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豊臣秀吉と壱岐國勝本城


城郭址


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はじめに

 H19年3月9日、勝本町ふれあいセンター「かざはや」で、一支國研究会の主催で講演会『豊臣秀吉と壱岐國勝本城』が行われた。講師には、佐賀県立名護屋城博物館学芸課長 高瀬哲郎先生が来島され、約一時間半にわたって講演された。高瀬先生は、勝本城の石垣が鏡積みと云う、石材の最も広い面を表とする技法で、かなり危険な積み方を多用した特異性を指摘されていた。
  勝本城を紹介するこのHPの文章は、一支國歴史発見講演会資料『豊臣秀吉と壱岐國勝本城』から多数引用しています。    






1.勝本城郭址の寸法

 豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際し、壱岐の領主であった松浦鎮信に命じて、壱岐の風本(勝本)に築かせた出城である。別名を風本城・武末城・雨瀬包城ともいう。勝本城は、太閤秀吉の城として天下普請が行われた、全国的に見ても数少ない貴重な文化財である。壱岐名勝図誌に書かれた城郭址の寸法を基にし、地形等の要素を加味して敷地面積を推測して見たいと思います。


*注意  勝本城は本丸跡の石垣は現在でも良好に残っているが、北の丸や外郭の遺構はほとんど無く、このHPに書いたことは、あくまでも私個人の独断による推測であることを了承して読まれますようお願いします。


 朝鮮出兵時の城下の様子を調べていたら、当時は黒瀬地区はまだ埋立てられておらず、平戸藩が壱岐の諸浦を整理統合して八ケ浦にした慶安年間(一六五〇頃)に埋立てられたことがわかりました。城郭の広さとして黒瀬の市街地も若干入れてましたので、125,000uよりは広さが減りますので了承下さいますようお願いします。

07/09/19

私が勝手に、勝本城郭内と思っている敷地(写真提供 勝本在住 石井敏夫氏)





2.壱岐名勝図誌に見る城郭址の寸法

 勝本浦の頂上にあり。豊臣秀吉公朝鮮征伐の時、はじめて是を築けり。其旧跡 子城(ねのしろ・ 子=十二支の始まり=元 その城の本丸と云う意味か。) の址、竪(たて)寅申(とらさる・二時八時)四十七間壱尺(85m)、横亥巳(いみ・十一時五時)二十四間(43m)、亥(い・十一時)の方に門跡あり。くわしくは図にてしるべし。
  子城の堀より東の山坂の麓迄二町廿九間五尺(272m) 、内竪(たて)廿間五尺(38m) 、横四間(7m)計の池の跡あり。是所謂天瀬包(これがあませつつみというところ)なり。南麓まて二町十八間(250m)、西麓まて壱町三十四間(170m)、北黒瀬町まて二町半(273m)ばかり
 子城松多く生り。礎石図が残これり。屋形の有様ほぼしられたり。 井(いど)の所は小石を積て詳ならずといへども、二所井の跡といふあり。 二丸は畠地となれり。 されども高く聳えて誠に要害の地理なり。
 ○古跡記云、古城一ケ所、勝本城香椎村四方石垣、西北の間に小口あり。


壱岐名勝図誌より





  武末城(坂本触)は勝本浦を見下す高台にある。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに築いたと伝え、夜中に石を一つ一つ持ち上げて石垣を造ったという。
武末という名は、岳(山)の端(末)からきたものだろうと言われている。武末城は竹末城・岳末城とも書かれていたようで、別名として、勝本城、風本之城、雨瀬包の城、などがある。
 雨瀬包城の名は城内にあったと伝える池の名・天瀬堤からの呼び名であろうと言う。
 武末城の頂上部は、東西四十七間一尺(85m)、南北二十四間(43m)ほどの広さであったという。
 そして北に門があった。門を北に設けたのは、はるか朝鮮の地に向けて進発する軍勢を見送るためだったと言う。また井戸がニテ所あったと伝える。
  武末城の広さは、頂上部から東は二町二十九間五尺(272m)、西は一町三十四間(170m)、南は二町十八間(250m)、北は黒瀬町まで二町半(273m)ほどあったという。
 秀吉の朝鱇出兵の時は、本多因播守正武という侍が城番として手兵五百人と共に駐屯していたと伝える。本多正武は、豊臣秀吉の実弟の豊臣秀長の家臣だったという。


勝本町の口頭伝承より



壱岐名勝図誌の寸法に各頂点をそのまま結んだもの。





 上の図は壱岐名勝図誌の寸法に各頂点をそのまま結んだもので、こんな地形を無視した城郭がある訳がなく、下の図は地形やその他の要素を加味したものです。山間部は地形によるもの、海辺は船への資材の積降等による修正です。


