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壱岐の風景へ      壱岐の人 曽良翁を語る

 

 

は ら だ も と え も ん

原田元右衛門翁

 

 

 明治三十五年一月十日、壱岐郡勝本浦黒瀬の二男として生まれ、殿川保衛といい、後に勝本浦正村原田家(つたや)に入り、第四代原田元右衛門を世襲する。

 勝本北斗句会員(大耕)であり、また郷土史家として、曽良翁の他に、鯨組土肥家・朝鮮通信使の研究をすすめてこられた。

 ここに紹介する研究論文は平成元年、曽良翁280回忌記念事業の一環として、記念誌『海鳴』が発行され、その時掲載し発表されたものです。

昭和八年より昭和十年まで

香椎村議会議員(勝本町の前身)

昭和十年より昭和二十一年まで

勝本町議会議員

昭和四十八年より昭和六十三年まで

勝本町文化財調査委員会委

壱岐郡文化財調査委員会委

昭和六十三年十二月七日 逝去 享年八十六歳

 

 

 

 

 

俳聖芭蕉翁の伴侶

       曽良翁終焉の地 壱岐・勝本

                          原田 元右衛門

 

目次

(1)   曽良のおいたち

(2) 曽良の俳号と地誌学

(3) 芭蕉と曽良

(4) 奥の細道と曽良

(5) 芭蕉亡き後の曽良

(6) 九州の旅(筑紫の旅)

(7) 曽良の句碑

(8) 曽良翁二百五十年忌

(9) 後 記

 

 

 

(一)   曽良のおいたち  目次へ

 

 河合曽良は、慶安二年(1649)信州上諏訪(長野県諏訪市上諏訪)に生まれた。父は高野七兵衛、母は河西氏(上諏訪銭屋、現戸主河西五郎氏方より嫁ぐ)、曽良はその長男である。姉と弟の各一人があり、姉は利鏡と言い、上諏訪の小平仁佐衛門(酒造家奈良屋、現戸主小平邦之輔)に嫁ぎ(元禄十五年没) 一女(下諏訪河合甚右衛門に嫁ぐ)をもうけ、弟は五左衛門と言い高野家を継いだ。(五左衛門没後、高野家は断絶)

 曽良の生家は、JR上諏訪駅前の国道を南へ下る郵便局手前の魚市場がその跡といわれる。

 曽良は幼名を与左衛門と言い、幼い時両親と死別し、母の生家河西家に引き取られたが、その後伯父の生家である岩波家の養子となり、

岩波庄右衛門正字(まさたか)と名乗った。(岩波家は諏訪市中洲福島に在る)養父岩波久右衛門昌秀は、曽良十二歳の万治三年一月八日に卒し、下桑原村の嘉右衛門の娘であった養母も、同年六月六日に没したので、故郷に頼る人なく、伯父にあたる伊勢長嶋(三重県桑名郡)の領主の祈願所、大智院住職秀精法師に養育された。

 寛文八年(1668)二十歳の時、河合惣五郎と改名して、伊勢長嶋藩(二万石)に伯父の世話で仕官、藩主松平土佐守亮直に仕えた。母の生家は河合と称していたが、武田信玄の家臣河合和泉守連久の時、謙信(信長か?)の武田の残党狩りを脱れるため河西姓にしたと言う。

 

(二)   曽良の俳号と地誌学  目次へ

 

 曽良が長嶋藩在住の時代は、談林俳諧の全盛時代であり、曽良二八歳の歳且吟に

 

  袂から春は出たり松葉銭

 

   丙辰吉且           とある。

 

 丙辰の年は延宝四年(1676)に当たり曽良が俳諧の道に入ったのは、延宝元年(1673)の頃と思われる。

 曽良の俳号は、長嶋の地が木曾川と長良川にはさまれていたので、両河川の曽と良をとり、曽良を俳号としたと伝えられている。

 長嶋藩が松平忠充の時、領地没収(元禄十五年、1702年)になる前の延宝七年(1679)曽良三十一歳時、長嶋藩を致仕して江戸に上り、当時幕命を受け本所に国学の塾を開いていた吉川流神道の創始者吉川惟足(これたり)に入門して、神道と和歌を修め、神道の允許を受けた後、地理と歴史に関する地誌学を修得している。吉川惟足は天和二年1682十二月、幕府神道方となっている。

 

 

(三)   芭蕉と曽良  目次へ

 

 天和三年(一六八三)曽良三十五歳の夏、甲斐国の高山麋塒の家で初めて芭蕉に会っているが、この頃に芭蕉に入門したといわれる。当時の句に

 

  鴬のちらほら啼くや夏木立            がある。

 

 芭蕉は、貞享三年(1686)の春、四十三歳の時、

 

  古池や蛙飛び込む水の音

 

の句で名声を挙げた。曽良は芭蕉より五歳下で又芭蕉庵に近い五間堀りに住んでいた関係もあり、師への勤めぶりは一方でなく、芭蕉も亦、こまめに自分の身辺を世話してくれる曽良の人柄が好ましかったようである。

