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壱岐の風景      曽良翁300年忌記念誌Web版

 

 

 

 

 

 

西海及び壱岐島における鯨組と土肥鯨組に関係する年代別の流れ

 

                    勝本町  土肥 和生  目次

 

年 代

事  項

参考資料、文献

1213

 建保年間

紀州太地浦で和田義盛が鯨を捕獲したといわれる。(日本捕鯨の先進地)

「捕鯨志」

1493

捕鯨業の開始、金燈篭1基を箱崎八幡宮に献備、願主紀州熊野日高古弥、捕鯨業家なり。

壱岐郷土史

1591・天正19

土佐国吾川郡浦戸に於て鯨を捕獲、豊臣太閤へ献上。

捕鯨志「土佐軍記」

1568-1600

松浦藩第26代法印鎮信公の在職期間

 

1592

 文禄年間

横田金助平秀友、作戦指揮中の松浦鎮信に刺しかかった2人の敵兵を槍で防ぎ、鎮信の難を救った。が、この時に受けた傷がもとで病を得、壱岐に帰った。

その時、朝鮮から数名の俘虜と一人の侍女を伴なっている。秀友は、この侍女の献身的な看護をうけていたが、傷はついに治らず死亡した。鎮信は秀友の功を賞して、未亡人に150石を与え子供の金左衛門を養育させた。

勝本町通史

壱岐諸家系図  横田氏(平氏)

 葛原親王−(10代略)−實平−(7代略)−信次−秀定−秀定−秀殊−勝秀−秀友−政芳−種貞−實賀−實久−貞英−道別−實礎−二郎

 七郎左衛門信次、波多藤堂丸に仕え唐津に住す、での子秀定亦波多氏に属し、孫勝秀に至り、壱岐に移りて松浦隆信父子に仕ふ。秀友朝鮮陣に従い政芳は島原城回収に従う代々物部村に住す。

壱岐郷土史

1592

土肥甚五郎 朝鮮出陣死亡 壱岐の人なり

松浦家世伝

1596-1614

 慶長年間

慶長年中筑紫諸浦の漁人初めてホコを以て鯨を突で取りし、

「大和所本草」にあり

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

1598

横田安藝守秀友の弟、伊左衛門實治、(朝鮮出陣戦功あり)法印公の命により、親戚なるをもって土肥甚五郎の遺跡と継其家。

松浦家世伝

1598

市三郎出生、対馬より壱岐へ御渡海の時船中にて出生、若の島の磯辺に御馬手指1腰添え、拾てられる。勝本の町人土肥甚三郎、拾い取り、我が家次ぎに育人となしけり。今土肥が祖なり。

松浦藩 壷陽録

1598

有川村江口甚右衛門が有川湾で捕鯨を始める。

長崎県史・五島藩

1601-1602

松浦藩第27代泰岳久信公の在職期間

 

1601

初代・井元弥七左衛門義利 壱岐より大島へ知行高15石、大島の政務を担当。

大島村郷土史

1602

松浦藩第27代泰岳久信公死亡、安国寺に久信公、松東院の拝塔あり、設立年不明。

 

1603-1637

松浦藩第28代宗陽隆信公の在職期間

 

1605年頃

五島藩では鯨組、10組を数え、年80頭の漁獲、宇久山内茂右衛門は大資本家に成長

長崎県史・五島藩

1618

土肥伊左衛門実勝、殉死・久信公の従士

松浦資料館、古文書

1619-1637

 この期間に

土肥伊左衛門、壱州大守松浦隆信公の命により、久田伊左衛門に改名

松浦資料館、古文書

1620

深澤儀太夫、鯨突組の組主となる、(30雙1組)

 

1624

松浦蔵人・勝本で朝鮮通信使を応接

 

1624

寛永のはじめ、恵比須浦に肥前大村深沢伊太夫鯨組をおく。鯨突き取り。

壱岐国名勝図誌

1624-1644

 寛永年間

紀州藤代の藤松半右衛門が船13艘で平戸度島に来て捕鯨を始める。

西海鯨鯢記

対馬藩の捕鯨、紀伊国と壱岐勝本の小田善左衛門組(4艘)が捕鯨。西目を中心。

長崎県史・対馬藩

大村領の深沢伊太夫、儀太夫組・唐津領の明石善太夫、吉村五兵衛、山川久悦組が活躍。

 

大島の富永八右衛門、捕鯨を操業する。

大島村郷土史

1624

 寛永元年

在府中の隆信公から松野太郎左衛門に宛てた書状あり、小葉田淳氏の新資料「平戸手鑑」既に年来藩内の捕鯨業が盛んで、他国人が年年多数出入りしていたことを示している。

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

1625

 寛永2

隆信公・捕鯨の奨励

 

