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壱岐の風景へ      壱岐の人 曽良翁を語る

 

 

なかがみ しこう 

中上史行翁

<著者略歴〉

1930 長崎県壱岐郡に生まれる。

    北朝鮮・平壌府立山手小学校・府立第一中学校。

    壱岐高校・東京学芸大学(社会学部・史学科)。

    東京都公立学校に勤務。

1963 長崎県にかえり、県内公立学校に勤務。

1990 社会科教育ならび郷土史研究の実績に対し、長崎

    県より「教育関係職員顕彰」をうける。

1991 勝本町立勝本小学校長を定年退職し、以後、長崎

    県文化財保護指導委員として活動する。

 

主要著書『壱岐国物語』 自費出版      1973

紀行』            1990

    『壱岐の風土と歴史自費出版  1995

 

『日本城郭大系』(共著)新人物往来社 1980

『勝本町漁業史』(共著)漁業協同組合 1980

『日本の創造力』(共著)NHK出版  1993

 

平成元年、曽良翁280回忌記念事業の一環として、記念誌『海鳴』が発行され、その時「まえがき」として掲載されたものが一編、著書『壱岐の風土と歴史』から「曽良の句碑」と題したものをが一編、壱岐市の『勝本趣味の散歩の会』で講演された「曽良の足跡について」の計三編を紹介します。

 



目次

曽良翁280回忌記念誌『海鳴』より「まえがき」

壱岐の風土と歴史』より「第15章曽良の句碑」

『勝本趣味の散歩の会』の講演会資料より曽良の足跡について」



 

 

 

曽良翁280回忌記念誌『海鳴』より

 

ま え が き

編集担当 中上史行 目次へ

 

はるかなる独り旅路の果てにして壱岐の夜寒に曽良は死にけり

(斉藤茂吉)

河合曽良は、宝永七年(1710)五月二十二日、壱岐国勝本浦において六十二歳の生涯を閉じたのである。元禄七年(1694)芭蕉も旅に病んだ。そして「夢は枯野をかけめぐる」と辞世の句を残して客死した。それから十六年後、曽良もまた玄界灘の孤島で客死するのである。

俳諧の深遠幽寂な境地をもとめて、「鹿島詣」「おくのほそ道」を共にした「乾坤無住、同行二人」。薪水の労をいとわず、文字どおり師弟一体に徹した二人が、共に未知の地で旅のさなかに果てたのである。

「私の想像のなかの曽良も、小柄で痩せて、手の指なども小枝のようであったかと思われる。……このため枯れ苔で、おおわれた墓石の前に立つと、曽良そのひとがそこに居るようにも思われた。……壱岐の土を踏んで死んだということで、なにごとか満足するところがあったのではないか。」

作家の司馬遼太郎の感想である。

曽良が没した勝本では、毎年、忌日には供養の営みを続けている。特に本年は「おくのほそ道」の旅から三百年の区切りを迎えることもあって、曽良翁二百八十回忌記念事業を積極的に展開している。

対馬海峡を望む勝本城跡には、「春にわれ乞食やめても筑紫かな」の句碑がある。また、能満寺の境内にある中藤家の墓地には、「曽良の墓」がある。実行委員会では、さらに新しい記念句碑をもう一基建てた。「行き行きて倒れ伏すとも萩の原」、山中温泉で曽良が腹を病みて、長い旅の苦楽を共にした芭蕉と別れる時の句である。病を抱きつつも、ひとり秋の野に道を求めて行こうとする哀惜の情と、悲壮感あふれたこの句を選定したのである。

曽良は温厚篤実な人物で、師である芭蕉によく尽くしたことは、「雪満呂気」句文や「おくのほそ道」の記述によって知られている。また、「曽良旅日記」の執筆者としても著名である。

この日記は、昭和十八年、山本六丁子(安三郎)という静岡県の俳人が発掘し、東京の小川書房から「曽良奥の細道随行日記」のタイトルで公刊した。この時から、芭蕉研究のバイブルとして脚光をあび、一気に曽良の存在がクローズアップされたのである。

