×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

司馬遼太郎が見た壱岐の風景


唐神遺跡


TOPへ

 

はじめに

 司馬遼太郎氏の「街道をゆく 」第13巻(壱岐・対馬の道)で、司馬さん一行が見た壱岐の風景を写真に撮りましたので御覧下さい。黒字の風景描写部分は(壱岐・対馬の道)から抜粋したものです。






1.神皇寺跡

 ようやく壱岐の北端の勝本の浦に達した。そのむこうはもはや対馬海峡である。当時も今も勝本には平地がすくなく、港を抱いている山と岬の下に街がある。自然、宏壮な建物にとぼしい。ただ江戸期の大企業のひとつといっていい鯨組の親方の屋敷、処理工場などは別だが、これは浜辺にある。山手における宏壮な建物は江戸期を通じて一貫して通信使の迎接所になっていた神皇寺ぐらいのものであった。

海のむこうには対馬が見える。
勝本には平地がすくなく、山と岬の下に街がある。 その景観は『海遊録』の記述とはちがっている。










   『海遊録』では、「山の下に史館を築き、その結構は百余軒、曲々として道が通じ、障子をへだてて房があり、房には浴盥、茶湯、溷厠を置き、その造りは精巧である」とある。精巧だがせまい。ぜんたいとして一つ屋根の下に入れられ、前のひさしは海浜に接していて、庭もなく、じつにうっとうしい、と申維翰はいう。

石井敏夫氏から提供
石井敏夫氏から提供





 中上史行氏の『壱岐の風土と歴史』から、もう少し「朝鮮通信使」と『海遊録』について語りたいと思います。


 岸をはさんで見物する男女は、山一面に簇立し、紅衫を着たものが過半で、青や白の斑欄衣(あや文様の衣)も混じっている。まさに、春林に茂る百花が媚顔を競っているようだ。
 恨むらくは、ただ、見物の男女が三日間も解散しないことである。山阿(やまかげ)に屯ろして露宿風炊し、これ多くは遠方から糧食をかついできた客たちだという。

勝本浦では、百余の出迎えの船が朝鮮通信使一行をむかえた。
現在の勝本浦正村湾 朝鮮通信使が書いた勝本浦正村湾
『壱岐名勝図誌』に書かれている勝本浦正村湾










  順風祈念


 通信使がきて、勝本での滞在が少しでも長くなると、経費が嵩みます。逆風や時化になると、動けません。そこで、藩主は 爾自神社(郷ノ浦町有安触)で、順風祈念を行わせています。この神社の境内にある東風石大明神が、神功皇后伝説にまつわる風の神であったからです。皇后が出兵の折り、壱岐は勝本浦に寄港しましたが、順風がないため出船ができません。そこで、この東風石とよばれる神に祈願しますと、石は二つに割れてさわやかに風が吹き出し、出兵できたという故事があるのです。
 この祈りは、表向きは通信使一行の航海に追い風がふき、無事に航海できますようにとのことですが、本心では、壱岐での滞在が一日でも短いことを願う祈りでもありました。宝暦十三年などは、通信使が入港する前に、もう祈願が行われています。


『壱岐の風土と歴史』より
 

 爾自神社の鳥居 爾自神社の参道
爾自神社の境内にある東風石大明神










 勝本浦とその周辺の大きな建物跡を簡単に紹介します。司馬さんの書いた風景の中には入ってないので、詳しくはまた別の機会にしようと思ってます。

鯨組土肥家の「アホウ塀」 対馬宗家の対馬屋敷跡
加藤清正が築いた聖母宮の石垣 勝本城の石垣









2.唐神遺跡

 「唐神遺跡に行ってみたいんです」と私がいったため、目良翁と須藤さんが、その場所まで案内してくれたのである。赤土の地肌をみせた切通のような箇所を通りぬけたところで、車を降りた。あとは歩かねばならない。地形は高台になっており、小規模な隠国のようになっている。

小規模な隠国のようになっている。(東側から) 小規模な隠国のようになっている。(南側から)



 地形の高低が錯綜しているため、ひどく高い水田があるかと思えば、隣の一枚の田は二メートルも下になっている。その高い田の崖っぷちに、四個の石が、小児や幼児が立っているようにならんでいる。石に大小あり、二メートル近いのもあれば、五十センチ程度のものもある。
 「水神です」須藤さんがいったが、画伯の耳に入っていない。この素朴な石造物は、男根に似ている。田の神か、雨乞いのときの水神なのか、よくわからない。田の神はふつう女性とされている。水神であればしばしば蛇や竜への信仰のかたちをとるが、壱岐における水神もしくは豊穣の神がなぜ男根の象徴をとっているのか、わかりにくい。

地形の高低が錯綜している@ 地形の高低が錯綜しているA






 「壱岐における水神もしくは豊穣の神」と書かれた石造物を、写真に撮ろうと唐神遺跡を中心としてその近辺を随分と探し回ったが、見つけることが出来なかった。 今度見つけることが出来たら、ここに掲載しようと思います。


 森のなかに入ると、ほそい道が、落葉や雑木の若木にうずまって、かぼそくついている。この森そのものが(周辺の田畑をふくめて)古代の集落の跡であった。集落跡をふるくから神域としてあがめてきたというのは、いかにも古神道の国である壱岐らしくていい。
 唐神遺跡は弥生中期から後期にかけての集落あとで、その当時の集落の一特徴である高地性のものである。刈田院川という細流の上流にあたり、石器をつかうひとびとによって水田が経営されていた。

ほそい道が、落葉や雑木の若木にうずまっている。@ ほそい道が、落葉や雑木の若木にうずまっている。A






 私どもは森の出口から入ったらしい。その奥に石造りの祠があった。小さいわりには毅然として森の入口に向かって立っている。祠の正面に、「加良香美」ときざまれていた。祠のまわりはわずかに一区画を整備され、その一区画をかこむ樹々は密林といってよい。

小さいわりには毅然として森の入口に向かっている。@ 小さいわりには毅然として森の入口に向かっている。A

























   


ブログパーツ