壱岐国の古代海駅と周辺遺跡詳細



1.山口麻太郎翁の壱岐国史より

 「延喜式」兵部省式に、壱岐島駅馬を「優通各五疋」としている。優通は駅家名であり、各とあるから一駅が脱落しているわけである。
 「和名抄高山寺本」にはこの脱漏駅家名を「伊周」としている。伊周という地名はなく、他の一駅は今の勝本古名可須でなければならぬから「何須」の何を伊に誤ったものと思われる。
 吉田東吾は「地名辞典」に(優通)をインツと訓み、「肥前松浦郡登茂駅より優通に渡航するなれば、印通寺浦たる事想うべし。優は漢音イウなれど、古人はイングに假りインツと唱えしならん。
 高山寺本和名抄には時通駅家とある。其時字は謬れるか」とも書いている。
 漢字は宛字である。ユウズは今も小字に「勇頭がある。」印通寺浦は町の屋敷地から西の水田地(今の遊園地)は全部埋立地である。防波堤のなかった古代においてはこの西の隅の海だけが風波の当らぬ一番安全な地であった。この港が古駅優通の地であった。
 津ノ宮はこの港の神であった。当時の壱岐の玄関口であった。壱岐國の津で、式内神社の国津神社はここにあったのである。




2.平凡社の郷土歴史大辞典・長崎の地名より

 古代の壱岐に置かれた西街道の駅家。読みはユズまたはユウズ、インツなどが考えられる。
 肥前国から出た船が壱岐島の南部にあたる当駅に入り、島の内陸部を北上して伊周駅に至る路程であった。
 「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に壱岐国二駅の一つとして「優通」がみえ、駅馬五疋が置かれていた。
 「和名抄」に記される時通郷に駅家と注記があることから、同郷に優通駅が置かれていたのであろう。
 その所在地については、印通寺浦の字勇頭に結びつける説がある。(壱岐国史)西部の水田はかつて海で穏やかな良港であったとし、 これが壱岐国の津にあたり、「延喜式」神名帳にみえる石田郡十二座の一つ「国津神社」が鎮座していたという。
 勇頭がある現石田西触には津ノ宮や泉・大門などの地名がある。
 勇頭・津ノ宮神社の西にある椿遺跡では7世紀代の須恵器のほか、「郡手」(あるいは郡乎)と刻印された甕が 発見され、また統一新羅系の土器や、格子のタタキが施された瓦が出土、寺院などの官衙的な性格が 指摘されていることも注目される。
 九州島からは、肥前国の登望駅(現佐賀県呼子町小友)、 あるいは逢鹿駅(現佐賀県唐津市か)から出航したとされるが、それを受け入れる当地は駅家であるとともに津湊であった。
 天平八年(七三六年)六月、遣新羅史の随員であった雪連宅満が航海の途中で病にかかって死去し、 その遺体が岩田野に葬られているので、こうした海外派遣の船が投錨する湊であったと想定される。
 壱岐はイキのほかユキとも訓じられていたことから(由吉能之麻、「万葉集」巻十五)、優通はユキツのこと、 つまり壱岐津であると考えることも出来る。




3.石田町教育委員会発行の「石田町の文化財」より(椿遺跡)

 この遺跡は、南北250m、東西150m、標高13〜16mで古代から中世にかけての複合遺跡である。
 この付近には遣新羅使「雪連宅満」の墓と推定されている場所が西にあり、南には印鑰神祠があり、北東には原の辻遺跡がある。古代には、この付近には国府が置かれていたという説もある。
 この遺跡が発見されたのは、平成2年11月で長崎県教育庁文化課職員の調査によって確認された。その後、水田部において、平成4年11月に範囲確認調査を、平成7年4月には本調査を実施した。その結果は、古代から中世にかけての土器がパンコンテナで120箱以上出土した。中でも興味深いのが、古代瓦である。当時その瓦が使われていたのは、国府もしくは有力寺院であった。また、石帯も出土している。白色半透明の小さなものであるが、従六位の者が当時の壱岐国において最高位だったにもかかわらず、従三位以上の者にしか許されなかった白色の石帯が、なぜ、ここから出てきたのか不明である。
 丘陵部は発掘調査対象外であったため、はっきりと断定はできないが、この辺りには国府に相当する建物があったと考えられる。その場所も、水田部ではなく、北側の丘陵と推定される。水田部にあった遺跡は、北側から流れおちてきたものであると考えられる。
 いずれにしても、古代の壱岐国の謎のひとつである「国府」の場所の候補地のひとつにあげてもよいと想われる。今後の調査に期待したい。