その内容は(1)延喜式神名帳の抄録、(2)歌枕覚書(名勝備忘録)、(3)元禄二年の奥の細道の旅日記、(4)元禄四年の近畿巡遊の旅日記、(5)俳諧書留、(6)雑録、以上、六篇から成っている。

なかでも、奥の細道の旅日記は、曽良が旅中に、その日その日、また数日ためて書いたものと見られ、事実の記録として信頼度の高いものである。ところが、旅日記に記録された事実と、奥の細道にしるされている芭蕉等の行動・見聞するところが違っている個所が非常に多いのである。そこで「奥の細道における虚構」ということが、ここ数十年来の問題になっている。

「風雅の誠」を説いたといわれる芭蕉の紀行は、旅中の行動を全くありのままに記録したものと、かつては信じられていた。ところが、この旅日記が公刊されてから、紀行と旅日記との全篇にわたるくいちがいが発見され、人々は非常に驚いたのである。

この旅は、明らかに二人の間には、芭蕉が紀行文を書き、曽良が日記を書くという話し合いができていたらしく、奥の細道の計画は、曽良によって立案され、芭蕉はその計画を認めて行動を共にしたとも推察できるのである。

とにかく、曽良のように忠実に旅日記を書いている俳人は、他に例を知らない。これからも、時代がたてばたつほど、曽良の業績は大きな輝きをもって、人々の関心をよぶだろう。

 

本書は、奥の細道の旅から三百年、曽良翁二八〇回忌の年と、時宜を得た記念誌となりました。本書をまとめるに当たり、多くの方々のご協力と激励を受けました。それぞれ厚くお礼申し上げます。`

なかでも、親身になってご指導いただいた山本隆夫氏、福田靖氏、原田彰夫氏、鬼塚芳寿氏らには、ほんとうにお世話になりました。深く感謝いたします。

内容的には、さまざまな制約があって、不備な面が数多くありますが、読者の皆様方で補っていただければ幸いに思います。皆様方からのご意見、ご叱正をお待ちしています。

 

 

 

 

 

壱岐の風土と歴史』より

 

15章 曽良の句碑

 中上史行 目次へ

 

 曽良の句碑は、平成元年曽良翁の二百八十回忌記念事業として、勝本町城山公園に建てられました。

 

 行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原

 

 この句は、今から三百年余をさかのぽる元禄二年(1689)の秋、芭蕉と曽良の二大飯は、山中温泉(石川県江沼郡山中町)にたどりつきました。ところが曽良は腹を病んで、健康状態がよくありません。師である芭蕉にこれ以上の迷惑をかけられないとしばらく別れる決心をしたときの句です。

 師と別れて、病を抱きつつも、ひとり秋の野に道を求めて行こうとする孤独感と、悲壮感があふれています。芭蕉もこれに答えて「行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)の別れて雲をまよふがごとし、予もまた『今日よりや書付消さん笠の露』」と書いています。

 これまで、ひとときも離れたことのない二羽のケリ(チドリに似た鳥)が、別れ別れになって雲間をさまよう心もとなさだ。これまではかぶり笠に「同行二人」と書きつけての旅だったが、曽良がいなくなるのなら、折から笠についた露で、その文字を消してしまおうではないか。本当にさびしいことだ。という意味でしょう。

 このように、長い旅の苦楽を共にした二人ですが、師である芭蕉とはどんな人物だったのでしょう。

 

松尾芭蕉

 正保元年(1644)−元禄七年(1694)本名は宗房。身分のひくい武士の子として生まれ、伊賀国上野の侍大将の若君だった藤堂良忠につかえ、主人と共に俳諧を学んでいました。

 良忠の死後、藤堂家をはなれて京都にのぼり、北村季吟の弟子になって、貞門の俳諧を字びました。寛文十二年(1672)、江戸にでて、談林風の俳諧も研究し、深川に芭蕉庵を建ててすみ、この道につとめました。そして、蕉風とよばれる俳諧を、うちたてるようになりました。