 貞享四年(一六八七)八月下旬、芭蕉の「鹿島詣」には曽良は宗波と共に随行して深川を出船、行徳に上り布佐より夜舟で下り鹿島に至り、根本寺に一泊して鹿島神宮に詣でている。鹿島紀行文に芭蕉は「ともなふ人ふたり、浪客の士ひとり、ひとりは水雲の僧。僧はからすのごとく墨のころもに三衣の袋をえりにうちかけ…(中略…)いまひとりは僧にもあらず俗にもあらず」と曽良を、浪客の士ひとりと述べている。曽良三十九歳の秋である。

 

 その時の旬に

 

  くりかえし麦のうねぬふ小蝶哉

 

  雨に寝て竹起きかへる月見かな

 

  膝折るやかしこまり鳴く鹿の声

 

  ももひきや一花摺(ひとはなずり)の萩ごろも

 

  はなの秋草に喰あく野馬哉            がある。

 

 

(四)奥の細道と曽良  目次へ

 

 元禄二年(1689)三月二十七日芭蕉は曽良を伴い、深川を出船して「奥の細道紀行」に出立した。芭蕉四十六歳、曽良四十一歳であった。曽良は出発にあたり、神道の学識を生かして「延喜式」により「延喜式神名帳抄録」を、「類字名所和歌集」「楢山拾葉」により行く先々の「名勝備忘録」を作製して準備を整えていた。

 芭蕉は随行者曽良について次のように書いている。

 「曽良は河合氏にして惣五郎といへり、芭蕉の下葉(芭蕉庵の近く)に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま、象潟(さきがた)の眺共にせん事を悦び、且は羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃り墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。仍て(よって)墨髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ」と

 

  剃捨て墨髪山に衣更

 

又、紀行に次の句を残している。

 

    (那須野)

  かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名成るべし

 

    (白河の関)

  卯の花をかざしに関の晴着かな

 

    (松しま)

  松しまや鶴に身をかれほととぎす

 

    (平泉)

  卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな

 

    (尾花澤)

蠶飼(こがい)する人は古代のすがた哉

 

    (月 山)

湯殿山銭ふむ道の泪かな

 

    (象 潟)

象潟や料理何くふ神祭

 

波こえぬ契ありてやみさごの巣

 

 この紀行は不案内の地理を探り、行雲流水に草に枕の定めなく「土座に莚を敷きて、あやしき貧家の隅に宿を借り、灯もなければ囲炉裏の火かげに寝所をもうけて臥し、よしなき山中に逗留して蚤、虱、馬の尿する枕もと」に、眠れぬままの一夜を明かすあらゆる難渋とのたたかいであった。また五月十日松島から平泉に赴く際、途中で道に迷い矢本新田で咽喉が乾いて、家毎に湯を乞うたが与えられず、通行人の今野源太左衛門がこれを憐んで、知人の家に伴い湯を貰ってくれた上、新田町の四兵衛方の宿まで紹介してくれた等、曽良は克明に旅日記を書きつづけた。これが「曽良随行日記」であり、曽良が道中の古社を「延喜式神名帳抄録」で芭蕉に説明した事も知れる。この随行日記は現在奈良市にある天理大学図書館に国の重要文化財として所蔵されている。この「曽良随行日記」は昭和十八年(1943)に世に見出され、「奥の細道」の研究が一段と深まった。

 曽良は、百数十日に及ぶ長旅に疲れ、北陸路では腹痛に苦しめられるなどしたので、師の手足まといになる事を恐れ、八月五日「加洲やまなかの涌湯(わきゆ)(石川県山中温泉)泉屋又兵衛(桃夭・とうよう)方で別れを惜しみ乍ら、伊勢長嶋の伯父秀精法師を訪ね養生する事にした。

 

 「乾坤無住、同行二人」と書かれていた笠の宇の「同行二人」を消さねばならぬ芭蕉は、その淋しい心境を

 

  今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉

 

と詠み、又先立ち行く曽良は

 

  行ゝ(ゆきゆき)てたふれ伏すとも萩の原 曽良

 

と詠んでいる。芭蕉は又「奥の細道」に「行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまようがごとし」と記している。

 曽良は芭蕉と別れて、大聖寺城外の全昌寺に宿り、一人寝のわびしさに

 

  よもすがら秋風きくやうらの山

 

の旬を詠んでいる。

 

 山中温泉泉屋で芭蕉と別れた曽良は、八月十五日伊勢艮嶋の大智院に到着した。秋色濃い九月二目敦賀から馬の背に揺られ乍ら、芭蕉が美濃大垣の庄に到ると聞くや、曽良は大垣まで出迎え、六百余里2044キロ余)二百二十二日余の旅の芭蕉の労をねぎらい、二人は大垣から伊勢長嶋に赴き大智院で旅の疲れをいやしながら、数日の間積もる話に夜を明かしたという。                 。

 その後、九月六日曽良は芭蕉と同道して、伊勢神宮の遷座式を拝し、九月十五日師と別れて長嶋に帰り、九月下旬には熱田、名古屋に遊び、十月八日伊賀上野に再び芭蕉を訪ねて、二十二日は名古屋に赴き、十一月十三日に深川の芭蕉庵に帰庵している。