紀州の与四兵衛が船20艘で的山大島に鯨組をだした。

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

播州の横山五郎兵衛、的山大島で鯨突き捕鯨を行なう。

三光譜録考勘

1626

  寛永3

初代・井元弥七左衛門義利、死亡

 

平戸の平野屋作兵衛が飯盛に鯨組をだす。

西海鯨鯢記

五島有川で紀州湯浅から来た庄助なる者が組頭となって鯨業をおこす。

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

紀州古座の三郎太郎は有川村の名主江口甚右衛門と協力して突組をだす。

1627

  寛永4

平戸の宮ノ町組が田助浦に鯨組をだす。

西海鯨鯢記

明石善太夫、吉村五兵衛が平戸の薄香浦に鯨組をだす。

山川久悦、印通寺前に居浦捕鯨する。

1630613

小麦様(本名、廓清姫・晩年、妙性尼)根獅子にて他界。

(法名、清岳妙芳禅定尼)

平戸藩史

1637

松浦藩第28代宗陽隆信公、死亡(47才)郷ノ浦に拝塔あり、設立年不明。

郷ノ浦町の文化財

1637-1688

松浦藩第29代天祥鎮信公の在職期聞

 

1641

若宮遠見番所設置

 

164273

松浦蔵人信正(小麦様2男)死亡、内室は熊沢正孝の娘、熊沢大膳は熊沢正孝の弟。

 

1644年寛20

2代・井元弥七左衛門義陽、知行高5石と減額される。

大島村郷土史

1647

深澤儀太夫勝清、平島(崎戸町)で捕鯨、鯨突き取り法。

深沢組小伝

   柴田恵司

1648

平戸で吉村庄左衛門、鯨突き組を組織する。

 

1652

土肥八郎兵衛(55才)で死亡したのではないか、

松浦資料館、古文書

1653

熊沢太膳(500石)勝本で死亡、71才、壱岐新田の開発に尽力。

史都平戸

(松浦資料博物館)

1655-1660

明暦万治年間

この頃、鯨組、73組まであり、

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

1655

深澤儀太夫勝清の献金で、三井木場堤築造。

深沢組小伝

   柴田恵司

1656

この頃、深沢組・儀太夫組あり。

久信公の奥方松東院(大村純忠の5女)死亡

 

1657

平戸の吉村庄右衛門、勝本で鯨3本突き取る。「西海捕鯨記」

 

この頃、深沢組・大村覚左衛門組あり。

深沢組小伝

   柴田恵司

1658

深澤儀太夫勝清、魚目(五島)で捕鯨。武具調達費3500両献金。

1655-1670

 この期間に

土肥庄左衛門、壱岐に来る (宮大工初代)

 

1660

2代・井元弥七左衛門義陽、死亡

 

1661

大島井元鯨組は平戸藩主のすすめによって、寛文元年ころより諸準備をととのえる。

大島村郷土史

捕鯨家、深沢儀太夫一族、大渕山龍蔵寺(曹洞宗)の本堂新築寄進。末寺、種徳院は鯨取りとの関係が深い。(鯨1000本かけとるに及んで)

壱岐国史

  山口麻太郎

深澤儀大夫勝清、野岳堤新田開発着工、献金4500両。

深沢組小伝

1661-1637

 寛文年間

対馬藩の捕鯨、服部次郎九郎、平戸の伊藤孫作(5,6艘)福山市右衛門が加わり捕鯨。

長崎県史・対馬藩

1662

  寛文2

恵比須浦の鯨組、平戸吉村又右衛門、谷川利兵衛、網屋惣左衛門、江口十郎左衛門、磯部弥一郎、明石播磨屋又右衛門、瀬戸松尾与四兵衛、大村深沢儀太夫の8人共同となる。深沢、網屋、松尾、(恵比須納屋場)吉村、(妙見崎納屋場)谷川、(大石浜納屋場)

壱岐郷土史

後藤正足著

(三光譜録考勘)

1662年 2

深澤儀太夫勝清、壱岐で下り鯨36本突き取る。(冬浦)

深沢組小伝

   柴田恵司

1662

深部儀太夫勝幸、壱岐前目で鯨を突き取る。

1663

鯨組主、深澤儀太夫死亡、(初代深澤儀太夫)(82才)

1664

井元弥七左衛門・大島、神ノ浦に転居・鯨組創設 壱岐の人

 

