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豊臣秀吉と壱岐國勝本城


搦め手


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はじめに

 H19年3月9日、勝本町ふれあいセンター「かざはや」で、一支國研究会の主催で講演会『豊臣秀吉と壱岐國勝本城』が行われた。講師には、佐賀県立名護屋城博物館学芸課長 高瀬哲郎先生が来島され、約一時間半にわたって講演された。高瀬先生は、勝本城の石垣が鏡積みと云う、石材の最も広い面を表とする技法で、かなり危険な積み方を多用した特異性を指摘されていた。
  勝本城を紹介するこのHPの文章は、一支國歴史発見講演会資料『豊臣秀吉と壱岐國勝本城』から多数引用しています。    






1.勝本城の大手門と搦め手の枡形小口

 08/01/26、一支國歴史研究会の野外歴史地理ゼミで、原の辻遺跡調査事務所の林隆広文化財保護主事を講師に招いて、「壱岐の中・近世城館」と題して現地説明会が行なわれた。


 冒頭から話は少し横道に逸れますが、この日の参加者は30名ほどで、女性のかたは半数を超していたと思います。
 中世の山城と言うか城館と言うか、とにかく舗装のしてない山道・あぜ道や藪の中を進むのですから、女性はリタイヤされる方が続出するのではないかと思っていました。
 しかし、案に相違して一人の脱落者もありませんでした。最高齢者はご主人が82歳になられるので、奥様も80歳前後だと思われます。
 やはり城と云うイメージが人を動かすのでしょうか、この日は丸一日皆さん頑張っておいでになっていました。



 本題に戻ります。勝本城に着いた時、林先生から勝本城の搦め手(裏手)を知っている人との質問に誰も答える人はいませんでした。
 テキストを貰い現場にて説明を受けましたが、そこは何度も通ったことのある場所でした。私の知識の少なさと石垣の傷みの激しさで、全く気が付きませんでした。

何度も通った道だが、説明を受けるまで気付かなかた、搦め手の枡形小口。

 上の図は、今回の野外ゼミのテキストより拝借したもので、大手門の方は二の丸から本丸には、三回折れ曲がらないと入れないようになっている。搦め手の枡形も二回折れ曲がらないと中に入れないので、備えはかなり厳重な造りになっている。


 ここで他の文献を引用して、枡形小口の説明を少しして見ます。枡形の大きさは甲州流兵学の築城術では、「五八の枡形」といい、横五間、縦八間の四十坪を標準にしている空間である。これは騎馬武者なら40騎、徒歩武者なら240人を収容すると言う。

 (井上宗和氏の「日本の城」より引用)


 大手門の枡形小口は、「五八の枡形」に近い四間三尺と七間四尺で、三回も折れ曲がる複雑な構造なので、守りにかなりの効果を発揮するものと思われる。
 搦め手は枡形小口と云うより、「横矢掛け」といい曲輪の塁線を部分的に突出させて折れを付けることで、敵を側面や背面から攻撃できるようにしている。


*「横矢掛け」は今日の野外歴史地理ゼミで習ったばかりで、戦国時代に考えられ取り入れられたそうです。

大手門の枡形小口 大手門の枡形小口



搦め手の横矢掛け 搦め手の横矢掛け









2.勝本城の搦め手の遺構

 勝本城の搦め手は、片側が崖に為っているため、二の丸の塁線からの一方向からしか反撃が出来ません。そこで、塁線には色々な工夫を凝らして、防御機能を高めているのが見て取れます。


 まず@まで進行してきた敵は、Aの横矢掛けで背後から攻撃を受け、Bの石塁で側面からの攻撃を受けます。
 どうにかAまで進出してきた敵は、今度はDで斜め前面からの攻撃を受け、Cの曲線を描く石塁より側面及び斜め後方よりの攻撃を受けることに為ります。

勝本城の搦め手の遺構



 @の写真は絵図によるイ・ロの面で稜線は確認できるが、保存の為の処置が全く為されていない。
 Aの写真は絵図によるロの面を写したものであるが、絵図に描かれているような石垣の石は、現在は全く確認することが出来ない。