 元禄四年(1691)三月四日、四十三歳の曽良は病弱の芭蕉の身を案じて深川の芭蕉庵を出立し、四月二十五日京都で芭蕉を見舞い、更に宇治、奈良、吉野などを巡って、四月二十九日再び京都に入り、

 

五月二日落柿舎にあった去来、芭蕉と会って交友を暖めていたが、遊志やみ難く、師の巡りし跡を辿(たど)らんものと近畿巡遊の旅に出た。京都近傍を探った後、大阪から奈良・吉野を経て伊賀上野に至り、七月十五日には伊勢に出て、吉川惟足高弟としての神道の允許により、伊勢神宮で災危罪障を祈り払う「中臣の祓」の儀の主座を勤めるなどして、百四十日余の旅を終えて深川の芭蕉庵に帰庵している。

 

 この近畿巡遊時の句に次のものがある。

 

 伊賀の境

   なつかしやならの隣のひと時雨(しぐれ)

 

 和歌の浦にて

   浦風や巴を崩すむら千鳥

 

 吉野の里にて

    むつかしき拍手も見せず里神楽

    大峰やよし野の奥の花の果

    春の夜は誰か初瀬の堂篭

 

 落柿舎にて

    破垣やわざと鹿の子の通ひ路

 

 

 元禄五年(1692)七月七日曽良は芭蕉と共に素堂の母の喜寿の祝いに赴いた時

 

   うごきなき岩撫子(なでしこ)や星の床

 

の句が許六自筆の「旅館日記」に見え、元禄六年(1693)十月九日芭蕉と素堂亭の菊見に行き

 

   何魚のかざしに置ん菊の杖

 

と詠んだ句が、「続猿蓑集」(元禄七年刊)に見える。

 

 

(四)   芭蕉亡き後の曽良  目次へ

 

 芭蕉は元禄七年(1694)四月、五十一歳の時「奥の細道」の完成をみたので、深川の草庵を曽良に頼んで五月八日江戸を出立した。上野、箱根、三嶋、大津を経て、京都の落柿舎等に約二か月を費やした芭蕉は、七月からは伊賀上野で兄半左衛門が建ててくれた無名庵に滞在、門弟の支考を相手に「続猿蓑集」の撰を終え、九月八日支考や。惟然等を伴って無名庵を出立するが、その時に次の句がある。

 

  麦の穂を力につかむ別れかな    芭蕉

 

 何かは知らず後髪を引かるる思いの芭蕉は、笠置山の麓から柴舟をやとい、加茂まで木津河を下り、九日には大阪に着き酒堂の家に入った。その日の夕方から発熱、二十日頃は句会に列するまでにはなったが、二十九日には急変して、十月五日大阪南久太郎町の花屋仁左衛門方の貸屋敷に移り、十月八日辞世の句を門弟呑舟に口授し、去来に遺言を残して不帰の客になった。

 

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 「笈日記」

 

 時に元禄七年(1694)十月十二日タ方四時頃で、芭蕉は五十一歳で、遺言により大津市膳所に在る義仲寺の境内に葬られている。曽良その時四十六歳であった。

 曽良は深川の芭蕉庵を守り乍ら、生前の面影を偲んでは深い悲しみの日を送っていた。

 曽良は葬儀にも、初七日供養にも出席しなかったが、葬儀の追悼吟に

 

  むせぶとも芦の枯葉の燃しさり   曽良

 

また、七回忌(元禄十三年)の追悼吟に

 

  俤(おもかげ)や冬の朝日のこのあたり   曽良   がある。

 

 芭蕉の亡くなった元禄七年は、神道の師吉川惟足も十一月に七十八歳で没し、曽良にとっては淋しい年にもなった。

 元禄十五年(1702)の秋、五十四歳の曽良は芭蕉の墓参のため、更科行脚の旅に出立した。義仲寺の師の墓前にぬかずいた曽良は、

 

  おがみ伏て紅いしぼる汗拭い

 

の句を奉っている。更科行脚の帰り故郷に立ち寄り、育ての親、伯父秀精法師(元禄十年十二月卒)の供養をしたが、これが最後の帰郷となる。その時の句に

 

  ゑりわりて古き住家の月見哉      がある。

 

 

(6)九州の旅(筑紫の旅)  目次へ

 

 芭蕉亡き後も、曽良は俳諧を続けてはいたが、一方、吉川惟足の高弟として一門を助けて活躍し、漂泊流転の生活を続けていたものと思われる。宝永六年(1709)五月十日徳川家宣が六代将軍となり、恒例による国内検察のための全国八区へ巡見使派遣を発令したのが十月二十三日、割当てが十月二十七日になされ、九州地区は、二筑・二肥・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬・五島(豊前・豊後は四国に入る)となった。曽良は吉川一門から神道学者として推挙されたが、三名の巡見使のどの配下として筑紫に下ったか不明であり、武士または神官の資格で近習としての秘書格で随行したものと思われる。曽良は随員に加わった時から、岩波庄右衛門正字にかえっている。

 