1667

深沢組・大村覚左衛門組、壱岐前目で鯨を突き取る。

深沢組小伝

1667

播州明石の喜多屋某、瀬戸浦に鯨組をだす。

壱岐瀬戸浦史

1669

深澤儀太夫勝幸、冬に、壱岐 春に、対馬で捕鯨。

深沢組小伝

 

1673

 延宝元年

 

 

 

 

 

1673

 延宝元年

 

平戸谷村家の「鯨場中日記」あり。表紙裏の同業者氏名、

深沢組16艘、弥吉郎13艘、左内18艘、吉村組16艘、谷川組13艘、貞方組15艘、長九郎15艘、横山組13艘、覚右衛門18艘、谷村(冬12艘、春16艘)。

当時、壱岐島で捕鯨をした鯨組と(納屋場)

1、平戸谷川組(大石納屋)2、平戸谷村組(芦辺納屋)3、平戸網屋惣右衛門(塩津納屋)4、大村組(塩津納屋)5、平戸貞方組・吉三郎 6、磯辺組・文九郎 7、五島江口組・十左衛門 8、瀬戸浦 板屋与四兵衛・松尾与四兵衛 9、播磨屋・明石喜多屋又右衛 :10、大地覚右衛門・角右衛門 11、長九郎組 12、左内組 13、平戸勝六組 14、与三右衛門 15、吉村組 16、横山組 17、江戸組 18、小川庄右衛門・小川組 19、善左衛門組。

 

壱岐国史

  山口麻太郎

 

 

 

 

 

壱岐国史

  山口麻太郎

 

 

 

壱州の鯨、捕獲数70本、「谷村帳」

深沢組・勝幸、左内、重昌、 壱岐・対馬で捕鯨。

深沢組小伝

   柴田恵司

大村藩・深沢儀平次重昌に嘉喜浦と松島を鯨漁の浦に免許。

1674

深沢組、壱岐塩津で突き組捕鯨を行なう。

1678

大村の深澤儀太夫勝幸、五島魚目浦で鯨網を始める。(勝幸77才)

1673-1681

 延宝年間

壱岐勝本の小田、土肥氏が対馬に基地を設けて突取法の捕鯨を行なう。

長崎県史・対馬藩

1680

勝本押役所設置

 

瀬戸浦で深沢儀平次鯨網漁をはじめる。

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

深沢組・鯨組、筑前小呂島に居浦6年間。

深沢組小伝

1681

  延宝9

大村の深澤儀太夫勝幸一族、龍蔵寺に梵鐘を寄進。

山口麻太郎著作集

歴史民俗篇

鯨運上の改定 鯨突き1本に付銀15枚、鯨網は鯨30本まで一本に付銀

1貫目、31本以上銀30枚宛。

 

1683

大村の深澤儀太夫勝幸、五島魚目浦で鯨網を行なう。

大村藩郷村記

1684

大村の深澤儀太夫(2代目)五島魚目浦、壱岐勝本で鯨網を行なう。

小値賀町郷土史

1685

小田伝兵衛重憲・小値賀、捕鯨創業

小値賀史談会

 重利一世代記

深沢組・深沢儀平次重昌、壱岐前目で網組を出す。

深沢組小伝

1688

瀬戸浦で元禄の初め、布屋九郎右衛門(後の国村氏)深沢氏に代って網組をだす。

壱岐瀬戸浦史

小田伝兵衛重憲、壱岐瀬戸浦(冬)で捕鯨

小値賀町郷土史

1689-1712

松浦藩第30代雄香棟公の在職期間

 

1689

小田伝兵衛重憲、壱岐瀬戸浦(冬)で捕鯨

小値賀町郷土史

1690

魚目・有川村の捕鯨協定成立(海境紛争)

魚目浦は深澤儀太夫が鯨網を行なう。有川側は山田茂兵衛が鯨網を行なう。

長崎県史・五島藩

(青方文書)

呼子の捕鯨、初代中尾甚六、突き組創業。

呼子町史

小田伝兵衛重憲、壱岐瀬戸浦(冬)で捕鯨

小値賀町郷土史

1691

小田伝兵衛重憲、壱岐瀬戸浦(冬)で捕鯨

山田茂兵衛の鯨捕獲高 42頭 銀2464765厘(金410両)の利益。

長崎県史・五島藩

(青方文書)

五島有川の有川浜百姓組(代表江口甚右衛門)、鯨網漁を始める。37頭を捕獲。

1692

初代土肥市兵衛死亡(八郎兵衛・八右ヱ門)94才(一源院江月宗昭禅定門)

土肥族記

(鞍掛起英)