 彼はそれまでの俳諧が、おかしさとか、こっけいみをねらっていたのに満足しないで、自然のもつ美しさや、静けさを、味わい深く表現しなければならないと考えました。このため、なにものにもわずらわされない、自由で、清らかな、深い心で自然にとけこもうとして、人生を一つの旅とみ、旅をまた人生とみました。

『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』『おくの細道』などの紀行は、彼の人間と文学をみがき高めていった記録です。

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 元禄七年(1694)十月十二日、大坂御堂前花屋仁右衛門方で息をひきとりました。五十一歳でした。

 

曽良の生い立ち

曽良は、慶安二年(1649)信州上諏訪(長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれました。姉一人、弟一人がいました。曽良は、生みの親には育てられず、母の生家である河西家にひきとられ、その後、伯母の生家である岩波家の養子となり、岩波庄右衛門正字と名のっています。

 曽良十二歳のとき、養父母(岩波家)が相ついでなくなったため、伯父である伊勢長島(三重県桑名郡)の大智院の住職である秀精法師にひきとられ、成人しました。この縁で、のちに伊勢長島藩に仕官し、藩主松平土佐守亮直につかえ、河合惣五郎と改名しています。河合性は、母の生家である河西家の旧称です。

 曽良が三十歳のとき、長島藩をやめて、江戸にのぼり、吉川惟足のところに入門しました。神道、国学、和歌、地理、歴史を学びました。吉川惟足という人は、吉田家奥義を伝授され、吉川神道を唱道し、天和二年(1682)幕府の神道方に汪じられました。

 

芭蕉と曽良

天和三年(1683)曽良三十五歳の夏、甲斐国の高山麋塒(びじ)宅に仮住まいをしていた芭蕉に会い、入門したといわれています。

 俳号の曽良は、「伊勢長島の地が、木曽川と長良川とにはさまれていたので、二つの川の曽と良をとり俳号にした」ということです。

 深川の芭蕉庵の近くに住む曽良は、師である芭蕉の毎日の生活の世話をするようになりました。曽良の風雅をしたう心情の深さ、純朴で誠実な人柄、学識の広さは、芭蕉もみとめるようになり、芭蕉と曽良との交流はますます深まっていったようです。

 貞享四年(1687)八月、芭蕉の鹿島もうでに、曽良は宗波とともに随行しました。冒頭の文に「鹿島の山の月見むと……ともなふ人ふたり、浪客の士ひとり、ひとりは水雲の僧……檜もて作れる笠をおのおのいだきよそひて」とあります。浪客の士が曽良で、三十九歳の秋です。

 

 そのときの句に、

 

 雨にねて 竹おきかへる 月見かな

 膝折るや かしこまり嶋く 鹿の声

 もも引きや 一花摺の 萩ころも

 花の秋 草にくひあく 野馬かな

 

 元禄二年(1689)三月二十七日、芭蕉の生涯で、最大の旅である奥の細道紀行に、曽良を同道しました。芭蕉四十六歳、曽良四十一歳でした。

 芭蕉は『奥の細道』のなかで、曽良を次のように紹介しています。

「曽良は河合氏にして、惣五郎といへり、芭蕉の下葉(芭蕉庵の近く)に軒をならべて、予が薪水(家事炊事)の労をたすく。このたび、松しま・象潟の眺共にせんことを悦び、かつは羈旅(きりょ・旅)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃りて墨染にさまを加え、惣五を改めて宗悟とす。よって黒髪山の句あり。衣更の二字、力ありてきこゆ。」

 

剃捨て 黒髪山に 衣更

 

曽良は、姿を僧形に改め、名も宗悟と改めての旅立ちでした。

このほか『奥の細道』には、次の句を残しています。

 

〈那須〉

 かさねとは、八重撫子(やえなでしこ)の 名成べし

 

〈白川の関〉

 仰の花を かざしに関の 晴着かな

 

