|
|
壱岐の風景 曽良翁300年忌記念誌Web版 |
|
河合曽良翁年譜 目次へ
勝本町 松崎 靖男
|
和暦 |
西暦 |
年齢 |
略 暦 |
|
慶安2年 |
1649 |
1歳 |
下桑原村(現諏訪市諏訪2丁目)、高野七兵衛の長男として出生し、幼名を与左衛門という。長男であるが、なぜか母の実家銭屋河西家(酒造家)に引き取られ、その後叔母(父の妹)の嫁ぎ先、福島村(現諏訪市中洲福島)の岩波家に養子縁組して、岩波庄右衛門正字(まさたか)を名乗る。 姉(法号・利鏡、小平家に嫁ぐ)と弟五左衛門がおり、生家は弟五左衛門が継ぐ。 |
|
万冶3年 |
1660 |
12歳 |
養父岩波久右衛門昌秀が1月に、次いで養母(叔母・父の妹)が6月に亡くなる。 |
|
寛文8年 |
1668 |
20歳 |
叔父の深泉良成の勧めで、伊勢長島の久松松平家(徳川家康の異父弟達の系統)に仕官し、母の実家、銭屋河西家の旧姓である河合姓を名乗り、河合惣五郎と称する。河合家は甲州武田家に仕えた、なかなかの名家であったという。 また一説には、縁者(婚姻・養子縁組みによって縁続きとなった人)の長屋正以らの取りなしで、伊勢長島藩士川合(河合)源右衛門長征の名跡に入ったため河合惣五郎を名乗ったとも伝わる。 |
|
延宝4年 |
1676 |
28歳 |
「曽良」の俳号で歳旦吟「袂から春は出たり松葉銭」(初見句)。 曽良の俳号は自分が仕える伊勢長島藩の地が、木曽川と長良川に挟まれていたので、二つの川の「曽」と「良」をとって名付けたといわている。 |
|
天和元年 |
1681 |
33歳 |
このころ伊勢長島藩をやめて浪人となり江戸へ出、吉川神道の創始者であり、幕府の神道方を務める吉川惟足に入門、後に中臣の祓(はらい)の主坐をつとめる免許を得る。また地理を儒学者・地理学者として高名な並河誠所に学び、和歌・歴史なども習得する。その他にも幕府の依頼により「五畿内地誌」を書いた関祖衡などとも親交を持ち、大いに学識を深める。 曽良が伊勢長島藩をやめて浪人となった年代としては他に、真鍋儀十翁・山川鳴風翁の延宝4年28歳説、原田元右衛門翁・中上史行氏の延宝7年31歳説などがある。 |
|
天和3年 |
1683 |
35歳 |
芭蕉は天和2年に駒込の大円寺から出火した大火で芭蕉庵を焼いてしまい、芭蕉が江戸に出たころからの門人で、秋元藩家老の高山糜塒(びじ)を頼って、甲斐国谷村(山梨県都留市)へ行き、半年間世話になる。 曽良は、甲斐に滞在中の芭蕉を訪問し「鶯のちらほら啼や夏木立」。この夏、高山糜塒宅において、芭蕉に入門したといわれる。9月第二次芭蕉庵完成。 |
|
貞享2年 |
1685 |
37歳 |
このころ江戸深川五間堀に居を構え、芭蕉庵に足繁く通い芭蕉の薪水の労をとり晩年までここを本拠とする。 |
|
貞享3年 |
1686 |
38歳 |
3月刊「蛙句合二十番」に蕉門の俳人として曽良の句が登場する。 「うき時は蟇の遠音も雨夜哉」 9月刊「俳諧一橋」 「米一升をはかる関の戸」 曽良 冬、雪の夜に芭蕉庵を訪ねた曽良を叙す句文「雪まるげ」成る。 ある夜、雪を訪(と)はれて「きみ火をたけ よき物見せん 雪まろげ」 芭蕉 |
|
貞享4年 |
1687 |
39歳 |
芭蕉の月見と鹿島神宮参詣を兼ねた「鹿島詣」(鹿島紀行)に宗波とともに同行し、鹿島根本寺の仏頂和尚を尋ね、帰路に潮来の本間自準亭に遊んだ。 「雨にねて竹起きかへる月見かな」 根本寺にて 「膝折ルやかしこまり鳴鹿の声」 鹿島神宮にて 「もゝひきや一花摺の萩ごろも」 野辺にて 「はなの秋草に喰あく野馬哉」 上に々 「月見んと汐引のぼる船とめて」 自準亭にて、以上5句を残している。 この「鹿島詣」のあるとき、芭蕉が「浪客の士」と曽良をひとに紹介している。 「浪客の士」ということは、曾良はこの頃はまだ俗形で浪人姿だったことになる。 |