小田伝兵衛重憲、壱岐瀬戸浦(冬)で捕鯨

小値賀町郷土史

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高 42頭 利損十 5891

長崎県史・五島藩

1693

小田伝兵衛重憲、壱岐瀬戸浦(冬)で捕鯨

小値賀町郷土史

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高70頭利損十189787

長崎県史・五島藩

1694

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高57頭利損十406509

長崎県史

・五島藩

1695

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高82頭利損十784331

1696

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高57頭利損十545418

1697

有川浜百姓組(有川地組)()の鯨捕獲高355頭利損−8074542

1698

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高83頭利損十134973

1699

有川浜百姓組(有川地組)()の鯨捕獲高43頭利損十1764644

1700

有川浜百姓組(有川地組)(有川)の鯨捕獲高81頭利損十17294834

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛、小値賀、津和崎へ初めて鯨網組を起こす。

小値賀町郷土史

1701

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高57,5頭利損−4347

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利に壱岐(冬)で捕鯨 壱州地組と共同。

小値賀町郷土史

1702

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高42頭利損−8097447

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐(冬)で捕鯨 壱州地組と共同。

小値賀町郷土史

1703

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高34頭利損−2844986

長崎県史

  ・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐(冬)で捕鯨 壱州地組と共同。

小値賀町郷土史

松浦藩第29代天祥鎭信公、死亡(82才)

 

1704

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高46頭利損+56509

長崎県史

  ・五島藩

1704

小田伝兵衛重利、壱岐(冬)で捕鯨 壱州地組と共同。

小値賀町郷土史

大村の深澤儀太夫・勝本で鯨網を行なう

 

1705

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高49頭利損−1323524

長崎県史・五島藩

深沢組・深沢儀平次、田島肋次郎、壱岐瀬戸浦、勝本で鯨網を出す。

深沢組小伝

 柴田恵司

小田伝兵衛重利、壱岐(冬)で捕鯨 壱州地組と共同。

小値賀町郷土史

芦辺の重屋篠崎太良左衛門、勝本で鯨網を行なう。

 

1706

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高59頭利損+6967289

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨 井元弥七左衛門、他1と共同鯨網

小値賀町郷土史

1707

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高36頭利損-4263235

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨 井元弥七左衛門、他1と共同鯨網

小値賀町郷土史

小田伝兵衛重憲、死亡(87才)

1708

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高39頭利損−8351

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨 井元弥七左衛門、他1と共同鯨網

小値賀町郷土史

1709

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高47頭利損−152366

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨 井元弥七左衛門、他1と共同鯨網

小値賀町郷土史

1710

有川浜百姓組(有川地組)(有川組)の鯨捕獲高56頭利損+4949596

長崎県史・五島藩

小田伝兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨 井元弥七左衛門、他1と共同鯨網

小値賀町郷土史

1711

小田伝兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨 井元弥七左衛門、他1と共同鯨網

171123

3代・井元弥七左衛門義信、死亡  高5石

井元弥七左衛門系図・大島村福井氏

17129

三光寺へ鯨組関係者、梵鐘を寄進、施主名、土肥市兵衛、篠崎庄右衛門、川谷久兵衛、小林藤兵衛、田島助次郎

 

1713

4代・井元弥七左衛門義定は、平戸藩「船手役所」を建立し、「赤塗り小はや船6艘と諸道具を献上。

西海捕鯨と

井元弥七左衛門家

深沢組・田島与五郎、対馬廻浦で鯨網を出す。

深沢組小伝

1713516

4代・井元弥七左衛門義定、死亡 10人扶持 2男甚兵衛は

土肥甚右衛門の養子へ。

井元弥七左衛門系図・大島村福井氏

17139

松浦藩第30代雄香棟公、死亡(68才)

 

17131726

松浦藩第31代松英篤信公の在職期間

 

17161736

享保年間

土肥家第2代市兵衛教睦の長男武右衛門の屋敷建設 殿川家裏門 解体されている。

勝本町の文化財

1716

壱岐で、平戸の山口屋助左衛門、捕鯨を行なう。

壱岐郷土史

17161763

呼子の捕鯨、2代中尾甚六、網取り法採用

呼子町史

1717

恵比須に鯨の供養塔・土肥・布屋・篠崎・許斐・布屋

 

深沢組・深沢源右衛門、宇久嶋で鯨網を出す。

深沢組小伝

1718

井元鯨組、勝本浦に本拠をすえて出漁、36頭捕獲

大島村郷土史

1720

5代井元弥七左衛門定治・勝本浦で操業  (妻は小田伝次兵衛の娘)

 