〈松島〉

 松島や 鶴に身をかれ ほととぎす

 

〈平泉〉

 仰の花に 兼房みゆる 白毛かな

 

〈尾花沢〉

 蚕飼(こがい・養蚕)する 人は古代の すがた哉

 

〈月山〉

湯殿山 銭ふむ道の 泪かな

 

〈象潟〉

象潟や 料理何くふ 神祭

波こえぬ 契ありてや みさごの巣

 

〈山中〉

 行き行きて たふれ伏とも 萩の原

 

〈全昌寺〉

 終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山

 

 この『奥の細道』の旅で、曽良は、旅の行程や天気、立ち寄り先、各地で催した俳諧などを忠実に記録した「旅日記」をつけていました。

 この日記は、昭和十八年、山本六丁子(安三郎)という静岡県の俳人が発掘し、東京の小川書房から、『曽良奥の細道随行日記』のタイトルで公刊しました。このときから、芭蕉研究のバイブルとして脚光をあび、一気に曽良の存在がクローズアップされたのです。

 その内容は、(1)延喜式神名帳の抄録、(2)歌枕覚書(名勝備忘録)、(3)

元禄二年の奥の細道の旅日記、(4)元禄四年の近畿巡遊の旅日記、(5)俳諧書留、(6)雑録、以上、六百から成っています。

 なかでも、奥の細道の旅日記は、曽良が旅しながらその日その日、また数日ためて書いたものと見られ、事実の記録として信頼度の高いものです。ですから、この旅日記は、奥の細道の理解を深め、鑑賞をゆたかにするだけでなく、貴重な研究資料として評価をうけています。

 

 元禄二年八月、百五十日、旅程二千四百キロメートルにおよぶ大旅行

を終えた芭蕉と、大垣で再会した曽良は、ともに無事であったことを喜

びあいました。

 それから五年後の元禄七年(1694)、芭蕉は大阪で生涯を閉じました。

 その後、曽良は追善の旅に出て、膳所の義仲寺(滋賀県大津市)に建てられた墓にまいり、ありし日の芭蕉を思い出して涙ぐみました。

 

 拝み伏して くれないしぼる 汗拭ひ

 

巡見使の曽良

宝永六年(1709)一月、将軍徳川綱吉死去。五月、家宣が将軍に就任。十月、巡見使が発令されました。

 巡見使は、将軍の代替りごとに実施され、諸大名の政治のようす、産業、風俗、信仰などを調べて実態をつかむ一方で、幕府の威信を末端まで浸透させるねらいがありました。

 この巡見使の一員に、曽良が任命されたのです。おそらく吉川一門の推せんによって、地理学者として、神祇の精通者として高く評価されたのでしょう。

 視察予定地は、筑前、筑後、肥前、肥後、大隅、薩摩、日向、壱岐、対馬、五島で、三十五人で編成されました。

 

 ことし我 乞食やめても 筑紫かな

 

 この句には、季語をいれていません。曽良は俳人としてではなく、名も岩波庄右衛門にもどして、江戸を出発しています。宝永七年三月一日です。

 巡見使の一行は、大阪から海路をとり、筑前国若松(北九州市)に上陸。

 その後、福岡城下、呼子を経て五月七日、壱岐国郷ノ浦に上陸しました。ところが曽良は、壱岐で病気にかかり倒れてしまったのです。

 やはり、巡見使の任務はあまりにも忙しく、疲れたのでしょう。曽良は頑健なからだではないし、年令も六十二歳なので、いくら好きな旅とはいえ、無理だったのでしょう。

 病気で倒れた曽良は、壱岐の勝本浦で、巡見使の一行と別れました。そして、海産物問屋の中藤家で静養していましたが、五月二十二日、六十二歳でその生涯を終わりました。

 曽良の墓は、勝本の能満寺の近くの中藤家の墓地にあります。。

 墓碑の正面に「賢翁宗臣居士也」、その右に「宝永七庚刀天」、左側には「五月二十二日」と刻まれ、右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」とあります。