|
元禄元年 |
1688 |
40歳 |
歳旦吟「元日やこがねの鞍に馬白し」 河合惣五郎=「惣五」を「宗悟」と改名し、髪を剃って僧形となる。 芭蕉庵で芭蕉と7人の門人(曽良、依水、苔翠、泥芹、夕菊、友五、路通)で「貧」にちなんだ句を詠み、句文集「深川八貧」を発刊する。 この折の芭蕉の句は「米買に雪の袋や投頭巾」。 |
|
元禄2年 |
1689 |
41歳 |
3月、芭蕉の奥羽行脚(「おくのほそ道」の旅)に随行が決定する。行脚行程の延喜式神名帳抄録(官社とされた神社一覧の抜粋帳)および名勝備忘録(通過予定の各地の歌枕を列挙したもの)を作って準備する。 奥羽行脚の旅立ちの日は、曽良の旅日記による3月20日説と「おくのほそ道」本文による3月27日説がある。曽良の人柄から推して、3月20日は書き誤ったのではなく、何らかの事情で曽良が3月20日に一人で深川を立ち、7日後の27日に千住で芭蕉と落ち合ったとする見解と、3月20日に芭焦とともに江戸深川を舟で出発し千住に上がって数日滞在し行脚を始めたのが7日後の27日とする見解がある。 日光―黒羽―須賀川―福島―仙台―松島一関―尾花沢―羽黒山―酒田―新潟―高田―金沢―石川・山中温泉に到着。 8月、山中温泉滞在中の出来事を「おくのほそ道」本文に、 曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立ちて行に、 「行き行きてたふれ伏とも萩の原」 曾良 と書置たり。 これは、別の句形で俳諧書留にもあり、「行き行きて」に辿り着くまでの試案句だと思われる。 「いづくにかたふれ伏とも萩の原」 これに対して芭蕉の句は、 行ものゝ悲しみ残ものゝうらみ隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又 「今日よりや書付消さん笠の露」と応えている。 これによって、3月以来130日前後にわたる2人だけの旅は終わるのである。 8月5日山中温泉で腹を病んだ曽良は、芭蕉と別れ敦賀―大垣をへて8月15日長島長松山大智院に到着し養生、9月3日長松山大智院を出て大垣に戻り芭蕉と再会する。芭蕉、路通らを案内して同6日長松山大智院に入り、芭蕉と共に伊勢神宮の遷座式を拝する。9月15日芭蕉と別れた後、11月13日江戸深川に帰庵する。 「行き行きて」以外の曽良の代表的な旅中の発句 「かさねとは八重撫子の名なるべし」 奈須野にて 「松島や鶴に身をかれほととぎす」 松島にて 「卯の花に兼房みゆる白毛かな」 平泉にて、など |
|
元禄3年 |
1690 |
42歳 |
義仲寺に病気療養中の芭蕉にあてた9月26日付の曽良書簡では、芭蕉の下血が再発したことを心配し、よく養生して早く深川に帰庵するよう促して、年内に帰庵することが出来ないなら、来春早々にも迎えに行くと告げている。 |
|
元禄4年 |
1691 |
43歳 |
