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壱岐の風景へ      壱岐の人 曽良翁を語る

 

 

 

やまぐち あさたろう 

山口麻太郎翁

 

 明治24年827日郷ノ浦町黒崎里触にて出生。

 大正10年壱岐郡教育会主催夏季講習会において折口信夫の「民間伝学」を聞き、柳田国男の民俗学を知り、早速、柳田国男に入門する。それから歴史学、考古学、民俗伝承学を加えた郷土研究に邁進する。

 昭和8年郷土の先覚者、松永安左ヱ門からの経済的な援助を受けて私設壱岐郷土研究所を開設し、郷土資料の収集、調査研究に専念する。

 しかし、太平洋戦争後は壱岐郷土研究所の経営が困難となった。収集した資料の3000余点昭和42年長崎県立図書館と美術館に無償寄贈した。

 主な著書には、「壱岐島の方言集」「壱岐島民俗誌」「壱岐島昔話集」「百合若説経」「平戸藩法令規式集成」上・中・下巻。「日本の民俗長崎県篇」「西海伝説」「壱岐国史」「壱岐国地名誌」「壱岐島明治文化史」「山口麻太郎著作集」全三巻等。
 共著には「九州の衣と食」「九州の祝事」「式内社の研究西海道」等がある。

 長崎県文化財専門委員、壱岐文化財調査委員会会長、郷ノ浦町
文化財調査委員長等を歴任した。

 郷土研究等に貢献し、昭和31年長崎県知事表彰、昭和37年長崎新聞社から長崎文化章、昭和46年壱岐郡町村会長表彰、昭和49年西日本新聞社の西日本文化章等を受け、昭和50年勲五等瑞宝章を受けた。

  昭和62年12月26日に没した。

 

 

 

山口麻太郎著作集より

「曽良ははたして壱岐で死んだのか」

 

山口麻太郎  

 

『奥の細道』で芭蕉と行をともにしたことで有名な俳人曽良が、壱岐勝本浦で死んだという事は学界の定説ともいうべきもので今日ほとんど疑う者はない。曽良が死んだのは勝本の墓碑に刻んである宝永七年五月二十二日を正しいとされている。ところがそれから六年後の正徳六年四月二十八日に群馬県の榛名神社の棲門のそばで曽良と会ってゆっくり話したという人があるのである。

 会ったという人は曽良の旧知で、その筑紫行には送別の詩と序を贈った親友の開祖衡と並河永の二人である。それは祖衡が書いた『伊香保道記』に詳しく明らかである。曽良と明記はしてなく「二十年来の旧相識白髪の老翁」とあるだけであるが、これが曽良であったろう事は日本大学の渡辺徹教授の精緻な考証でどうも疑う余地が少いようである。

 そうすれば曽良は壱岐で死んではいないということになる。曽良が壱岐で死んだという根拠は、第一に故郷の信州諏訪で五十回忌に出された「乞食ぶくろ」の記事で、壱岐の勝本で死んだという便りによって曽良の母方の姪婿河西周徳が正願寺に碑を建てたというのである。今一は勝本能満寺にある墓碑で「江戸ノ住人岩波庄右衛門尉塔」と明らかに刻んである事である。郷里諏訪での建碑は壱岐からの報知によったものであろうからこれはどうしても壱岐にあることになる。

 曽良が壱岐に来たのは巡国使の随員の一人としてであり、宝永七年三月一日に江戸を立ったと思われる。巡国使というのは地方藩政の状況を監査する幕府の査察官であった。小倉から九州にはいり北九州各藩を見て唐津から壱岐に渡り、対馬に行って今一度壱岐に引返し、更に平戸に渡って南九州を廻るものであった。

 曽良も元は武士であったが既に仏門に入り俳諧の道に遊んで諸国行脚をたのしんでいる身分である。筑紫行を念願して知人をつてに巡国使の一行に加えてもらうことにはなったが、頭陀袋の乞食姿では許されない。官吏の風体をつくらねばならなかった。それが「春にわれ乞食やめても筑紫かな」の句となった訳である。武士をきらい雲水を友とする曽良が特別規律のやかましい巡国使の一員となる事が無理であった。曽良が筑紫行の念願とおよそ縁の遠いものであったろう事は想像にかたくない。壱岐まで来て、いよいよけつをわったと見てもよい。病気と称して(あるいは事実病気であったかも知れ

ない)一行と別れたらしい。

 巡国使が使命をはたして江戸に帰着したのはその年の九月二十八日であった。曽良もそれまでに病気が治っていれば行に加わって帰府の報告をせねばならない。治りがおそく帰府が遅れたとしても、官命を帯びて官費をもって長途の旅行をしたのであるから一片の届出なくしてすむ筈はない。しかし曽良はそんな事のできるような人ではなかったようである。

 病気といって落伍することはできたけれども生きている以上世間に顔を出さない訳には行かぬ。曽良本来の自由奔放な境涯をとりもどすためには死を装うほかに途はない。事実病気が悪くなれば死なねばならない。しかし壱岐で死んだという確証は実は何もない。伝説さえもそのまま死んだとも女流画家と恋に落ち一度帰って再遊したとも言われている。墓碑のある事は最もよい材料ではあるが疑えば充分疑える。碑銘には「賢翁宗臣居士也宝永七庚寅天五月二十二日江戸ノ住人岩波庄右衛門尉塔」とある。「尉」は贅字であるが幕府の官吏ということを示すために仰々しくしたのかも知れぬ。「也」も「塔」も不用の文字である。同時代の墓碑は他にもあるが私は未だそんな文字のあるものを見ない。私は何だかことさらに信ぜしめようとする意図の隠されていることを感ぜしめられる気がする。又この墓碑は一時倒壊して石段の踏石に使われていたと云って、頭が少し欠き取られている。祭祀が絶え埋葬の位置が重んぜられていなかったという点も弁解の余地はない。とにかく曽良は何とかして隠棲の目的を達したかも知れぬ。白髪の老人は既に三ヵ年榛名山の岩窟にいるといってそそくさと帰って行ったという。

 

 

 

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