×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

壱岐の風景      曽良翁300年忌記念誌Web版

 

 

 

河合「曾良」忌300年祭を迎えて 目次へ


 
              勝本町  石 井 敏 夫


 はじめに
 
 俳人、河合「曾良」が勝本の地で没して、今年=平成21年5月
22日で300年回忌を迎える。前回の記念行事は平成元年の280年回
忌では、曾良の生誕地諏訪市より大墓参団が来島され盛大に挙式が
行なわれている。
 
 日本を代表する松尾芭蕉と共に、河合曾良の名前も全国に知られ
ている。その意味では全国に、壱岐を観光アピールするには欠かせ
ない人物である。
 
 そこで、松尾芭蕉は勿論のこと曾良については、壱岐島内の先輩
諸氏が調査研究され多くの論文を出されているので、集約しながら
曾良の人物像と動向をまとめて見る。

1、曾良の師匠「松尾芭蕉」とは
 
 曾良の師匠で、俳諧、漂浪詩人と呼ばれた松尾芭蕉は、正保元年
(1644)に伊賀国に生まれ、武士であった籐堂良忠につかえ俳諧を
学んだ。その後、京都にのぼり北村季吟の弟子になり、貞門の俳諧
を学び寛文12年(1672)には江戸に出て談林風の俳諧も研究し、深
川に「芭蕉庵」を建てて独立しこの道につとめている。
 
 芭蕉はそれまでの俳諧が、おかしさや、こっけいみを狙っている
のに満足せず、天然自然の美しさや、静けさを味わい深く表現しな
ければと考えた。
 
 そこで、自然の清らかな中に溶け込み、人生を一つの旅として、
旅もまた人生とみて諸国を漫遊する旅に出発する。
 
 芭蕉は生涯に、5つの紀行文(野ざらし紀行、鹿島紀行、笈の小文、
更科紀行、奥のほそ道)約千句に及ぶ俳句と数多くの歌仙を残した
が、その中でも「源氏物語」に並ぶ二大古典文学と称される「奥の
ほそ道」は、その後、多くの俳人、詩人らにみちのくへの旅心を誘
った。
 
 元禄7年(1694)10月12日、大阪御堂筋にある「南御堂」の花
屋の借屋敷で、芭蕉は10人の門弟に見守られ「旅に病んで夢は枯野
をかけめぐる」の句を最後に51歳の生涯を閉じたといわれている。
 
 芭蕉亡き後、全国の津々浦々に芭蕉を偲び、俳諧の愛好者らによ
る芭蕉句碑、塚が約3.300箇所も建立されているという(弘中孝氏
調査)。その「石に刻まれた芭蕉」全集の中で、壱岐にも調査にきて
三箇所の芭蕉句碑が紹介されている。

1、 古池や 蛙飛込む 水の音
             芦辺町天徳寺 明治24年6月
2、けふばかり 人も年よれ 初しぐれ
            郷ノ浦町専念寺 大正10年10月
3、名月や 門にさしこむ 汐かしら 
             瀬戸浦幼稚園跡  年代不詳
 
 このことは、壱岐にも芭蕉の俳句に親しんだ人が多かったことを示
し、芭蕉を敬愛したグルーブがいたことを物語っている。

             
 画像ファイル
 
    芦辺町=天徳寺
 画像ファイル
 
    郷ノ浦町=専念寺
 画像ファイル
 
    瀬戸浦=幼稚園跡



 2、幕府の「巡見使」とは
 
 徳川政権は、幕藩体制の形成にあたって、大名の土地所有権を承
認する一方、幕府への臣従関係=奉公を強制する軍役負担を大名に
課した。この体制維持のため「巡見使」制度を設け、幕府は将軍が
代わるたびに巡見使を派遣して政情、民情の査察を行った。
 
 この制度は、3代将軍徳川家光(1623)が参勤交代制導入の先導
的試行として、全国を当初は6ブロック(九州、中国、近畿、関東、
北国、奥羽)に分けて実行している。
 
