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司馬遼太郎が見た壱岐の風景


壱岐の田原


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はじめに

 司馬遼太郎氏の「街道をゆく 」第13巻(壱岐・対馬の道)で、司馬さん一行が見た壱岐の風景を写真に撮りましたので御覧下さい。黒字の風景描写部分は(壱岐・対馬の道)から抜粋したものです。






1.岳ノ辻

 宿は郷ノ浦にとってある。雲が赤く色づきはじめていたが、日没まで十分時間がありそうだった。「岳の辻へ行きますか。」と、運転手さんがいった。「山ですか」須田画伯がきいた。「山といえば山ですけど」運転手さんは、その地形を表現しかねている。地図をみると、岳ノ辻は郷ノ浦までの途中、多少枝道へ入るだけでいい。この岳ノ辻は標高212.9mで、平坦な壱岐では、ずばぬけた高地をなしている。

 石田から宿をとっている郷ノ浦に向かう途中での運転手との会話であり 、壱岐の人々の地形にたいする思いがよくでていて、私の好きなくだりである。

平坦な壱岐では、ずばぬけた高地をなしている 岳ノ辻への北側登山道入口



岳ノ辻から郷ノ浦周辺地図



 岳ノ辻までのあいだ、かつて東国の防人が壱岐に駐屯させられたことを思ったが、かれらが見た景観といま私どもが見ているそれとはさほどのちがいがないのではないか思われた。岳ノ辻とよばれる丘の上にも烽火台が置かれた。おそらく常時十人の防人がその番をし、規定どうり、十日に一日休日をとり、三年の徴兵期間中、一日も故郷を想わぬ日がなかったに相違ない。

 司馬さん一行はは、北側の登山道より登り南側へ降りている。地元の人にとってありふれた風景であっても、旅人から情景を語られると新たな感動をおぼえる。

 烽火台のレプリカ  岳ノ辻への南側登山道入口



 最高所に粗末な無人の展望台があって、その粗末さがかえって自然をそこなうことをすくなくしていた。台上にのぼって国見してみると、海にかこまれたこのワカメをおしひろげたような形の島が、海にむかって押し出すように、緑がひろがっている。一面の緑に無数の濃い斑点があり、それはすべて森だった。森の多さにおどろいた。上代はその森ごとに神がいた。いまもこの島ほど古社の多い土地は全国でもめずらしいのではないか。

 そのあたりは岬と島々が複雑に影をつくりあってるせいか、入り江がひときわ暗くみえた。白い船体が、暗い藍色のなかで、まぼろしのように見えた。


 夕暮れ時に対馬に行くフェリーを見て、 郷ノ浦港と嫦娥(じょうが)瀬戸について感想を述べている。

 粗末な展望台があった場所  岳ノ辻への南側登山道入口



上代はその森ごとに神がいた。



 壱岐にも戦国期はあった。玄界灘に浮かぶ孤島とはいえ、こんにちでもなお、長崎県という山の多い県では二番目の広潤な平野で、穀倉地帯というに足りる。北九州の大勢力がこれを併合しようとひしめいたのは当然といってよい。このため、地生えの勢力が育たなかった。つねに支配者は本土からきた。つまりは、戦国末期から明治維新まで壱岐は平戸藩の領地に、というぐあいになっていた。

 司馬さんは、降りる途中で、江戸時代の壱岐にとって、特別な意味をもつ平戸島が見えていたが、前の車との連絡がうまくいかず、見損なったことを残念がっている。


 しかしそれにしても、壱岐の側からいえばたかが一島によって一国が支配されるのはなんだか情けないようなものであったろう。逆に物成りのうすい一島を本領としている側(平戸)からいえば米作地の壱岐を領有することによってかろうじて一藩を成立させていたかとも思える。

 頂上から平戸島を眺望  中腹から平戸島を眺望



 壱岐の農村はいわゆる散村をなしている。日本の他の農村は水田農耕の一特徴として農家がかたまって村落をなしているが、壱岐では一軒づつ点在しているのである。このために野がひどく広やかにみえる。「よかタバルでしょう」 と運転手さんが、陽が前方の段丘に沈んでゆくのを見ながらいった。タバルとは熊本の田原坂のタバル、壱岐では水田のある野のことをいう。おそらくかつては九州一円で生きていたことばだったにちがいない。