3月4日、近畿巡遊の旅に江戸深川を出発し名古屋・大津を経て、京都に入り芭蕉に逢う。南下して奈良、吉野山、高野山を山越えし熊野・和歌浦そして大阪へ。 芭蕉と別れて西は姫路まで1人旅をして、4月29日再び京都へ入り、5月2日 俳人向井去来の嵯峨落柿舎に滞在していた芭蕉に逢う。 6月26日芭蕉とまた別れて、再び近畿一帯の一人旅を始める。7月15日伊勢神宮に参り、神道のお祓いの儀式、「中臣(なかとみ)講」を行う。 「近畿周口遊記」は、7月25日で終わっているので江戸に向けて出発し、8月初旬には江戸深川に帰庵する。 この年の7月に刊行され、「おくのほそ道」と共に蕉風の最高峰をもって称せられる「猿蓑」に、曽良は13句も入集して俳人として曽良の輝かしい時代である。 ちなみに「猿蓑」の書名は、芭蕉が詠んだ「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句に由来する。 |
|
元禄5年 |
1692 |
44歳 |
5月杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により、第三次芭蕉庵が新築された。 芭蕉の言葉『柱は杉風、桐風が情を削り、住居は曽良、岱水が物ずきを佗ぷ』 七月素堂の母の喜寿の祝いに「うごきなき岩撫子や星の床」と詠んでいる。 |
|
元禄6年 |
1693 |
45歳 |
10月9日、素堂亭にて残菊の宴 「何魚のかざしに置ん菊の枝」 |
|
元禄7年 |
1694 |
46歳 |
5月8日曽良は帰郷する芭蕉と共に江戸を出立し、11日箱根まで見送り 「ふつと出て関より帰る五月雨」これが、親交厚かった師弟の今生の別れとなる。 10月12日芭蕉、大阪御堂前の花屋宅で客死。51歳。 10月22日曽良は、桃隣・子珊・杉風その他と追悼俳諧を行い、追悼吟「むせぶとも芦の枯葉の燃しさり」を詠み、形見として「野ざらし紀行」稿本と二見文台を形見分けとして頂く。 11月16日、神道の師である吉川惟足が79歳で没する。 |
|
元禄10年 |
1697 |
49歳 |
叔父である真言宗長松山大智院第4世住職 深泉良成(秀精法師)没する。 |
|
元禄15年 |
1702 |
54歳 |
秋、更科に行脚し、その帰り道に故郷の上諏訪に立ち寄り、 「ゑりわりて古き住家の月見哉」と詠む。 |
|
宝永6年 |
1709 |
61歳 |
10月27日、幕府派遣の第4回諸国巡見(6代家宣の治世)の巡見使に採用され、 伊勢長島藩に仕官以来、実に41年ぶりに「岩波庄右衛門正字」にかえる。 歳暮吟「千貫目ねかせてせわし年の暮」 「あはれただ過し日数はあまたにてさてしもはやく年ぞくれ行」 |
|
宝永7年 |
1710 |
62歳 |
歳旦吟に「ことし我乞食やめてもつくし哉」の句を詠み、「正字」の名で 「立初る霞の空にまつぞおもふことしは花にいそぐ旅路を」の歌を諏訪の一族に対し送る。 友人の関祖衡は、旅立つ曽良に送辞を贈っている。 「庚寅の春、巡国使某君に陪して、しらぬひのつくしの国に赴よし」などと、3月1日、諸国巡見使一行が江戸を出発。九州方面担当は総勢138人(3班)。 今回の巡見地は筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬、五島の9ヶ国1島。曽良は岩波庄右衛門の本名で、旗本二千石の書院番・土屋数馬喬直(小姓組)率いる班(44人)に「用人」として属す。 一説には5月7日壱岐郷ノ浦に到着、城代のいるこの町で数日間巡検した後、風本浦に向かったとも言われている。 亡骸は、勝本山能満寺の中藤家墓所に葬られ、墓石は、正面中央に「賢翁宗臣居士○也」その右に「宝永七庚天」、左に「五月廿二日」。右側面には「江戸之住人岩波庄右衛門慰塔」と刻まれている。 5月26日、巡見使一行出発、対馬着船。(江戸帰着は9月) |
|
|
壱岐の風景 曽良翁300年忌記念誌Web版 |
|