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司馬遼太郎が見た壱岐の風景


曽良の墓


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はじめに

 司馬遼太郎氏の「街道をゆく 」第13巻(壱岐・対馬の道)で、司馬さん一行が見た壱岐の風景を写真に撮りましたので御覧下さい。黒字の風景描写部分は(壱岐・対馬の道)から抜粋したものです。






1.曽良の墓

 ようやく壱岐の北端の勝本の浦に達した。そのむこうはもはや対馬海峡である。勝本の入江を南から太い腕をのばしたようにして抱いている山にのぼると、木造船時代、ここが絶好の錨地であったことがわかる。港口の風よけとして、ビスッケトをくだいたようにいくつもの島が散在している。その入江を見おろす墓地に、俳人河合曽良(1649年〜1710年)の墓がある。

 司馬さん一行は宿の郷ノ浦を出て、芦辺町国分の国分寺跡を見学し、その後勝本に到着している。司馬さんは、「港口の風よけとして、ビスッケトをくだいたようにいくつもの島が散在している」と書いているが、実際は東から名烏島・若宮島・辰ノ島の三島しかない。しかし、ちょっと見には、ビスッケトをくだいたようにいくつもの島が散在しているように、見えなくもない。


ビスッケトをくだいたようにいくつもの島が散在している
国道より枝道に入る 入江を見おろす墓地の入口



 曽良は渾身がそのまま詩人だったような印象がある。しかし必ずしもすぐれた句を残さず、むしろ後世の私どもにとっては芭蕉の随順者として記憶されている。 曽良は、信州の上諏訪の人である。


 幕府に巡見使という不定期の制度がある。将軍の代替りごとに出す。六十一歳のとき、西海巡見使の随員のなかに曽良が加えられた。巡見使とその随員一行が壱岐の勝本でとまったのは、一泊だけである。病人の曽良だけが、中藤家にのこった。そのまま起きあがれず、宝永七年五月十二日、他家の病室で死んだ。


 曽良の墓は、その最期を看取った中藤家の墓地にある。墓石は海を背にしている。当時、一般に墓石は小さかった。曽良の墓も小さい。私の想像のなかの曽良も、小柄で痩せて、手の指なども小枝のようであったかと思われる。このため枯れ苔でおおわれた墓石の前に立つと、曽良そのひとがそこに居るようにも思われる。

  曽良は江戸前期の俳人松尾芭蕉の弟子で蕉門十哲の1人にも数えられる、平成元年5月、「曽良忌280年祭」が、曽良の出生地信州より、諏訪市長を始めとする多くの墓参団が来島し、記念法要が営まれた。城山公園東入口には、新しく「記念句碑」が設けられ、 「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原」 の句が刻まれている。
 句碑の脇に立つ柱は、有名な諏訪大社の「御柱祭」で交代した古御柱が、友好都市締結十周年を記念して勝本町に寄贈されたもの。 



*(壱岐巡り- 俳人 曽良)   河合曽良についての詳細が書いてあります。   

 曽良の墓入口  曽良の墓

 曽良の句碑と諏訪大社の御柱
 曽良終焉の地

勝本浦周辺史跡地図








2.壱岐北端の港町勝本

 私どもは漫然と勝本の町の海側や町なかを歩いていた。岸壁に沿って海岸道路がついている。岸壁に対し、白いイカ漁の船が、ナポレオン時代のフランス歩兵みたいに船首をむけ、横隊で堵列している。ついそれらを閲兵するような位置で歩くのである。どの船もレーダーをはじめとしてイカ漁に必要なあらゆる電機、機械の装置をつけ、甲板には綱揚げのための大きな巻上機をそなえ、小型の軍用艇のようにものものしかった。
 あとできいたのだが、この勝本町だけでこういう船が六百四十隻あるという。その意味では漁村というより、機械の町である。

 勝本港は小型漁船の基地としては島内はもとより、今でも日本有数の漁港である。しかし勝本港の全盛期から比べると漁船の数は2/3程度まで減っているのではないか。

歩兵みたいに船首をむけ、横隊で堵列している。@ 歩兵みたいに船首をむけ、横隊で堵列している。A

小型の軍用艇のようにものものしかった。

昭和52年の勝本港



 勝本は岸壁の風景こそ先端的だが、海辺から家並を一重ぶんだけ町なかに入ると、道は江戸期の路幅のままになってしまう。両側の町屋はすべて古風で、ときに風霜にさび磨かれた格子、木目の露れをみても百年は経ったかと思われる涼み台、宿場の旅籠のような二階とその木製手すり、あるいはペンキ塗り和製木造洋館の床屋と家々がならんでいる。電柱までが木で、古風である。

 一般の通りと商店街の通りを並べ、ついでに勝本朝市の賑わいを撮ろうと思ったが、この日はあいにくの小雨日和と寒さのため、田舎のおばちゃん達の露店が少なく、客足もそれのともない少なかった。

(一般の通り) (商店街の通り)
勝本の朝市

  

 司馬さんが言う「風霜にさび磨かれた格子」を探してきました。まだ他にもあり見て歩くだけでも、けっこう楽しめます。

一般町家の格子 薬局の格子
造り酒屋の格子 海産物問屋の格子
  

 今度は「宿場の旅籠のような二階とその木製手すり」を探してきました。昔にくらべたら少なくなったが、まだそこそこに残っていました。

木製手すりのいろいろ@ 木製手すりのいろいろA
木製手すりのいろいろB
  

 最後に「木目の露れをみても百年は経ったかと思われる涼み台」 を探しましたが、海産物問屋の涼み台が1つありました。しかし私が小さい頃、よく目にした一般町家の涼み台は、見つけることが出来ませんでした。
 司馬さんがいう涼み台は、地元では「ばんこ」といって、折り畳めるように工夫がなされ、涼み台としてだけではなく、あるときはお店の陳列台となり、物をのせたりもをする。
 さすがに木製の電柱は、今はもうありません。

海産物問屋の涼み台
  



 その家並のなかにたまたま「うどん」というのれんがかかっている店をみつけた。美人画の一枚カレンダーが押しピンで貼られていたが、よくみると去年のものだった。カレンダーまで去年のまま居すわっているほど、 勝本の町の時間はゆっくり流れているらしい。





















   


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