1721

小田伝次兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨。

小値賀町郷土史

1722

小田伝次兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨。

小値賀町郷土史

1723

小田伝次兵衛重利、壱岐勝本浦(冬)(春)で捕鯨。

小値賀町郷土史

1722

篤信公御政代・3000貫目御貸上御用、銀1200貫目・井元弥七左衛門、銀800貫目・

小田伝次兵衛、銀1000貫目・壱州、土肥・宗像・斉藤・布屋・篠崎・長谷川

 

172411

小田伝次兵衛、死亡(54才)

小値賀町郷土史

1724

5代・井元弥七左衛門定治、真教寺に梵鐘を奉納。

大島村郷土史

1725

益富又左衛門・捕鯨を始める、生月

 

1726

深沢組・田島儀左衛門、魚目で鯨網を出す。

深沢組小伝

5代・井元弥七左衛門定治、死亡 10人扶持

井元弥七左衛門系図・大島村福井氏

1726年頃

井元弥七左衛門・鯨組廃業

 

1727

土肥甚右衛門、許斐小左衛門、布谷九郎右衛門、篠崎与右衛門・4人共同捕鯨開始。

壱岐郷土史

17271728

松浦藩第32代等覚有信公の在職期間

 

1728825

松浦藩第32代等覚有信公、死亡(19才)

 

17281774

松浦藩第33代安靖誠信公の在職期間

 

1729

2代土肥市兵衛死亡 92才 (直質院實源道参居士)

土肥族記(鞍掛起英)

1732

篠崎、土肥、布屋、生月益富又右衛門、江戸油屋又右衛門等5人聯合で捕鯨。

壱岐郷土史

1732

松浦藩、大飢饉により幕府から5000両を借用する。

 

1733

土肥甚右ヱ門 本宮八幡宮へ石灯籠3基奉寄進

 

1733

益富又左衛門、捕鯨網を作り、ぞの後年開200頭もの鯨をとる。

 

1734

壱岐国土肥之書付 後の小沢喜平太覚記(大小姓・勝本押役)あり。

市三郎=土肥八郎兵衛−この未、土肥市兵衛なりの記述あり。

この年、松浦藩第33代安靖誠信公に、ご覧に入れるとあり。

松浦資料館

・ 古文書

1736

益富又左衛門、勝本に鯨組を置く。

 

1736328

土肥甚右ヱ門 馬廻役 5合10人扶持  (土肥甚右ヱ門・初代)

松浦資料館

・古文書

1737615

土肥伊左衛門(初、久田槌之烝) 壱岐国、郡代被仰付 高50

1739

益富又左衛門と土肥市兵衛、瀬戸の前目と田ノ浦とを隔年交代に使用することを定める。

 

1741

深沢組・深沢儀平次、長門嶋と肥中で鯨網を出す。

深沢組小伝

1743

篠崎文右衛門(壱岐芦辺)、益富又左衛門(平戸生月)大村藩嘉喜浦に居浦捕鯨する。

肥前歴史叢書5

松浦藩第33代安靖誠信公、家中に対し倹約令を発する。

 

1744

呼子の捕鯨、中川与四兵衛組営業

呼子町史

17457

土肥甚右ヱ門病死

松浦資料館・古文書

1748

 寛永年間

三光寺(能満寺)に現存する旧過去帳はこの時代より記帳されている。

三光寺過去帳

17494

土肥甚兵衛死亡(仮空単廓全提居士)(土肥甚右ヱ門の養子)

    (井元弥七左衛門義信の2男)(娘、たみ、土肥市兵衛の妻)

井元弥七左衛門家系図 大島村

1750

深沢組・大村松島組、五島宇久嶋で鯨網を出す。遭難事故あり。

深沢組小伝

1752

聖母神社の神殿造営  土肥八右ヱ門・土肥甚右ヱ門の起工

 

1753

土肥新田・埋築工事一部完成

 

1754

松浦藩第33代安靖誠信公、国用不足に関しその対策を諮問する。

肥前国・平戸藩

1754528

土肥甚次右ヱ門(初・伝平次) (土肥甚右ヱ門・2代)

松浦資料館・古文書

1755526

3代土肥市兵衛死亡 93才  (涼樹院天叟道運居士)

土肥族記(鞍掛起英)

1756

松浦藩第31代松英篤信公、死亡

 

17561115

土肥八右ヱ門・御伽格被召  5合40人扶持 (土肥八右ヱ門・初代)

松浦資料館・古文書

1757

松浦藩旱魃により、2万2868石の被害を受ける。

肥前国・平戸藩

1758

 宝暦8年頃

「壷陽録」ができる。(平戸松浦藩初代左相公より第30代雄香公までの記録)

 

1762

土肥市兵衛。勝本、夷浦を埋築

 