     宝永六年 歳暮

 

    あはれただ過し日数はあまたにて
        さてしもはやく年そくれ行    正字

 

     手当を頂いて 歳暮

 

    千貫目ねさせて忙し年の暮    曽良

 

 曽良は宝永七年(1710)三月十五日頃江戸を出立するに当たり、上諏訪の郷里に次の和歌と俳句を送っている。

     歳児試筆

 

    立初る霞の空にまづぞおもふ

        ことしは花にいそぐ旅路を    正字


    ことしわれ乞食やめても筑紫かな    曽良


 また、幕命によって編集した「五畿内誌」のうち、曽良の進言によって「河内誌」を書き上げた地理学者関視衡は、かねての親交もあり、曽良の筑紫への旅立ちに極めて長い送別文を送ったことが、曽良の死後郷里で遺品の中から発見されている。

 宝永七年三月1710朔日、巡見使三使は将軍よりいとまを賜り、三月十五日頃江戸を出立した。

 

一、大名目附役御使番 二千石 小田切靭負直広

        給人近習六人、中小姓徒士七人

        足軽中間十五人等  計四十名

 

一、小姓組番    千八百石 土屋数馬喬直

        給人近習六人、中小姓徒士七人

        足軽中間十五人等  計十名

 

一、書院番 八百石 永井監物自弘

        給人近習六人、中小姓徒士七人

        足軽中間十五人等  計二十七名

 

 江戸を出立した巡見使一行は、東海道を下り大阪から瀬戸内海を航海して、筑前国若松(北九州)に上陸して、小倉藩、名島藩を検察、黒田藩、唐津藩を通り、五月六日呼子から壱岐郷ノ浦に上陸、一泊の後五月七日郷ノ浦から陸路、要人は駕篭で、その他は馬で、昼頃勝本浦到着、それぞれの宿舎に入った。
 巡見使の宿舎は、三光寺・神皇寺・押役所の客殿と思われる。一行は順風に恵まれれば府中(対馬)に渡り、全島を巡見後五月十九日頃勝本に帰り、五月二十日頃五島へ向けて出発する予定であった。

 巡見使の旅は強行軍で、殊に離島の多い九州は船旅が多く、暫しの自由も許されない厳しさがあったといわれる。食事は一汁一菜、それも四品と決められるなどしていた。そのためか宝暦十一年(1761)には、御小姓組、神保帯刀が薩州で倒れ、天明八年(1788)には御使番の小笠原主膳と御小姓組の土谷忠次郎の二使が共に薩州で殉死している。

 当時六十二歳の曽良には、かって各地を遍歴した経験はあるにせよ、休む暇もない七十日にも及ぶ公務の旅は思いもよらぬ苦しい旅の連続で、神道の調査も思うにまかせぬ事もあり、身も心も疲れ悩み苦しんでいた。

 勝本浦に着いた時は、身心共に疲労困憊の極に達し、中藤家を宿として病床に臥すことになった。

 当時勝本浦は風本(かざもと)と言い、壱岐島北部の良港で漁船の停泊地でもあり、又土肥鯨組の初期として浦中は大漁で賑わっていた。

 中藤家は、熊本藩主加藤家の末裔として、風本の中心地にあり、「重ね桝」という大きな鬼瓦が往来を見下す旧家の大きな海産物問屋であった。

 曽良は巡見使一行として、松浦藩からも叮重に取扱われ、中藤家二代目中藤五左衛門も妹等を看護につける等、手厚く看病に努めたが、高齢も手伝い、宝永七年(1710)五月二十二日、六十二歳を一期として、中藤家で静かに不帰の客となった。墓地は中藤家の菩提寺である三光寺(現在の能満寺)の一画に葬られた。

 墓碑の正面に「賢翁宗臣居士也」、その右に「宝永七庚刀天」、左側に「五月二十二日」と刻され、右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」としてある。曽良は臨終にのぞみ、故郷の住職より法名を頂いている旨の遺言があり、中藤家で遺言は守られたと伝えられている。墓碑は面碑五十一糎、墓碑の高さは百十五糎で三段に積まれている。

 法名の「賢翁」は芭蕉を言う約束ごとがあることから大変優れた俳人であることを意味し、「宗臣」の「宗」は分かれたものの本源を指すことから、徳川家から遣わされた役人であることを示し、「尉」は良民を安ずるの義であることから、官名として、巡見使一行としての尊敬を払ってつけられたものであろうと思われる。又「刀天」は「風軒随筆」に依れば寅の年を意味し、「宝永七年寅の年」という事になる。墓碑上部は長い年月のためか「賢」の字の上甲部が欠落している。

 側面に「岩波庄右衛門尉塔」と刻まれているところから、「塔」は「おがみ所」という意味のものであり、お墓でないとの説もあるが、古来勝本は墓石のことを石塔といっていることから、墓石であることは間違いない。