2.郷ノ浦

 まだ六時前だと思ったのだが、郷ノ浦の町に入ったときは日がくれていた。夕食までのあいだ、部屋の机の上で地図をひろげてみた。この宿のすぐ北に崖が見えたが、地図でたしかめると亀丘城とある。(平戸藩は壱岐を自由自在に料理いていたのではないか)ということは、その特殊な行政区分をみても感じられる。全島を農村である触(ふれ)と漁村である浦にわけた。農村部を区分してそのいちいちの行政単位を村とよばず触とよぶ例は、壱岐以外に全国にない。

 松浦党で岸岳城(佐賀県東松浦郡北波多村)の第十二代・波多下野守泰は、文明四年(1472)、壱岐を分割統治していた同じ松浦党の志佐(しさ)・佐志(さし)・呼子(よぶこ)・鴨内(かもち)・塩津留(しおづる)氏を襲い、壱岐を統一、亀丘城に拠って領有した。 それ以降、亀丘城が壱岐支配の中心となり、戦国末期からは松浦氏が壱岐を統治したが波多氏と同じように亀丘城を拠点とした。波多泰の領有から数えて五百三十年、郷ノ浦は壱岐の政治・経済の中心として栄えている。

亀丘城跡入口 北面に残る石垣の一部



亀丘城跡から見た壱岐の中心地 郷ノ浦



 郷ノ浦の宿を出発することにしたが、べつにあてはない。とりあえず北をめざすことにした。途中、すべてが緑野である。丘は無数にあるにせよ、キャンパスに絵具を盛りあげた程度の隆起でしかない。

 「キャンパスに絵具を盛りあげた程度の隆起」 壱岐の地形をあらわした言葉である。ある時は「ワカメを押し広げたような」 「水の上に蝋をたらしたような」 「カレー皿をふせたような」など、壱岐が島としていかに平坦かと驚いている。

キャンパスに絵具を盛りあげた程度の隆起



 途中、散村が見られる。孤立した農家が、点々と丘の叢林にうずもれて立っている。この壱岐特有の田園風景は、平戸藩が壱岐一島の農地を各戸に平等に配分し、定期的に農地の割替をしたということでできた。このため、平戸藩時代、富はほぼ均等であった。厳密にいえば「富」というより「貧は」といったほうがいい。

 写真を撮りながら、司馬さんの紀行文を思いだすと、歴史的背景などが頭をよぎり、見慣れた風景が新たな感動をあたえる。

壱岐特有の田園風景である散村@ 壱岐特有の田園風景である散村A
  

 国道からすこし歩いて、国分寺跡とされる野へ行った。途中、壱岐牛のための牧草の畑があった。そのむこうにわずかな芝地があってそこが寺跡らしいが、べつになにも遺っていない。

 司馬さんが来島された当時は、立て札もなく草が伸び放題だったのか、写真の手前の方に礎石が5,6個あるのが見えなかったようです。径が50〜60cmで上部が平面に削られています。 現在は数個の礎石が残るだけの芝地になっているが、発掘調査では奈良の平城宮と同じ瓦が出土し、この瓦は奈良と壱岐の二例しかない貴重なものだそうです。

国分寺跡入口 べつになにも遺っていない国分寺跡地
  

 「私どもの小さいころは」 と、目良翁がいった。 「壱岐の農家はみなわらぶきでやンした。わらといっても、むぎわらでやンしたが」 いまはすべて瓦ぶきである。

 今では壱岐でもわらぶき屋根などなく、「壱岐風土記の丘」にいって、写真を撮ってきました。江戸中期の古民家を移築復元。ウシノヤマ(牛舎)、ホンマヤ(農具置き場、穀物倉庫)、オモヤ(2階建ての住居)、インキョ(家を息子にゆずった老夫婦の住居)が並ぶ。

ホンマヤ ウシノヤマ
オモヤ




















   


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