絵図によるイ・ロ面の写真  絵図による横矢掛けロ面の写真



 下二枚の写真は絵図によるBの面では、Bの写真の赤丸で囲んだ部分が一番良好に石垣が残っている。他にも所々で石垣を見ることが出来るが、保存状況は良好ではない。

Bの面には所々に石垣が垣間見える  Bの写真の赤丸の部分を拡大



 ロの横矢掛けの上からやDの横矢掛けであろう所の上から見た写真であるが、両所ともに通路に対する見通しは抜群に良く、矢を射掛けるには最高の造りとなっている。

ロの横矢掛けの上から見た写真  Dの横矢掛けの上から見た写真



 C面の曲線というか緩やかな角度の凹みというか、そう云う写真を載せたかったが、樹木や雑草で覆われて、私には写真での表現が無理でした。しかし、目視では確実に、曲線というか緩やかな角度の凹みを、確認することが出来ます。


*写真を撮る為に雑木や雑草を、勝手に切ったら怒られるのでしょうか?切り払って、写真をきちんと撮りたい衝動に駆られます。

勝本城の搦め手の石塁曲線遺構

 D面やハ面は石垣が崩落しているが、今すぐに修復すれば完全に復原出来ると思いますが、どうにか為らないものなのでしょうかね。

Dの横矢掛けの石塁写真  ハの石塁の写真









3.勝本城の横矢掛けの説明

 勝本城の搦め手は、何度も言いますが片側が崖に為っているため、二の丸の石塁からの一方向からしか反撃が出来ません。そこで、石塁には色々な工夫を凝らして、防御機能を高めているのが見て取れます。


 まずAの部分ですが、横矢掛けを二の丸の石塁から直角に突出させ、反対側をスロープ状にして二の丸の戻しています。突出させて凹凸を造ったことで、出隅(出角)というそうです。
 逆にCの部分ですが、横矢掛けを二の丸の石塁からほぼ直角に凹ませ、反対側をスロープ状にして二の丸の戻しています。凹ませて角を造ったことにより、入隅(入角)というそうです。
 最後にBの曲線部分ですが、Cの入隅(入角)を戻すだけでなく、防御面で死角を少なくするという効果で造られたものだと思います。

勝本城の横矢掛け









4.勝本城の南面の守り

 今回の野外歴史地理ゼミで、勝本城の絵図がテキストに載っていたことで、二の丸の位置がしっかりと掴めたことが嬉しかった。
 誰かのHPで見た、「 本丸(主郭)の周りを帯曲輪(二の丸)が取り囲んでいる 」というそのものである。私が二の丸と思ってた勝本小学校付近は、今度からは北の郭とでも呼ぶべきかなと思う。


 拝借ついでに、もう一度文章をお借りします。「 この勝本城は全く新たな城として築いたのではなく、戦国期に存在していた風本城(武末城)を大改修して造られたのではないかとも考えられている。と言うのも短時間で築城する必要があったことと、南側に存在する小さな二つの曲輪や帯曲輪西下の小曲輪群などが戦国期の城の遺構と考えられるからである。 」と書いてある。
 ほんとは文章を引用させてもらったお礼に、感謝の意を込めて「アドレス」や「HPの題名」を載せなければならないのでしょうが、それから何度か検索したが見つからず、失礼していることをお許し戴きたい。

南曲輪の位置



 南曲輪のB面は本来は尾根伝いと為っているので、守りの最も弱い部分になります。戦国期には、堀の切り方が浅かったかも知れずB面(尾根伝い)に対する守りで造られたものと思われます。
 しかし、朝鮮出兵当時は写真でも分かるように、かなり深く堀で切られていますので、使われたのでしょうか。使用されていたならば、A面に対しての備えだったと思われます。

勝本城の南曲輪のA面 勝本城の南曲輪のB面




 現在は写真で見るように、折れ曲がった道だけしかないが、築城当時は絵図で見るように、横矢掛けに対して平行に直進路が描かれています。絵図に示すように直進して、藪に入ってみたら、石垣の遺構みたいなものがありました。


勝本城の南曲輪のA面 勝本城の南曲輪のB面



イの部分の石垣 ロの部分の石垣

 イの部分は、石垣の遺構で間違いないと思いますが、ロの部分の石は石垣の残りかどうか、はっきりとは分かりません。
















   


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