 昭和五十二年三月六日の壱岐日報の紙上と、昭和五十一年刊壱岐島俳句百二十九号に真鍋儀十氏は曽良の遺品について、

 「曽良死亡後、中藤家は松浦藩と相談して笈と頭陀袋、硯箱、印章、その他の遺品を江戸の奉行所に一旦送りつけたものを、更に幕府から信州諏訪の遺族に回送された所までは判っていたが、それから先がとんと掴めなかった。処が、筆者(真辺氏)は、先年天理図書館に調べ物があって、木村三四吾主事と話をしているうちに、この主事が筆者の長崎師範での一級上の穎原退蔵博士の愛弟子だという事が判り、ふとした事から曽良の遺品の笈も頭陀袋も、ここに蔵まっている事を突きとめた」と、遺品の写真まで添えて、発表されている。

 曽良に関する文献として最も大事なものは「奥の細道神名帳抄録」「奥の細道旅日記」「奥の細道名勝備忘録」「奥の細道俳諧書留」「近畿巡遊記」などがあるが、これらの資料は「河西本奥の細道」や曽良が旅で用いていた笈とともに八十年近くも曽良の母の生家の河西家に伝わっていた。寛政の頃(1789年〜1800年)河西家の遠縁に当たる勝森素へきの手に移り、それから久保島若人、助宣、松平志摩守、桑原深造、斉藤幾太、斉藤浩介などへ、転々と移り、偶々昭和十三年(1938)の夏、伊
東の斉藤家が虫干ししていた時これが発見され、昭和十八年
(1943)山本安三郎編書「奥の細道随行日記」として、東京の小川書房から発刊された。奇しくもこの日が芭蕉二百五十回忌、生誕三百年祭に当たるという。

 越えて昭和二十五年(1950)九月この資料は、当時の九大文学部教授の杉浦正一郎氏が斉藤家から譲り受けられた。教授がなくなられた後、昭和三十四年(1959)二月未亡人の手を放れて、天理図書館の所有するところとなり、曽良没後二百三十四年にして世に出たといわれている。

 諏訪史料叢書に依れば、諏訪の小平探一(俳号雪人)が明治四十二年(1909)十一月十一日、勝本浦で曽良二百年祭執行の折、勝本に招かれた時の話として次のように伝えている。
 「勝本浦は二度の大火で中藤家の町内は殆ど一物も残さず焼けてしまったから希望の文献や曽良関係の史料は何一つ残っていないという事であった。中藤家は其の土地の鯨問屋で、なかなかの資産家であったといわれているが、当時、六十歳位の老母から、家に伝わっている口伝えというものを聞くことが出来た。

 曽良が中藤家に落ちついた時は、京都の女流画歌人がいて看護した上、曽良の没後はその人に依って追善供養が営まれ、曽良の御墓は中藤家の墓地よりは一段と高い所に祀られたが、その歌人もまもなく没したので、曽良の御墓の附近に埋葬されたという。法名智峰妙恵信女(享保元年二月十五日)と知らされた。御墓所に参って検した所、諏訪の正願寺の御墓と殆ど同じであった。」と記されている。一説には、この歌人は曽良と二ケ年も同棲していた様に言われてもいるが、それは全々根拠のない物好きな人の風評に過ぎないものである。俗に言う一犬虚にほえて万犬実を伝うの類であろうと思われる。

 翌十二日勝本浦田の中町の原田嘉一(一峰又愛清と号す)が司会者となり、能満寺に雪人を迎えて曽良の供養をした後、席を改めて曽良追悼俳句会を開いた。出席者は次の方々であった。
 長島俊光
(二代)、殿川忠蔵(酒屋)、石橋笑山(酒屋)、原内ノ山(三代、元右衛門)等二十名余であった。

 現在能満寺には、永代供養のため雪人の自筆の信州諏訪湖東村阿心庵雪人の書付があり、原田大耕(四代元右衛門)宅には、雪人の次の書が蔵されている。

 

    時風吹来ぬ香椎潟潮干丹玉藻苅奈     雪人書

 

 小平雪人が、諏訪から中藤家を訪ねた時は、十一代の当主の中藤吉太郎氏は、朝鮮の慶州に居住していたので、勝本浦の留守宅は父の十代中藤芳三郎(当時六十六歳)と舎弟の中藤彦三郎(六十四歳)と同人妻の菊女(五十九歳)の三名であった。曽良の事を、雪人に話した老母とは、菊女であると思われる。

 去る日、私は、能満寺に坂口住職を尋ね、寺にある旧三光寺時代の過去帳を見せて頂いたが、徳川後期の過去帳が一冊あるだけで、私が調べたい、曽良や中藤家を記した徳川前期の過去帳は、明治初年三光寺から能満寺に移転の際、紛失したものか、能満寺には無い事がわかった。このことから能満寺の過去帳に、曽良の芳名が記載されていないのではなく、曽良時代の過去帳自体が紛失していたのである。

 尚曽良の画像に書き添えた軸物があるとも聞いていたが見当たらなかった。現有は殆ど明治以降の物ばかりである。

 そこで中藤家の系図により中藤家の墓地を引合調査した所、曽良の御墓の近くに観音像型の御墓が一基あり、この御墓が菊女から雪人が聞いたという女流画歌人智峰妙信信女の御墓ではないかと思ったが法名がないので、確認する事は出来なかった。

