山江釣院は天文十二癸卯年 (1543年・みずのとう)開闢(かいびゃく・
初めて寺院などをつくること)長禅和尚を請うて開山とする。
江釣宗波居士開基本尊釈迦坐像
江釣宗波居士(こうちょうそうはこじ)開基。本尊は釈迦坐像。
一云武生水村金水山江釣院本尊木躰釈迦坐像六寸八分以上
一に云う。武生水村金水山江釣院の本尊は 木躰釈迦坐像で六寸八分(20.6cm)以上
寛永二年乙丑十二月廿八日院領十五石賜ハりしよし
寛永二年(1625年)乙丑(きのとうし) 十二月二十八日院領十五石賜わりしよし。


年丙午二月十日午刻炎上 但し客殿より火起る 国中勧化にて梁行四間
桁行七間の客殿再建
年丙午(寛文六年?ひのえうま)二月十日 午刻(うまのこく)炎上 但し客殿より火起る 国中
勧化(かんげ・僧が仏寺・仏像を造営するため信者に寄付を勧めて集めること、勧進)にて
梁行四間(7.3m)桁行七間(12.7m)の客殿を再建。


宝永二年乙酉七月鐘を軒にかく其銘云
宝永二年(1705年) 乙酉(きのととり)七月に鐘を軒にかく。其の銘に云う。
壱岐国石田郡物部庄武生水村金水山江釣院鐘銘
壱岐国石田郡物部庄武生水村金水山江釣院の鐘銘

  諸行  生

  當院八世鏡山代 (きょうざんのだい)
寔宝永二乙酉年 (1705年・きのととり) 孟秋 (もうしゅう・秋の初め、陰暦7月の異称)
  願主
     山口冶兵衛  九郎右衛門
     西村角兵衛  諸旦越中 (しょだんおつちゅう・その他大勢の檀那一同)

鐘師 (かねし) 摂津国大坂堺筋淡路町
   舟橋屋九兵衛尉勝次
同国 伊右衛門尉藤原正次

現住僧客殿の板葺を茅葺とす

 開山宗雲長禅 (そううんちょうぜん) 和上

 二世一粒永 (一粒宗永?・いちりゅうそうえい?) 座元  七月廿六日

 三世関皆入 (関皆宗入?・せっかいそうにゅう?) 座元  二月十四日

 四世祐岩存 (祐岩宗存?・ゆうがんそうそん?) 座元  十二月九日

 五世陽心永 (陽心宗永?・ようしんそうえい?) 座元
          天和(ママ)七年 (元和七年・1621年?)辛酉(かのととり)十月十七日

 六世中興鉄元 (てつげん) 和上
         明応(ママ)元年 (明暦元年・1655年) 乙未 (きのとひつじ) 正月廿三日

 七世一貞作圓 (いちじょうさくえん) 座元  廿三日

 八世南渓長薫 (なんけいちょうくん) 和上  元禄十四年(1701年)辛巳 (かのとみ) 五月二日

 九世鏡山鐡呑 (きょうざんてつどん) 首座 (しゅそ)
               享保二年(1717年) 丁酉 (ひのととり) 三月十二日

 十世徳養鉄髓 (とくようてつずい) 蔵司 (ぞうし)
            元文四年 (1739年) 己未 (つちのとひつじ) 五月十一日

 現住祖元 (そげん)


永龍山平山寺 (えいりゅうざんへいざんじ)    庄村 (しょうむら)
本尊地蔵坐像長壱尺壱寸順礼観音長八寸余
本尊は地蔵坐像で長(たけ) 壱尺壱寸(33.3cm)順礼観音長八寸(24.2cm)(あまり)
  一云本尊地蔵長壱尺四寸五分観音坐像長五寸
  一に云う。本尊は地蔵で長(たけ) 壱尺四寸五分(43.9cm)観音坐像長五寸(15.1cm)

堂 南向   茅葺
   梁行壱間半 (2.7m)  桁行二間 (3.6m)

境内 廿貳歩 (73u・8.5m四方)
  内寺地 竪四間 (7.3m)  横四間 (7.3m)  十六歩 四畝 (397u・19.9m四方)
  同山 竪三間 (5.5m)  横壱間 (1.8m)  三歩 (9.9u・3.1m四方)  運上山
  同無墓所

寺領畑四畝 (397u・19.9m四方)  高四斗


當寺ハ如意山の末派なり壱岐梵刹帳云武生水村永龍山平山寺長享二戊申年
天佐と申出家開基云々
当寺は如意山の末派なり。壱岐梵刹帳に云う。武生水村永龍山平山寺は
長享二戊申年(1488年・つちのえさる)天佐と申す出家開基云々。

本尊地蔵坐像内に札所三十一番聖観音近江長命寺の移し
本尊は地蔵坐像、内に札所三十一番の聖観音、近江長命寺の移し。
一云武生水村永龍山平山寺本尊木躰地蔵坐像壱尺壱寸
一に云う。武生水村永龍山平山寺の本尊は木躰地蔵坐像で壱尺壱寸(33.3cm)
元和三年十二月廿八日寺産一石寄附の状あり其文云
元和三年(1617年)十二月廿八日寺産一石寄附の状あり。其の文に云う。


  知行
壱石全可為寺領者也仍如件
壱石全(すべて) 寺領可為(たるべき)者也 仍如件(よってくだんのごとし)
元和三年 (1617年) 十二月廿八日  隆信 (三代平戸藩主・松浦宗陽隆信) 押字
   平山寺





   
































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