 "行き行きて倒れ伏すとも荻の原" この句の心境こそ、玄界灘の孤島で終えんを迎えた、曽良ならではのものだと思います。

 曽良の壱岐での具体的な活動の記録は残っていません。しかし、死後二百八十数年をすぎた今日でも、壱岐の人々は曽良を高く評価し、深い敬愛の情をもって、勝本港を見おろす丘の上にあるお墓を守っているのです。

 

 

 

 

 

━曽良の足跡について━

曽良に関する三つの謎

中上史行 目次へ

1、『奥の細道』と『曽良旅日記』の謎

 松尾芭蕉が、東北地方を旅したのは、元禄二年1689年)の旧暦三月終りから九月の初めである。『奥の細道』には、その間のことが記されている。それが刊行されたのは、彼の死後八年たった元禄十五年1702年)のことだった。

 ところが、『曽良旅日記』は、刊行後実に二百四十一年も過ぎた昭和十八年1943年)になって、芭蕉の旅に同行した日記が公表されたのである。

 この二つの日記を読んでみると、実に多くの点でくいちがっていることがわかる。

 まず、旅立ちの日がちがう。続いて、その夜の宿場の名がちがう。また、そのすぐあと旧暦四月一日に日光に参詣した宿もちがう。このほか、詳細に調べていくと、はっきりした相違があることに気がつく。

 

 これに関連して、村松友次氏は(東洋大学)

@    最初、芭蕉は東北の旅に、気に入り弟子路通を連れて行く予定だった。ところが、これが急に曽良に変わる。その変更の理由が不明で、外部からある力が働いた結果ではないかと思われる。

A    曽良は徳川家のどこかのポストについて神道を学んでいる。徳川家は全国の神社仏閣を統率したいと考えており、曽良にようすをさぐらせようとしたふしがある。

B    『旅日記』には、旅の記録や俳諧の書留以外に、神社仏閣のことがこまごまと出ている。また、非常に距離や方向をよく記録しているが、これは命令を受けたからではないか。

C    彼は、奥の細道旅行の二年後にも、徳川家の命令で、関西地方を旅している。

D    芭蕉と曽良が日光に参詣したのは、ちょうど伊達藩が日光東照宮を造営するときで、その莫大な費用のため、徳川家とトラブルを起こしそうになっていた。

E    そんな時期でもし、その上当時の日光は一定の資格がある者でなくては、出入りできない神域だった。にもかかわらず、『曽良旅日記』四月一日の項には、江戸の清水寺からあずかった手紙を、日光の養源院に届けたとあって、二人はスムーズに、お宮の中に通されている。これは、曽良がただの俳人として旅行していたのではことを、明らかに示している。

F    日記の六月二十八日をみると、曽良は越後村上藩に行き、翌二十九日には家老から百疋の金(現代の約17万円)が出ている。この藩、曽良がむかし仕えた伊勢の長島藩と深い関係があって、そこに彼がつながっていることがわかる。つまり、曽良は完全に自由の身ではなかったのではないか。これは芭蕉も同様とみていい。

G    こうした見方からして、曽良たちの旅の費用が、その筋からある程度出たことは、考えられよう。

 

 また松村氏は、『曽良旅日記』に二種類の暗号・記号があるという。

 それは、七回出現するの記号と、九回出現するの記号である。

 他には、末尾にみる壱五弐四、一二三五、十六四の暗号めいた数字である。

 上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿 壱五弐四

例えば

 

 

 これは、日光の上鉢石(かみはついし)町の五左衛門という者の所へ泊ったという記録である。

 末尾にみると暗号めいた数字は、今のところ見当がつかないが、については、村松氏はある推定をしている。結論からいうと、が二歩(一両の半分)が一両あろうと推定している。

 そして、これは曽良が芭蕉に渡した金であると考えられる。旅で、危険な大金は、曽良が持っていて、その都度小出しに芭蕉に渡していたと推論している。

『奥の細道』は、フィクション(虚構)の連続だが、天下の名文といわれ、『曽良旅日記』は、事実を記録したレポートである。

 