 又一説には、曽良は、諸国東導の役をしていたという事から、或いは壱岐対馬にも五山の僧の御供をして来た事があるのではないかと言われていたが、これを裏付ける資料もなかった。

 曽良の病中の女流画歌人の看護説も事実無根のようであり架空のロマンスに過ぎない。

 

 

(七)曽良の句碑  目次へ

 

 曽良の句碑「春にわれ乞食やめても筑紫かな」は、能満寺の裏山にある曽良の墓地から西側約二百米余にある、高さ九十米余の勝本城趾の南側に建立されている。

 芦辺町出身(在東京)の松阪直美氏の語るところに依れば、大正の末、民俗学者本山桂川氏が松永安左エ門氏から壱岐行きをすすめられ、離島の風俗伝説等を調査された折、郷ノ浦の白藻会の俳人の呼子無花果氏などの案内で各所を廻られ、勝本北斗句会原田謙蔵氏や湯ノ本湯ノ華会長長谷川竹亭(升七)外俳句同好の人達との交わりの中で句碑建立の話が起こり、書を本山桂川氏の先輩の塩谷鵜平氏に依頼して頂く事になったとの事である。

 句碑は城石を組み立てて建立し、額の高百三十二糎、横百糎、高さ二百二十五糎、である。

 本山氏と塩谷氏は同じ河東碧悟桐の門下にあり、本山氏は明治二十一年長崎市江戸町に生まれ、商業学校から早稲田大学の商科、途中政治経済科に転じたが在学中は民族学も研究された。

 大正元年(1912)大学を卒業後は、郷里の長崎商業会議所に勤務、戦後、金石文化研究所を起こし、金石碑に関しての研究では、造詣が深く三十数冊の著述があり、又全国の拓本が数千に及ぶという。

 城山公園の句碑を染筆された塩谷鵜平氏は名を熊蔵といい、明治十年(1877)五月岐阜県稲葉郡鏡色の生まれ、明治三十年東京専門学校(早大)政治経済科卒業、素封家で後、鏡島銀行頭取となった。俳句は子規についで、碧悟桐の新傾向運動に参加し、「海紅」の同人であり、また能書家であった。(昭和15年12月没) 当時壱岐の俳諧は仲々盛んで次の俳句会があった。

 勝本町北斗句会

原田謙蔵、 篠崎清泉(清吉)、殿川高雲(重吉)、原田大耕(元右衛門)、

池内達磨(一)、長島霞舟(俊光)、石橋一石(尚)、下条竹葉(徳衛)

 

 郷ノ浦白藻会
呼子無花果(丈太郎)、滝川雨九(敏)、山口草平(麻太郎)、目良歌比古(亀久)

 

 湯の華会(湯ノ本)
長谷川竹亭(竹七)、長谷川竿月(栄)、今西直来子(与一郎)、横山幽谷(蔦吉)、長山古城(国光)

 芦辺町土会
宮津葦水(隆)、西谷黙笑(洞林)、岩谷鈍牛(静夫)、中原雅清(雅千代)

 

曽良の句碑除幕式

 

 句碑は昭和九年三月勝本町の北斗会・湯ノ華会、白藻会(郷)、土会(芦)、等郡内の俳句同好会が全国の有名俳人から色紙短冊の寄贈を受けたり、また特志を受けて資金とし、勝本浦坂口町の石工、川上仲一(箱崎村江角)が工事一切を請負い、塩谷鵜平氏の書を城石に刻して、地元青年会の奉仕の下、城山公園の南側の地に建設された。

 昭和九年五月二十二日、曽良二百二十五回忌に当たり、次の方々の出席を得て除幕式が行われた。

 

 郷ノ浦白藻会

呼子無花果(丈太郎)、山口草平(麻太郎)、目良歌比古(亀久)、山川鳴風(胤美)、

 芦辺町 土 会

宮津葦水(隆)、岩谷鈍牛(静夫)

 

 石田町  筒

山川白萩(女)

 

 湯之本湯ノ華会

長谷川竹亭(竹七)、長谷川竿月(栄)、白川白峰(観世音住職)、横山幽谷(蔦吉)、長山古城(国光)、今西直来子(与一郎)

 

 勝本町 北斗会

篠崎清泉(清吉)、殿川高雲(重吉)、長島霞舟(俊光)、原田大耕(元右衛門)、

石橋一石(尚)、斉藤北汀(貞雄)、池内達磨(一・ハジメ)、下条竹葉(徳衛)、

田中雅眼(判屋寅松)

 他の参席者

吉野弘祐(聖母神社宮司)、中上良一(黒瀬青年会)、勝本税関長、桑田能満寺住職、川上仲一(石工)

 長嶋ツル女(二代俊光の令閨。中藤家三女)が除幕をして後、長谷川竹亭の挨拶があって一同乾杯をして式を終えて記念写真を撮り、能満寺本堂に会場をうつして追悼俳句会を催し盛会のうちに散会した。

 

 昭和九年二月本山桂川氏から曽良の句碑建立の発起者であった湯ノ華会長の長谷川竹亭(竹七)氏へ次の書簡が送られた。この書簡は遺言により能満寺に保管されている。

 