1763

松浦藩第33代安靖誠信公、国用不足に関し、さらにその対策を講じさせる。

肥前国・平戸藩

17641772

鯨組、土肥氏の寄進により三光寺(能満寺)の本堂建立、大工棟梁 土肥助次郎教寛。

勝本町の文化財

17641765

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、38

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

17651766

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、36本 御崎組、42

17661767

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、50

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

1766

深沢組・深沢儀平次、宇久嶋で鯨網を出す。 27人遭難事故。

深沢組小伝

1767

4代土肥市兵衛の新築した別邸(お茶屋屋敷)、石塀が残っている。蟇股、土肥靖明氏蔵。

勝本町の文化財

17671768

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、35本  御崎組、26

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

17681769

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、46本  御崎組、21

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

17691124

土肥甚右ヱ門・若宮嶋遠見番被仰付

松浦資料館・古文書

17691770

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、44本  御崎組、40

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

1770

土肥市兵衛組の鯨捕獲高     43本

中上史行先生の資料

松浦藩誠信公、内外の費用を節減し、緊縮体制を確立。

史都平戸松浦資料館

17701771

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、65本  御崎組、43

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

1771

土肥市兵衛組の鯨捕獲高   56

中上史行先生の資料

17711772

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、47本  御崎組、34

西海捕鯨業 秀村選三・藤本隆士

1772

土肥市兵衛組の鯨捕獲高   47

中上史行先生の資料

17721773

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、53本 御崎組、31本 勝本組、32

西海捕鯨業 秀村選三・藤本隆士

17721782

  安永元年

呼子の捕鯨、3代中尾甚六、営業。

呼子町史

1773

深沢組・深沢儀平次、筑前小呂嶋で鯨網を出す。

深沢組小伝

松浦藩第33代誠信公、財政改革の計画を建てる。

史都平戸

  松浦資料館

松浦蒲第33代誠信公、長崎辺備の為、出張百余度に及ぶ。

土肥市兵衛組の鯨捕獲高   45

中上史行先生の資料

土肥甚兵衛(甚平治)当田新田の造成を平戸藩に願出 3年後、

50町の新田の大半を造成

勝本浦郷土史

17731774

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、10本  御崎組、44

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

1774

土肥市兵衛組の鯨捕獲高   36

中上史行先生の資料

17741775

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、53本 御崎組、29本 

大島組、6本 津吉組、17

西海捕鯨業 秀村選三・藤本隆士

1775

土肥市兵衛組の鯨捕獲高   36

中上史行先生の資料

17751805

松浦藩第34代静山清公の在職期間

 

17751776

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、38本 御崎組、27本 大島組、6

 津吉組、8

西海捕鯨業

秀村選三・藤本隆士

17761777

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、瀬戸組、44本 御崎組、25本 大島組、3

 津吉組、6

17771778

  冬−春

益富組平戸領内鯨捕獲高、勝本組、47本 御崎組、25

1777

 安永6

「前目勝本鯨組永続鑑」土肥組

長崎県立図書館

運上銀=先納分 (浦請銀、米先納銀、鯨運上先納銀、油運上先納銀)

1、鯨の種類と捕獲高に応じた鯨運上銀の精算

2、鯨の種類と捕獲高に応じた油運上銀の精算

西海捕鯨史の研究

  鳥巣京一

1779

松浦藩第33代誠信公、死亡(69才)

 

17805.15

平戸藩主松浦清・土肥八右ヱ門別業に滞泊(お茶屋屋敷)(15目から26目まで)

壱岐の風土と歴史

  中上史行

17801012

4代土肥市兵衛死亡(八右ヱ門)92才 (洪徳院天巌義祐居士)

土肥族記(鞍掛起英)

1780

原田七之助 壱岐における御用銀を取り扱う (10年間)

西海捕鯨史の研究

  鳥巣京一

17821786

  天明2

呼子の捕鯨、壱岐の土肥組4年間営業、このあと、中尾・土肥の交替で営業。

呼子町史

178266

5代土肥市兵衛死亡(幼名甚太郎)68才 土肥仁左エ門(月渓院智眼恵澤居士)

土肥族記(鞍掛起英)

1783112

6代土肥市兵衛死亡(幼名貞次郎) 67才 (恵照院大圓道智居士)

土肥族記(鞍掛起英)

17861215

土肥甚右ヱ門(伝平次家督相続) (土肥甚右ヱ門・3代)

松浦資料館・古文書

17891801

 寛政年間

土肥甚右ヱ門、壱岐郡可須村で寺子屋経営(庶民教育)