 3代将軍徳川家光から始まり、12代徳川家慶(1837)までの214
年間に延べ9回にわたり、九州に巡見使を派遣している。
 
 この巡見使の派遣目的は、1、天領、私領における政冶の善悪、2、
禁教と治安維持、3、運上の有無と物価高騰の関係、4、幕府政令の
実行実態、5、締買、締売の有無と金銀銭の相場、6、高札の有無、7、
公事訴訟などの調査、観察であった。

3、勝本での曾良句碑建立経過
 
 勝本にも、以前から優れた俳人がおられ、明治時代には「初音会」
という句会が行なわれていた。
 
 明治4年長野県より代表者がこられて、曾良200年祭が行なわ
れた。当時の勝本俳友初音会の方々が全員参列され、その時、曾良
記念碑建立の計画が出されたが実現されませんでした。
 
 昭和8年に、松永安左衛門の委託をうけて、東京から本山桂川氏
が壱岐にこられた。
目的は,壱岐の民族調査ということで一ヶ月間余滞在された。
 
 本山氏は俳人でもあったから勝本句会、当時は初音会から北星ク
ラブとなり、北斗会に改名されて「勝本北斗会」で句会が開かれた。
この時、再び曾良の句碑を建てようということになり「春にわれ 乞
食やめても 筑紫かな」を刻むことになり、字筆は本山氏の紹介で、
岐阜県の塩谷鶴平氏に依頼して、彫刻は勝本で墓碑等を造られてい
た、箱崎の川上伸一石工にお願いし、運搬、建立は勝本北斗会が中
心になって進められた。
 
 完成は曾良の忌日でもある、昭和9年5月22日に除幕式が城山公
園で行なわれている。その後、昭和34年の忌日には、能満寺に於い
て250回忌が行なわれ、追善集「浪の音」が刊行されている。
 
 次に、曾良280年忌を記念して、平成元年5月22日「曾良忌280
年祭」が曾良の出生地、諏訪市より各界代表者190名という大墓参
団が来島されて、盛大な大法要が城山公園で営まれた。墓所の側に
は「曾良280回忌記念碑」の建立や植樹祭が行なわれ、城山公園の
東入り口には新しく記念句碑が設けられている。
 
 句碑には「行きゆきて たふれ伏すとも 萩の原」の句が刻まれ
ている。

              
画像ファイル
 
   城山公園=「行きゆきて」の句碑
 画像ファイル
 
    城山公園=「春にわれ」の句碑



4、曾良の生い立ち
 
 曾良は、慶安2年(1649)長野県諏訪市に生まれ、弟一人がいま
した。家庭の事情で伯母の家に養子となり岩波庄右衛門字と名乗っ
ています。曾良12歳の時、岩波養父母が亡くなったので、伯父であ
る三重県桑名郡のお寺(大智院)にひきとられ成人しました。この
縁で、のちに伊勢長島藩に仕官して河合惣五郎と改名しています。
 
 曾良が30歳のとき、武士をやめて、江戸にのぼり吉川惟足のとこ
ろに入門し、神道、国学、和歌、地理、歴史を学びました。
 
 その後、35歳の夏に芭蕉に出会い入門したといわれています。
 
 俳号の「曾良」は伊勢長島の地が、木曽川と長良川とにはさまれ
ていたので、二つの川の「曾」と「良」をとり俳号にしたというこ
とです。
 
 元禄2年芭蕉の生涯で最大の旅である「奥の細道紀行」に唯一人
の随行として、曾良を同行しました。芭蕉46歳、曾良41歳であった。
 
 全行程150日、旅程2.400kmの大旅行であった。それから5年
後の元禄7年(1694)に大阪で松尾芭蕉は51歳の生涯を閉じてい
る。

5、その後の曾良の動向
 
 その後、宝永6年(1709)徳川家宣が将軍になり国内検察の制度
に従って、全国を8区分して巡見使が派遣されることになる。
 
 曾良は九州方面を命じられ一行35名で編成された。11月に随
員を承諾した曾良は、翌年3月江戸を出発するため忙しい時を過ご
していた。久しい間、固定収入のなかった曾良は、年の瀬に思わぬ
旅費手当支度金の臨時収入で、ゆとりの年越しとなった。
 