  月日は百代の過客にして行きかふ年も亦旅人なり。

  行く春や鳥啼き魚の目は泪

 

前途三千里の思い胸に抱き、遙かなる奥の細道の旅程に上った芭蕉翁が、杖と頼む同行の伴侶は、深川の草庵より従える曽良その人であった。曽良は日頃、芭蕉庵近くすまいして独居の師翁を慰め、薪水の労を助けていた。

 

   君火をたけ よき物見せん雪まるげ

 

 或る雪の夜、曽良に与えられた翁の句である。後に鹿島の月に随行したのも亦彼であった。

 此度の曽良は、師翁が羈旅の困難をいたはらんものと、旅立つ暁、髪を剃って、黒染にさまをかへ、俗名惣五郎を改め、宗悟とは名乗っていた。

 或いは黒髪山の霞に雪を仰ぎ、或いは青葉の奥に日光廟をおろがみ、或いは松島象潟の勝を探り、やがて羽越の国境をも踏み越え、日本海の波濤を聞いたのである。辛い苦しい四ケ月の旅を金沢まで来ると、遂に病に侵され、後事を北枝に託して暇を乞うた。

 

   ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原

 

 彼は哀別の一吟を師翁に奉り、淋しく膝下を離れなければならなかった。

 

『行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて、雲にまよふが如し』

 

と其時翁は記された。一日を距てて大聖寺城外金昌寺に来て見れば、其処には、前夜同じ寺に泊まった曽良が、再び師翁に残し置いた一句があった。

 

   よもすがら秋風聞くや裏の山

 

 既に別れては、又一夜のへだたりも、千里のへだたりに均しかった。

 後年、あこがれの筑紫に下り、玄界を航し、縁あって壱州の地に淹留するに至った事蹟は、尚未だ詳かならざるものがあるにしても、秋風春雨二百二十有五年、彼が俳魂は、辰の島、若宮、名烏の島影と、旧蹟城山の松籟に執着多き事であろう。

 今日しも、見よ、記念の句碑茲に成る。水も石も、木も土も、彼と共に甦きて、とこしへなる浦安き悦びに、かがやかしさを放っている。文華此上にいや深え、繁り増さむことを希う次第である。

 

   潮の香に五月は島の照り映えて

 

 昭和九年五月二十二日

               葛飾の眞間のほとり 本山桂川寄す

 湯の本  長谷川竹亭 殿                   

 

また能満寺に次の漢詩がある。

 

 台北大学教授久保天随氏詩

                 寺蔵

 

 能満寺即日

浪 花 湾 口 (ムラガル)

石 壁 接 沙 汀

シム 映 山 輝 (ウチ)

教 吾 雙 眼 青カラ

 

 河合曽良墓

 

桐 帽 j 鞋 了 風 縁

蕉 翁 門 下 一 才 賢

誰 知 絶 島 理ムルヲ 骨

春 露 秋 霜 二 百 年。

 

 


  (八)曽良翁二百五十年忌  目次へ

 

 昭和三十四年五月二十二日は曽良翁二百五十年忌に当たり追善供養が勤修された。

 当日は豪雨沛然たる中、壱岐支庁長谷口伝、勝本町長斉藤政平、壱岐郷土館長西川福雄の各氏を始め郡内の俳人七十余名能満寺本堂に参席された。当時の模様を記念誌『浪の音』誌上に「雨日記」として次のように記載されている。

 

 雨  日  記

 前日の二十一日に、第二会場の勝本小学校の講堂に、勝本の北斗会同人全員を主体として、郷ノ浦から西川郷土館長及び勝本町教育委員会事務局員等の方々で、全国有名俳人士から寄せられた、色紙短冊等の追悼句及び献句を中心に、郡内俳句並びに川柳を掲示、参考品も数十点展示し、さしも広い講堂を飾り尽くすことを得た。

 当日の二十二日は、未明より雷鳴を伴う文字通りの土砂降りで、遠方よりの参会者の有無を気遣ったが、島内各地よりぞくぞくと、風雨を冒して七十名からの参会者があり、婦人も十数名見えていた。

 第一会場でもある、能満寺本堂の式場で、定刻十時、撃析の音により一同着座し、山口社会教育主事の司会進行のもとに、能満寺住職を主座とし、神岳山寺住職並東光寺住職の補佐により、いとも荘厳に、曽良翁二百五十年忌の法要の読経がなされた。

 勤修の後、曽良顕彰会長殿川重吉氏の故人に捧ぐるの祭文に続き、壱岐支庁長谷口伝氏が、文学面其他に多大の功績貢献された故人を讃える長文の追悼の辞の後、勝本町長代理の豊坂文雄氏が是又故人を賞揚し、年忌に際し当時を偲び断腸の感ある旨、身に沁みる追悼文を霊前に読み上げられ、其の後に富安風生氏、星野立子氏等、全国的俳人有志二十数氏よりの追悼句の朗詠にひきつづき、東京都よりの真辺儀十氏、並びに上京中の勝本町長斉藤政平氏よりの丁重懇切な弔電を読み上げ披露を終えた。