勝本浦郷土史

捕鯨年貢の定額化(運上銀総額の固定化)。平戸藩の寛政期の財政改革が行なわれる。

西海捕鯨史の研究

  鳥巣京一

1789

深沢組・金枡組、江島での鯨網を廃業。

深沢組小伝

 柴田恵司

1791

深沢組・深沢与六郎、長門の島戸、肥中で鯨網を出す。

1792

  寛政4

大村藩、深沢鯨組解散。深沢与五郎幸郷、松島で捕鯨をしていたが、廃業

藩主、清公、国用不足に対する計画お建て、「財用法鑑」を作成。

肥前国・平戸藩

「町方仕置帳」「郡方仕置帳」[浦方御仕置帳]を公布。

土肥・益富・藩主より御用金として各1万両申付らる。

 

179365

土肥甚右ヱ門・若嶋遠見番被仰付

松浦資料館古文書

1794

松浦藩、関東諸河川の手伝普請を命ぜられる。

肥前国・平戸藩

1795

 寛政7

藩主、清公、「国用法典」を作成。国許における財政組織を改める。

 

17951798

  寛政7

呼子の捕鯨、唐津の常安氏、中尾組と共同営業

呼子町史

1799

土肥家坂口邸新築(現在石橋氏宅)

勝本町漁業史

17991803

  寛政11

呼子の捕鯨、水野藩お手組で4年間操業

呼子町史

180153

土肥太久馬(甚次郎)5合40人扶持 (土肥八右ヱ門・2代)平戸城下住)

松浦資料館

・古文書

1804724

土肥市兵衛・御馬廻御取立  5合20人扶持 (土肥市兵衛・初代)

18061840

松浦藩第35代観中煕公の在職間間

 

1806623

土肥雅右衛門(初、数衛) 5合20人扶持  (土肥市兵衛・2代)

松浦資料館・古文書

18085

土肥市兵衛・参勤交代の御道中金として800両献金

中上史行先生の資料

1809

益富又左工門(平戸)捕鯨3隊、大村藩江島で鯨33頭を捕える。

肥前歴史叢書5

1811

土肥利雄、童名、甚治郎、のち、土肥八右衛門、一族平戸に転住、

181142死亡

 

18131816

土肥善次郎、土肥甚平次(壱岐勝本)大村藩嘉喜浦(蛎浦)に居浦捕鯨する。3年間

肥前歴史叢書5

1813

土肥(勝本組)五島藩浦請負で(宇久か) 17本捕鯨

長崎県史

・五島藩

1814

土肥(勝本組)五島藩浦請負で(宇久か) 13本捕鯨

18151816

  文化12

呼子の捕鯨、水野藩お手組で2年間操業

呼子町史

18171819

  文化14

呼子の捕鯨、小笠原藩お手組で3年間操業

1817

対馬藩、廻り浦鯨組は、長州辰巳屋栄次郎に冬春共に10年間居浦させで営業させる

長崎県史・対馬藩

1818

勝本、原田元右衛門、瀬戸、布屋藤太、操業

壱岐瀬戸浦史

1819

 文化2

益富組、平戸藩から運上銀2分の免除を許可される。

壱岐捕鯨業の研究

 (武野)

「鯨組万控帳」このなかに、「御手組同様之御救奉願候(以下略)の文書あり。

18191820

前目組、勝本組、御崎組、鯨組株15結新仕込共一切積高帳

前目組、勝本組、御崎組、鯨組株15結前細工一切銀積帳

前目組、勝本組、御崎組、漁事高銀積、組方諸雑用高積帳。以上は長州藩勧農方、鯨組惣都合役などを歴任した中野家にある益富組に関する資料。

西海捕鯨史の研究

  鳥巣京一

18201821

  文政3

呼子の捕鯨、5代、6代、中尾甚六2年間営業

呼子町史

1822

 文政5

呼子の捕鯨、小笠原藩お手組で1年間操業

呼子町史

18231834

  文政6

呼子の捕鯨、中尾甚六組11年間営業、そのうち2年間は

唐津の草葉氏と共同営業。

1823

瀬戸前目組

松浦藩−浦請銀・運上銀納入・営業許可−鯨組主(大綱屋)

鯨組の経営組織、益富家(大納屋)壱岐、布屋小納屋、土肥小納屋、布屋小納屋 中村小納屋、下長小納屋、万屋小納屋、野田小柄屋、

西海捕鯨史の研究

  鳥巣京一

1826

深沢儀平次勝徳、蛎浦で操業していたが、廃業する。大村藩最後の鯨組。

深沢組小伝

1826226

土肥雅右衛門(初、慎吾)後、鞍掛馬之烝 5合20人扶持 (土肥市兵衛・3代)  (平戸城下住)