 「千貫目ねかせてせわし年の暮れ」と実感を述べている。千貫目
とは大金で250両である、価格に変動はあるが江戸時代の1両は、
米1石とされ約4万円とすれば、250両は1.000万円となるので、
何人かグループの支度金ではともいわれている。
 
 江戸を3月に出発して、福岡城下から呼子を経て5月7日、壱岐
国郷ノ浦に上陸し数日間、巡見が行なわれた後、勝本浦へきている。
ところが曾良は、勝本で病気にかかり倒れてしまった。やはり、巡
見使の任務は余りにも忙しく疲れたのでしょう。
 
 もともと曾良は背丈は高かったようだが頑健な身体ではなく、当
時としては高年齢で旅好きとはいえ無理だったのでしょう。
 
 そこで、巡見使一行と勝本浦で別れ、海産物問屋中藤家で静養し
ていましたが、その月の5月22日には62歳の生涯を閉じました。
 
 曾良の墓は脳満寺上の、中藤家の墓地に祀られています。墓碑の
正面に「賢翁宗臣居士」とあり、「翁」とは俳諧では芭蕉を指すとい
う約束ごとが出来ており、従って賢翁とは、曾良も芭蕉と同じくら
い大変優れた俳人であるという意味を表わし、「宗臣」とは徳川本家
から派遣された役人であったことを示している。
 
 その右側に「宝永7庚?天」(1710)とあり、左側に「12月22日」
と刻まれている。松浦藩が幕府にきずかって命日である22日を選
んで、12月22日に建立された
ものといわれている。また、右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉
塔」と刻んである、「尉」とは官命のひとつで巡見使の一員として、
尊敬を払って付けられた。
 
 当時は、中藤家の人達もこの巡見使が芭蕉の門人であることなど
は知らなかったに違いない、曾良の名前が世間に一段とクローズ、
アップされたのは芭蕉の死後、234年経った昭和13年に曾良の旅日
記「曾良奥の細道随行日記」が発見され、昭和18年に公刊されてか
らである。

6、曾良の句碑のいわれ
 
 前述した曾良の句碑は、城山公園に二基あり「ゆきゆきて たふ
れ伏すとも 萩の原」
は、芭蕉と曾良の二人が1689年「奥の細道」行脚の途中で、石川県
山中温泉にたどり着いたとき、すでに120日を過ぎた頃、二人はこ
こで別れることになる。
 
 原因は曾良が健康を害して、芭蕉の足手まといになることを恐れ
たからである。
そのとき、曾良から受け取った別れの句(前述)に対して、芭蕉は、
行くものの悲しみ、残るもののうらみ、せきふの別れを、雲に迷う
がごとし、自分も「今日よりや 書付け消さん 笠の露」と応えて
いる。
 
 昨日まで仲良く飛んできた鳥が、別れ別れになって雲間に迷うよ
うな思いがする、今日から一人旅になるから、笠に書き付けてある
「同行二人」の文字を、その笠につく露で消して行く。という師弟
の情けの濃さが伺えるといわれている。
 
 次に、芭蕉の死後1710年「春に我 乞食やめても 筑紫かな」
の俳句がある。この句は残念なことに、壱岐で詠まれたのでなく、
曾良が巡検使として江戸を出発する前に作られているようだ。曾良
の自筆の原文が、諏訪の竹田家に保存されているという。
 
