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司馬遼太郎が見た壱岐の風景


唐人神


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はじめに

 司馬遼太郎氏の「街道をゆく 」第13巻(壱岐・対馬の道)で、司馬さん一行が見た壱岐の風景を写真に撮りましたので御覧下さい。黒字の風景描写部分は(壱岐・対馬の道)から抜粋したものです。






1.壱岐空港

 博多湾をかすめつつ北上すると、前途の海は明るかった。十数分でYS11が小さな飛行場に降りた。うそのように晴れあがった空の下に小さな空港ビルが建っている。空港ビルまでが、どこか磯臭かった。

 司馬さん一行が壱岐に取材で訪れたときに飛んでいたYS11は、福岡便の廃止とともに今はもう飛んでいません。 現在は長崎とのあいだにセスナ機が運行しているだけです。

磯の匂いがする空港 小さな空港ビル



海辺に並走するように造られた滑走路





2.途中の田園風景

 途中の田園は野というほど平坦ではない。とびきり低い段差がたがいに連鎖しているという感じで、水田と畑が入りまじり、豊かな感じがする。

 空港から印通寺浦までの道を空港線といい、その沿道の田園風景を描写した言葉である。見慣れた風景であるが、言われてみればなるほど野(平野)ではないな と感心した。

 空港線沿道の田園風景@  空港線沿道の田園風景A



空港から印通寺浦までの地図





3.唐人神

 車が印通寺浦に着いた。小さな湾が、口を南にひらいている。湾口に妻ヶ島という、湾の面積よりも大きい島が風防ぎのためうずくまっているから、格好の投錨地だったのであろう。港の東端が小さな丘になっていて、叢林の生えるままになっている。丘への登り口は土質が崩れやすいのか石垣で補強されており、石垣の相からみてよほどの年代がたっているのかと思われた。丘は自然のものなのか築山なのか、よくわからない。登ってみると十五、六歩で、上に達した。そこに笹や雑木にかこまれて、いかにも土俗神といったふうな粗末な石造の 祠がある。

 唐人神の一帯は、昔は唐人崎と云われて海に突き出た小さな岬となっていたそうだ。現在では周りを埋め立てられて建物の中に埋没寸前である。

妻ヶ島と印通寺港 印通寺港と妻ヶ島
私にはよく解らない「よほどの年代がたっている石垣の相」 十五、六歩で、上に達した参道

 壱岐には、唐人―(漂流朝鮮人であろう)―を祀った古址が多い。海のむこうから来た客人(まろうど)を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。 唐人神の由緒についてはその年代はさだかでないが、中世の頃、若い唐人の下半身が流れつき、それを土地の漁師が祀ったという。  典型的な漂着神である上に、縁者不明ということでエビス神であることの神秘的濃度高く、さらに唐人であることでいっそう濃くなっている。  土地の漁師たちはこの塚をあがめて大漁を祈ったのであろうが、ただ下半身であるということで、のちべつな御利益が付加され、次第にそれのみなった。

 司馬さんがいう 「ただ下半身であるということで、のちべつな御利益が付加され、次第にそれのみなった。」 とは、夫婦和合、良縁、安産の神、男女両性の下の病の神様として有名になり、今ではそのことでの参拝者ばかりになったことをいっている。


「わたしゃ唐人崎の唐人神よ  腰のご用ならいつも聞く」

といった、歌とも、言葉ともつかぬものが地元では語りつがれている。
 蛇足であるが、他のHPを見ていたら 「宿に戻って唐人神を訪れた話をすると、女将さんに健康な人が訪れちゃうと意味も無くおしっこが近くなったり、尿管結石なんかの"しも"の病気を発症することもあるんだよと 脅されてしまった。」 と面白く書いてあった。

建物の中に埋没しそうな小さな杜 小さな丘に小さな杜



腰の下の病に霊験あらたかな唐人神様



4.古代の海駅跡

 唐人神の浜辺を去ってしばらくゆくと、街道ぞいに家並みが密集したあたりに出た。 李 進煕氏が「さっきの印通寺浦は奈良朝時代はこのあたりだというんです」と、いった。 当時、海が内陸部へひっこんでいたという。  家並の間に鎮守のような杜が洞のような暗がりを作っていて、ここが古駅であると書かれている。「延喜式」にある石田郷の海駅はここにあり、国立の駅舎もあったらしい。ついでながら、「延喜式」では、印通寺を優通(インツ)と書いている。

 「ここが古駅であると書かれている。」との一文をたよりに、印通寺港界隈の立て札や石碑を探し回ったが見つからず、他のHPで調べていたら自分と同じように *探している人 がいたが、結局見つからなかったようだ。 石田図書館で郷土史を調べて、郷土民俗学者の *山口麻太郎翁 の「壱岐国史」に書いてあるのを見つけることが出来た。「ここが古駅であると書かれている。」の主語がないので、立て札や石碑と勝手に思い込み、謎解きみたいに時間がかかってしまった。


* 壱岐国の古代海駅と周辺遺跡詳細

家並の間に鎮守のような杜 津ノ宮は海駅優通(印通寺)港の神であった。



 津ノ宮付近は奈良朝時代には国立の駅舎があり、今回 司馬さんは触れていないが、西側には椿遺跡があり、発掘調査の結果古代瓦が出土した。当時その瓦が使われていたのは、国府または有力寺院だそうで、奈良朝時代にはこの付近は壱岐国で一番の繁栄をしていたのであろうと思われる。

発掘調査終了後もとの川底に眠る椿遺跡 国府に相当する建物があったと考えられる丘陵部
唐人神から遣新羅使の墓までの地図





5.遣新羅使の墓

 天平八年(七三六)、遣新羅使の一員として、潮路を朝鮮にむかっていく途中、壱岐で病死した若者(と想像する)は、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)という名である。
本道を二キロほどゆき、やがて車を低速にして右折し、枝道に入った。いわば山道で車 が駕籠のようにゆれた。緩勾配をのぼって段丘上に出ると、空が大きくなった。運転手さんは車をとめ、あぜ道のむこうの小さな杜を指さして、あれです、といった。
 小さな墳土が、雑木とつたやかずらにおおわれていて、その中にあとからたてたらしい粗末な石塔がある。雪宅満の祖はこの島から出た。この島人の特技である亀卜をもって都の官人になり、やがて遣外使節団の一員になり、奇しくも先祖の島で死んだ。島人はその縁につながって鄭重に墳土を築いたのであろう。
 その墳土が千数百年を経てなお残っているのは、一種の漂流神のあつかいをうけて、ひとびとの信仰―(とくに悪疫よけ)―の対象になったからであろう。宅満が八日に死んだというので、近在の村人たちは毎月八日に牛馬息災と五穀豊穣を祈りにくるという。


*(壱岐巡り-遣新羅使の墓) 遣新羅使 雪連宅満の詳細が書いてあります。   

 本道を二キロほどゆき、右折し、枝道に入った。  いわば山道で、車が駕籠のようにゆれた。

 緩勾配をのぼって段丘上に出ると、空が大きくなった。
 小さな杜を指さして、あれです、といった。

 司馬さんが訪れた時と現在(H18n12g)では、道路の状況は大きく変わっているが、風景そのものはあまり変化がないと思う。それにしても、雪連宅満の小さな墳土が1270年の時を経ても残り、しかも忘れ去られずに、現在でも供養が行われていることに大きな驚きを感じる。

 小さな墳土が、雑木とつたやかずらにおおわれている。  その中にあとからたてたらしい粗末な石塔がある。















   


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