 電文読み上げの後、中藤家当主外親族並に各種団体長及び参列者の順で焼香がなされた。

 次に祭主の曽良顕彰会長殿川重吉氏が経過報告を兼ねての謝辞があって、本堂での式を閉じた。尚降りしきる風雨をついて墓参がなされた。寺から五十米の所に墓があり、墓地は良く手入れが行届いていた。能満寺住職の読経の後参拝者がかわるがわる焼香し、心からの翁の冥福を祈った。

 二百五十年の永い年月の雨露に曝された苔の墓石は、鮮やかに喜びの色をたたえていた。

 法要の式と、墓参を済まして、参拝者は三々五々、第二会場の勝本小学校の新校舎で、来賓共々に、折詰弁当、外に「春にわれ」の染抜きのフキンと、菓子が配られ、昼食後は講堂に掲示された全国よりの真筆の玉吟を見覧、多大の感銘を与えていた。

 又、郡内俳句兼題「卯浪」と「新樹」並に川柳兼題「電話帳」と、「雨蛙」の互選に入り、披講もなされた。

 その後、曽良翁に造詣の深い、山口麻太郎氏と、山川胤美氏の講演がなされ、有益多彩な、且又意義深い曽良忌の祭典は、晴間を見せ始めた午後四時三十分に散会となった。

 

  法要式次第

一、開式の辞

二、読  経

三、祭  文 曽良顕彰会長

四、追 悼 文

   追悼のことば 壱岐支庁長

   追悼文    勝本町長

五、追悼句披露

六、弔電披露

七、焼  香

八、祭主挨拶 曽良顕彰会長

九、閉  式

十、墓参―第二会場勝本小学校講堂

  追悼玉詠並に献句

    二百五十冊 展覧

 

  祭  文

 

 本日茲に、郡内多数来賓各位の列席を得て、曽良顕彰会員一堂に集い、蕉門、河合曽良翁の二百五十年忌、追善供養の祭典を挙ぐるに当たりまして、うやうやしく追悼の誠を捧げます。

 翁は、宝永七年初夏巡国使の随員として、巡検の途上、当地中藤家の一室に於いて、五月二十二日病の為、無念にも六十二歳を一期として、永眠の途につかれました。星霜の流れ、いとも早く、ここに二百五十年忌を迎えるに到り、感慨無量なるものがあります。

 顧みますれば、元禄二年三月芭蕉に随行して、七ケ月に亘る奥州行脚の旅に出て、道々その専門的である神道学と地誌学の知識をもって、師の芭蕉の参考のためにと提供して、遂に文学史上不朽の名作といわれる「奥の細道」を世に送った蔭の功労者として、其の名声は、古今東西に高く、又神道学乃至は地誌学者としての高い教養を買われて、幕命による巡国使の随員に選ばれ、特に神社行政面の監察に大きな功績を残されました。其の人となりと、学問的の業績は大きく後の世まで評価されなければならないと信じます。

 

 春にわれ乞食やめても筑紫かな

 

 苔むす粗石に刻まれた「賢翁宗臣居士」の墓石は、数多遊子の旅愁を慰め、在りし日の面影を偲ばせます。

 ここに、ささやかながら、翁の二百五十年の忌の行事を修するに際し、心から翁の御冥福を祈り、香り高い、その業績を讃え、遺徳を顕彰せんとする次第です。
 招典の霊、こい願わくば微意を享けられんことを。

 

 昭和三十四年五月二十二日

       曽良顕彰会会長    殿川重吉  

 

 曽良翁の忌日五月二十二日には、毎年顕彰会員と郡内俳句同好者相集い、能満寺の本堂にて、平畑裏千家宗幸の供茶法要を営み、墓参の後、追悼俳句会を西川左生氏指導の下に開催、盛会の後散会している。現在の曽良顕彰会長は高田義敬氏である。

 

  (九)後 記  目次へ

 

          勝本町文化財調査委員長  原田元右衛門

 

 芭蕉翁のお伴をして「奥の細道」紀行に随行した曽良翁については、終焉の地である勝本浦で亡くなられている筈なのに、色々の説があるため、人々は、事の真偽がいづれであるかに迷っていられる事と思われる。

 そのため地元の勝本町としても、この儘放置することはできないので、文化財調査委員の立場上、人々の参考に供すべきと思い、関係の資料を集め、曽良の一生について伝記を作成した。

 曽良翁が亡くなられてから約二百七十年、宿舎であった中藤家も其の間二度の火災に会われたりして家財を失われ、又朝鮮へ移住される等して、そのため曽良翁関係の資料が失われたと思われてならない。

 お墓は勝本と諏訪との二ケ所にあるが、諏訪の方は、勝本のお墓をまねて建てられているのである。

 私は後日又筆をあらためて、曽良翁外伝を書き、皆様方の関心に答えたいと思っている。この書が皆様方の参考になれば幸いである。

 

   昭和五十八年十月一日

 

 

 

壱岐の風景へ     壱岐の人 曽良翁を語る