 この句の意味は、この度は芭蕉と共に永い間やつてきた俳句行脚
とは異なり、徳川幕府の巡見使として官費旅行だし、衣装も神主姿
で九州の築紫に行ける事になった。
 
 その築紫こそ芭蕉が志して遂げ得なかった所だけに、その感懐を
含めて詠んだ句といわれている。
 
 また、「春の我」の原文は「ことし我」であったが、後年になり曾
良の姪婿の河西周徳氏が季節を重んじて「春の我」と修正されてい
る。
 
 なお、現代からみると「乞食」の二字が気にかかるが、当時は蕪
村や芭蕉も自ら乞食俳人と称しており、現在の乞食の意味とは異な
るようである。
 
 ちなみに、曾良は縁談に恵まれなかったのか、生涯妻子を持つこ
となく独身で過ごしたといわれている。

              
画像ファイル
 
     曾良終焉の地=勝本浦中藤家
 画像ファイル
 
    曾良の墓所=能満寺上



おわりに

 以上多くの人達の文献をまとめて見たが、多少意見のくい違う箇
所もある。
 
 松尾芭蕉は、以前からの俳句はコッケイさが主流で詠われていたが、
真剣な詩美つまり、生きようと焦る人生を表現するものと考えられ、
近世詩の基礎を築いた俳人とされる。
 
 曾良の芭蕉との俳句行脚は、奥の細道に同伴する前に、貞享4年
(1687)鹿島紀行の旅に同伴しているので、奥の細道の時は2回目
である。
 
 手元の資料では、多くが曾良は松尾芭蕉の弟子で「十哲の一人」
と言われているが、
 
 壱岐「島の科学」伊藤誠朗氏の論文では、芭蕉の門下十哲に数え
られているのは、其角、嵐雪、杉風、野波、去来、丈草、許六、支
考、越人、北枝の10人である。秀才曾良が、どうして十哲のひと
りに数えられないのであろうか、奥の細道にまで同伴までしている
曾良が・…・という疑問が出てくる。
 
 大体この10人は芭蕉が死んだとき合っている。つまりこの10人
は、芭蕉が死ぬと夫々芭蕉直門の甲板をかかげて、狭い俳句論に、
浮き身をやつしたというからつまらぬ話である「船頭多くて瀬にの
しあげる」という諺があるが、つまり、実力が互角であったと見て
よい。武士を捨ててまで、文学の世界にとびこんだ才覚の持ち主で
ある曾良のこと、このいがみあい、現実のいやらしさに、心底嫌気
がさしたのではなかろうか。その後は漂白の旅を続けることになる
のである。、、、、、と述べられている。
 
 従って、私見ではあるが芭蕉が没した時、芭蕉に追従し俳句を楽
しむ10人位の有力者がいて、曾良は芭蕉の小使役程度にしか見られ
ていなかったのではなかろうか。
 
 一般的には、当時、奥の細道で芭蕉に同伴したとき曾良が記録し
た「曾良奥の細道随行日記」が、昭和18年に公開されてから、世間
の認識が曾良に集中したと思われる。
 
 そこで、現在いえることは、勝本で没した時の「随行日記」は不
明で、何処からか発見される期待感と、その後、十哲の中から有力
な俳人の話は聞かない。曾良の存在はやはり芭蕉に次ぐ偉大な俳人
といっても、過言ではなさそうである。

              
画像ファイル
 
  城山公園=諏訪大社の御柱建立
 画像ファイル
 
    勝本浦商店街入口=御柱先端



(参考文献)
 
壱岐「島の科学」。壱岐の風土と歴史(中上史行)。
 
曾良の足跡について。巡見使西国紀行。河合曾良(山川鳴風)。
 
芭蕉の河合曾良を語る(真鍋蟻十)。
 
曾良の句碑(山口博千)。
   
 その他、研究を極める方には、曾良翁280年忌記念誌「海鳴」に
原田元右衛門氏の研究論文がある。

  

           







   
















































































  ブログパーツ