松浦資料館

・古文書

1830

4代土肥甚右ヱ門(初、勝馬)の弟、三木蔵、養子となり、5代中尾丹弥となる。

松浦資料館・古文書

18301831

篠崎与右衛門、(藩と益富交渉)壱岐片組引き受ける。運上銀滞納1832年没収。

壱岐捕鯨業の研究

 (武野)

18321833

篠崎源太郎組(壱岐芦辺)、大村藩嘉喜浦に居浦捕鯨する。

肥前歴史叢書5

183257

土肥甚右ヱ門(初、勝馬) (土肥甚右ヱ門・4代)

松浦資料館・古文書

1833

亀谷卯右衛門(対馬藩)雷浦、廻浦、茂江浦で捕鯨を始める。27頭捕獲。

長崎県史・対馬藩

1834

亀谷卯右衛門、30頭捕獲

1835

亀谷卯右衛門、40頭捕獲

18361843

  天保7

呼子の捕鯨、7代中尾甚六組。7年間営業

呼子町史

1838

亀谷卯右衛門、対馬藩に8000両献納

長崎県史・対馬藩

1839

土肥甚太郎に壱岐片組引き受けの藩命。益富組現状維持を願いでる。

壱岐捕鯨業の

研究・武野

184025

土肥定三郎(後、太久馬)5合40人扶持 (土肥八右ヱ門・3代)(平戸城下住)

松浦資料館

・古文書

1840427

7代土肥市兵衛死亡(幼名大五郎) 79才 滋養院徳運宗濡居士

土肥系図

 原田元右衛門

1840

原田元右工門組の鯨捕獲高 40本 原田元右工門組捕鯨業の許可をうける。

勝本町漁業史

1842

原田元右工門組の鯨捕獲高 43

中上史行先生の資料

亀谷卯右衛門、対馬藩に3600両献納。

長崎県史・対馬藩

18431846

呼子の捕鯨、唐津の草葉氏組営業

呼子町史

1843

原田元右工門組の鯨捕獲高 35

中上史行先生の資料

18431845

原田元右工門組捕鯨3隊(壱岐勝本)、大村藩嘉喜浦に居浦捕鯨する。

肥前歴史叢書5

1844

原田元右工門組太村藩嘉喜浦に在て、勢美2、座頭1を得る。

肥前歴史叢書5

1845

原田元右工門組の鯨捕獲高 40

中上史行先生の資料

1846

布屋藤太(壱岐の人)の捕鯨隊大村藩江島に入る。

肥前歴史叢書5

1846

亀谷卯右衛門、対馬藩の禄150石の上士に昇格

長崎県史・対馬藩

1846

原田元右工門組の鯨捕獲高 40

中上史行先生の資料

1847

原田元右工門組の鯨捕獲高 40

 

1853

亀谷卯右衛門、対馬藩に1万両を融資。捕鯨差配役兼産物方頭役浦奉行となる。

長崎県史・対馬藩

18541860

  安政年間

土肥組の鯨組廃業

勝本浦郷土史

1854

永取組の鯨捕獲高 11本 原田七之肋捕鯨業の許可を受ける(永取鯨組)

中上史行先生の資料

1855

永取組の鯨捕獲高       3本

1856

永取組の鯨捕獲高       20

1857

永取組の鯨捕獲高       4本

勝本町漁業史

1858

永取組の鯨捕獲高       6本

中上史行先生の資料

1859

永取組の鯨捕獲高        8本

 伯父長谷川栄左衛門の名義で免許をうける。税滞納の為

勝本町漁業史

1860

永取組の鯨捕獲高       8本

中上史行先生の資料

1861

 文久元年

益富組、鯨組を廃業、享保期より廃業まで130余年間の捕獲数21700余頭。

勝本町漁業史

永取組の鯨捕獲高       5本

1861年‐1863

原田元右工門組、五島の黄嶋、有川・板部の大嶋、宇久嶋・大村の蠣の浦嶋等で捕鯨。

1862

永取組の鯨捕獲高       2本

中上史行先生の資料

1864

永取組の鯨捕獲高       3本

勝本町漁業史

原田七之肋、平戸藩主より献金の功により「永取」の姓を拝領。

18651867

原田元右工門組、黒田藩姫島で捕鯨、不漁のため1年で中止

1867

 慶応元年

印通寺寅屋のみ操業 5頭捕鯨 寅屋四郎右衛門営業の許可をうける。

壱岐瀬戸浦史

原田七之肋、病歿により鯨組を中止

勝本町漁業史

1869

原田元右工門、病歿により鯨組を中止。

 

 

 


                                                               目次

 

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