×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

壱岐の風景へ      壱岐の人 曽良翁を語る

 

 

 

やまぐち はくせん 

山口博千氏

壱岐市芦辺町の生まれで、教職員を退職後、ホームページ「壱岐巡り」を通じて、壱岐の歴史・文化・観光などを幅広く紹介されております。ホームページには、豊富に画像も使われていますので、見ていて楽しいです。

今回紹介する「曽良の句碑」は壱岐市の『勝本趣味の散歩の会』で講演されたもので、曽良翁の句碑にまつわるエピソードなどを語られています。





 

曾 良 の 句 碑

山口博千

 

 

春にわれ乞食やめても筑紫かな

 

 壱岐では、明治の中頃から大正にかけて、優れた俳人がおられ、勝本にも熱心な人達が句会を行っていました。その当時、句会を初音会と言っていたようです。

 

 明治41年、信濃の曽良の会より代表者が来られ、曽良二百年祭が行われ、当時の勝本の俳友初音会の方が全員参列されました。その時、曽良記念碑建立の計画が出ましたが、実現されませんでした。

 

 昭和8年、松永安左工門の委嘱をうけて、東京から本山桂川氏が壱岐に来られました。目的は、民俗調査ということで一ケ月余り滞在されました。桂川氏が俳人でしたから、勝本北斗会で氏を中心に句会が開かれました。(北斗会の前に、北星クラブが大正12年に創立されていますから、この頃、北斗会となっていたようです。)

 

 この時、再び曽良の句碑を建てようということになり、「春にわれ乞食やめても筑紫かな」を刻むことにして、字は桂川氏の韓旋で岐阜の俳誌『海紅』の同人・塩谷鵜平氏に依頼し、彫刻は当時勝本で墓石等を造っておられた、箱崎の川上仲一石工にお願いし、運搬や建立は勝本北斗会が中心になって進められました。

 

昭和9年5月22日、曽良の忌日に除幕式が行われています

 

 

 曾良は、巡見使の陪従になることを許されると、「ことしわれ乞食やめても筑紫かな」の句を作っています。

 芭蕉が世を去って、悶々の淋しい日々を送っていた曽良が、巡見使に推挙されたことは大きな悦びであったようです。

 「今年は、今までのような粗末な服装では旅行できないが、やっと念願の筑紫に行ける」という喜びに満ちた気持ちが表れています。

 遺品の中には笈があったようなので、帰りは笈を負うて托鉢姿で帰る予定だったようです。

 宝永6年11月に、随員を承諾した曽良は、収入のなかった時で、思わぬ旅費手当の臨時収入で、いつにないゆとりのある年趙しができるようになり、「千貫匁ねかせてせわし年の暮」と実感のこもった句をのこしています。

 又、歳旦の試筆には。「立初むる霞の空にまつぞおもう、ことしは花にいそぐ旅路を」と記しています。

 

 

 

行き行きてたふれ状すとも萩の原

 

 『元禄二年(1689年)旧暦秋、芭蕉、曾良の二人旅は石川県山中温泉にたどりついた。江戸深川出発以来百二十余日、行を共にした二人はここで別れることになる。長い道中も終わりに近づき、健康を害した曾良が師の足手まといになることを懼れた為である。

 別れの句を受けた芭蕉は、『行く者の悲しみ、残る者の(うら)み、隻鳧(けり)の別れて雲に迷ふがごとし』と『奥の細道』に綴っている。

    芭蕉の笠には、『乾坤無住同行二人』と書かれていた。

 

      曾良翁二百八十年忌記念事業実行委員会

           平成元年五月二十二日建立

 

 平成元年5月22日、「曽良忌280年祭」が、曽良の出生地信州より、諏訪市長始め、各界代表190名の墓参団が来島され、盛大な記念大法要が営まれ、墓所の側には、「曽良二百八十忌記念碑」の建立や植樹等がなされ、なお、城山公園東入口には、新しく「記念句碑」が設けられました。