壱岐國勝本城郭址の寸法









3.勝本城外郭を巡る(A区域)

 勝本城は城山を本丸とし、勝本小学校付近が北の郭になっています。勝本城外郭を巡るといっても遺構があるわけではないので、勝本城外郭と思われる箇所を廻ってみます。まずA区域ですが写真でもわかるように、そこそこに傾斜角・高低差ともにあり、まずまずの要害の地と云える。

勝本外港より 郭内と郭外の高低差が分かる 花川坂(はなごうさか) 北面西側にある



北の郭(勝本小学校)と志賀ノ山を南西上空から撮影 北の郭(勝本小学校)と志賀ノ山を北西上空から撮影



北の郭(郭内)と志賀ノ山の境(郭外) 北の郭(郭内)と志賀ノ山の境(郭外) 乗越し坂





@ 上の写真からも分かるように、志賀ノ山は地形的に見て城郭内の一角を形成しても、おかしくないように思うが、壱岐名勝図誌に云う、北は黒瀬町まで二町半(273m)ほどから、かなり飛び出してしまう。城郭内からは外したが、何らかの軍事施設があったものと考えられる。


A 花川(はなごう)坂は、城内と聖母浦(現在の正村近辺)を結ぶ道路で、その先に聖母宮が鎮座する。天正二十年、豊臣秀吉の命により、加藤清正が渡海して来る。逆風の為、この地に滞在を余儀なくされた折り、表門と石築地を造営寄進したことが記されている。 逆風の為 滞在を余儀なくされた間、十文字槍を手に持ち、長烏帽子兜を被った加藤清正が、この坂を何度か往復したのであろうか?








4.勝本城外郭を巡る(B区域)

 B区域ですが写真でもわかるように、そこそこに傾斜角・高低差ともにあり、A区域同様まずまずの要害の地と云えるでしょう。
 B区域はこの城の築城目的である、朝鮮出兵における中継基地としての港(黒瀬湾)を備えている。

本丸・北の郭と朝鮮出兵の補給基地である黒瀬湾



 下の写真に、勝本城と同じ目的である、朝鮮出兵の中継基地として造られた対馬清水山城を掲載しましたので、比較してみて下さい。
 勝本城は平山城で集積港である黒瀬湾とは、かなりの行き来があったろうと想像できるが、対馬清水山城は完全な山城で城番を置いただけであまり使われなかったのではないか。




勝 本 城 東 側 遠 景 勝本城と同じ目的で造られた対馬清水山城





  勝本港は西から正村湾・黒瀬湾・塩谷湾の3つに別れている。塩谷湾は季節風である西風や北西の風に弱く、又天ヶ原から吹きつける北風にも弱く朝鮮出兵の中継基地とはなり得なかった。正村湾は風には一番の良港であるが、狭い上に水深が浅く大きな船が停泊できない。よって必然的に黒瀬湾が中継基地となったと思う。


  ここで一番大事なことは、今回の城造りは集積港があって始めて城地の選定がなされるのであって、もしも他の湾が良ければ勝本城の場所は変わっていたかも知れない。


   黒瀬湾が一番良いと云っても、岸壁に直接接岸出来るわけが無く、昭和の初期までは大型船は湾内に投錨し、はしけで人や資材を積み降ろししていた。





神明坂 城内と集積港である黒瀬湾との動脈



勝本港は正村湾・黒瀬湾・塩谷湾の3つに別れている。 博多航路の対馬丸とイワシ大漁の鮮魚運搬船








4.勝本城外郭を巡る(C区域)

 C区域ですが写真でもわかるように、ここだけは背後地との高低差が余りなく、要害の地とは云い難い。その為背後地との高低差を付けるために空堀が切られている。よってこの辺一帯の地名を堀切と云う。

勝本支所地(後背地)は、元はなだらかな傾斜であるが、崖であった。
堀切を上(西)側から見たところ。 堀切を下(東)側から見たところ。



 城山(本丸)の後背地である勝本支所は、今は削られて平らになっているが、元はなだらかではあるが崖になっていた。往事は城山側の急傾斜と勝本支所側のなだらか傾斜が見て取れ堀切の址が分かった。






5.勝本城外郭を巡る(D区域)

 D区域ですが写真でもわかるように、ここはA区域やB区域と同じよう、まずまずの要害の地と云えるでしょう。

城郭址の西側の斜面
B点からA点を見上げたところ。 かなりの傾斜があります。



昼でも少し薄暗い。 C点より北の丸を見たところ。



北の郭より本丸を見上げたところ。 本丸より北の郭を見たところ。



 あとE区域だけですが、後日追加してアップロードします。航空写真は勝本在住の石井敏夫氏からお借りしました。











   


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