 

 

2、曽良の巡見使をめぐる謎

 奥の細道の旅をした五年後、芭蕉はこの世を去った。門人のなかでも、とくに師の信頼が厚かった曽良は、翁亡き後は失意の心境に陥った。

 元禄十三年1700年)、七回忌をすませたあとの曽良は、齢五十代をむかえ、当時「六十六部」とよばれた行脚僧となって、ひとり旅に徹した生活をしていた。

 しかし、とりまく世の中は動いていた。宝永六年1709年)、五代将軍綱吉の死去に伴い、将軍の代替りごとに行われてきた「巡見使」派遣が打ち出された。

 この年の十月二十七日、曽良が巡見使の一員に任命されたのである。

 六十一歳という高齢の曽良が、なぜ重大な任務をもつ巡見使に指名されたのだろうか。

 おそらく、吉川惟足の門下生で専門知識があり、しかも地誌、文学など博識の曽良には、報告書を書くにはうってつけの筆才があると思われたのであろう。吉川一門ら多くの推薦の手づるがあったものと思われる。

 ただちに検察の下準備開始の指示が出て、翌春の出発に備えている。

 食録の身になって、棒給も先渡しで出て、ふところ具合がゆったりしたのだろう。

   歳暮、金持になりて

 「千貫目 ねかせてせわし 年の暮」

と詠んでいる。巡見使の一員である曽良に、千貫目250両)の支度金及び旅費が支給されたのである。

 なぜ、このような大金が支給されたのだろうか。曽良に、数名ないし十数名の配下がついたのかも知れない。

 宝永七年1710年)春、曽良は幕府任命の巡見使として、九州へ渡る直前に、「ことし我 乞食やめても 筑紫かな」という句を、郷里諏訪へ送っている。地理学者として、神祇の精通者として、お国のために最後のご奉公をしましょうという気持ちもあったのだろう。

 この句には、季語をあえて入れていない。

 それはなぜだろうか。それは、曽良はもう俳人でなく、本名「岩波庄右衛門正字」にもどっての仕事だからである。

 

 

3、曽良の死をめぐる謎

 宝永七年1710年)五月、巡見使一行は、玄海灘に浮かぶ壱岐の島へ渡った。

 しかし、曽良はここで旅の疲れが出たのか、病床に臥し、ついに中藤家という民家の一隅で、息をひきとった。六十二歳であった。墓は、勝本の能満寺の近くの中藤家の墓地にある。

 ところが「曽良は、はたして壱岐で死んだのか」山口麻太郎氏の論文である。

 これによると、曽良の命日(宝永七年五月二十二日)から六年後の正徳六年四月二十八日に、群馬県の棒名神社の楼門のそばで、曽良と会ってゆっくり話をした人がいるというのである。

 会ったという人は、曽良の旧知で、親友の関祖衡と並河永の二人である。それは祖衡が書いた『伊香保道記』にある。ただし、これには曽良とは明記されてなく、ただ「二十年来の旧相識白髪の老翁」とあるだけである。

 つまり、三ヵ年も棒名山の岩窟にいる白髪の老人が、曽良ではないかというのである。

 もう一つは、「対馬墓所」の話である。対馬藩の藩士、中川延良の書いた『楽郊紀聞』という記録がある。これは安政五年1858年)から万延元年1860年)のことが書かれている全十三巻の記録で、その七巻目に

「俳諧師曽良が墓所、開山塔の傍らに、以酊庵従者の墓所ある処にあり、といひ伝へあれ共、文字もなくて、いずれとも知れがたし。ただ古く聞き伝へたり」

という一節があるというのである。

 「以酊庵」とは、曽良の死後二十二年経った享保十七年1722年)まで、対馬の厳原の日吉にあったものである。

 この資料を発見した須藤資隆氏は、「曽良の死後、対馬の俳友がこの地に供養の場をもうけた。」と推察している。

 

 

 

 

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