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壱岐の風景へ      壱岐の人 曽良翁を語る

 

 

山川鳴風(やまかわめいふう)

山川鳴風(本名は胤美)(明治36年10月11日生)は、壱岐市郷ノ浦町木田触出身で、小学校校長を務められ、退職後は文化活動等を通じて大きな功績を残されました。

没年、昭和52年11月8日。

 

 

河 合 曾 良

山川鳴風

  

 曽良は、慶安二年1649)高野七兵衛の長男として、信州上諏訪に生れた。曽良の両親は三人の子供をのこして早世(そうせい)、このため曽良は幼少の頃、母の生家河西家に養育され、幼名を与左衛門といい、伯母の家の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗った。

 万治三年十二才の時、養父母が相次いで亡くなったので伯父にあたる伊勢の長嶋大智院の住職秀精法師に引きとられて、ここで成人河合惣五郎と改名、伯父の世話で長嶋藩に仕えた。河合姓は河西家の旧性である。延宝四年二十八歳の時、藩の仕官を辞して江戸に出て吉川惟足に入門、ここで数年問、神道学を究めた。曽良が松尾芭蕉に入門深川の芭蕉庵(あん)近くに住んで、その日常生活を助けたのは三十六〜七歳の頃といわれている。

 吉川惟足は、当時幕命によって、江戸の本所に大きな邸宅を与えられ、高禄を受けて、日本の国家学(特に古田神道)を講述していた人で、曽良はここで相当長い期間、惟足について神道学を身につけ、後に中臣の祓(はらい)の主坐をつとむる資格を得た。邑蕉に従って、「奥の細道」の旅に立つ時も、沿道の社名や、祭神名を、延喜式神名脹から細かに書きぬいて、これを旅日記の巻頭に書きしるしていた。芭蕉に対して、沿道の史蹟や神社について、いろいろと進言したことは、細道の文中いたるところにうかがわれる。

 曽良は又、地誌学者としても、一家をなしていた。当時これも幕命によって、大岡越前守の支援のもとに、有名な『五畿内誌』を編集していた当時一流の地誌学者関祖衡は−祖衡の歿後は並河誠所−宗洛、近畿の実地踏査の経験をも、曽良の助言を受けながら、その大業を完成したといわれている。

 祖衡はのちに、曽良の筑紫への出発にあたって、長文の送別文を書き送って、その行を壮んにしている。曽良が壱岐に来たことについては、二〜三の説があるが、祖衡のこの送別文が、曽良の筑紫くだりを裏付ける唯一の文献である。

宝永六年1709年)幕府は全国に巡検使を出すこととなり、永井監物白弘を主任として、二筑、二肥、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬、五島の巡検区域が定められ、曽良は、その地誌学の素養を買われ、祖衡の推挙によって、その随員として参加、翌七年三月十五〜六日の頃、江戸を出発している。一行は、大阪川

口から乗船、瀬戸内海を西へ航して若松に上陸、福岡城下を経て、呼子から郷ノ浦に上陸して一泊、翌日勝本について又一泊−三月五〜六日の頃−その翌日対馬に渡り、二十日頃再び壱岐に引き返して、平戸、長崎を経て、のこりの巡検予定地を廻り、十一月に皈府(きふ・帰府)して上申している。

 せっかく巡検使の一行に加わって、あこがれの筑紫の国に足を踏み入れたものの、検察の公務は、あまりに激しすぎる重荷であり、それに細道文中にも見られる通り、あまり頑健(がんけん)でなかった曽良は、遂に病のために、公務遂行の途上一行に離れて、勝本浦の海産問屋、中藤家の一室で病を養っていたが病勢急変、遂に五月二十二日六十二歳の生涯を閉ぢた。墓は能満寺の城内、中藤家の墓地にあり、正面に

 

  賢 翁 宗 臣 居 士

 

    右側面に 江戸之住人岩波庄右衛門尉塔 とある。

 

 尉(じよう)は衛門府、兵衛府、検非違使などの官名。巡検使の仕事は、国々の実情を調査すると共に、幕府の威令を津々浦々に浸透させるのが目的で、行政、産業、風俗、信仰などの各般にわたって調査し、「公私の領地にをいて江戸の御政に異ることあれば尋問し皈府(きふ・帰府)の上聞え上ぐべし」とあって、きわめて厳格なものであり、平戸藩に於ても、殊更これを叮重皈府(ていちょう)に取扱ったことは言うまでもない。曽良に対して、尉の官名が贈られたこともその官職の高さを物語るものといえよう。

 能満寺の上、城山公園の松林の中にある句碑は、昭和九年の忌日にあたって、島の俳句団体の人たちの手によって建てられたもので、碑面の句は、江戸出発直前のもの、筑紫の国にあこがるる。

 

    春にわれ乞食やめても筑紫かな

 

の句を、岐阜の豪農俳人塩谷鵜平が執筆したものである。

 去る昭和三十四年の忌日にあたり、能満寺に於て、その二百五十回忌が行われ、追善集「浪の音」が刊行された。信州上諏訪、正願寺の域内高野家の墓地には、元文二年姪 周徳の建てた曽良の立派な墓がある。戒名はやはり「賢翁宗臣居士」で、五月二十二日の文字はハッキリ読みとることができる。

 

 

 

 

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