 句碑には、『ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の原』の句が刻まれています。

 

 元禄2年6月27日、二人は野山に月日を重ね夜に入ってから、石川県の山中温泉に辿り着いたのですが、ここで腹痛に苦しみ、芭蕉の足手まといになることを心配した曽良は、芭蕉と別れて、伯父の秀精法師を頼るのですが、その折の「曽良の別れの句」です。

 

 これに対し、芭蕉は、「今よりは書付け消さん笠の露」の句を残しています。芭蕉の笠には、『乾坤無住同行二人』と書かれていたので、この同行の字を曽良と別れるために、消さねばならないと悲しんでいます。

 

 「行く者の悲しみ、残る者のうらみ、二羽のケリのわかれて、雲に迷うが如し」と奥の細道に記しています。今日から一人旅になるので、笠に記している「同行二人」の文字を、笠に降りる露で消してしまおう、という師弟の情の濃さが表されています。

 

 

 

 

曾良の句碑「春にわれ・・・」の建立に貢献された方です。

 

本山桂川・塩谷鵜平

 

本 山 桂 川(もとやまけいせん)

 

桂川氏の孫・一城氏より便り

「祖父が昭和36年に出した【芭蕉名碑】に次のようにあります。

 壱岐・勝本城山公園曾良句碑(塩谷鵜平筆)

 (前後略)当時わたしは地元世話人たちに頼まれ、俳紙『海紅』

 の同人であった岐阜の故塩谷鵜平氏に揮毫してもらった。」

 

        本山桂川氏の略年譜

 

・明治21年(1888)長崎市江戸町にて誕生

・明治40年(190719歳 市立長崎商業学校卒業

・大正元年 (191224歳 早稲田大学卒業

・大正 4年(191527歳 長崎商業会議所勤務。結婚。

・大正 9年(192032歳 「土の鈴」創刊

・大正11年(192234歳 上京

・大正15年(192638歳 閑話叢書編集 南方熊楠著『南方閑話』刊行

・昭和 2年(192739歳 日本民俗叢書(磯部甲陽堂)を編集刊行

・昭和 3年(192840歳 日本民俗研究会の名称で、民族研究・民族資料

              叢書の刊行を開始

・昭和 8年(193345歳 信仰民俗誌と海島民俗誌を隔月刊で刊行開始

・昭和17年(194254歳 『日本民俗図誌』の刊行開始

・昭和20年(194557歳 空襲で罹災、全てを焼失

・昭和25年(195062歳 金石文化研究所の名称で、金石文化の研究を創刊

・昭和49年(197486歳 永眠

 ※(民俗学者としての業績を、小泉みち子「本山桂川−その生涯と書誌」より抜粋)

 

 本山桂川氏の「壱岐に関する論文」

 

◆「壱岐に於ける神功皇后伝説の分布」

 (『旅と伝説』・昭和8年11月号)

 

 ※『壱岐の風土と歴史』(中上史行蓑・1995年)に、中上氏が上記の論文を

 転載されていますので、壱岐の「神功や后伝説」についての研究では、これ

 以上のものはないものと思われます。

 

◆『壱岐島民間信仰』(本山桂川編・日本民俗研究会版・昭和9年4月)

   ・壱岐の神社と祭礼  本山桂川

   ・壱岐の祇園祭    呼子一之

   ・壱岐島正月行事   目良亀久

   ・壱岐の幸木     呼子一之

   ・まぶりがき     大野大選

   ・壱岐の神々     本山桂川

   ・壱岐島石神図稿   本山桂川

   ・壱岐国大神楽歌詞  山口麻太郎

        ※壱岐郷土館所蔵(市山等館長より許諾)

        ※幸木(さいはぎ、スェーワギ)

        ※まぶりがき(マブリカキ、セチ)

 

◆「壱岐の神社と祭事」

   (『旅と伝説』・昭和9年4月号)

  …「熊野神社参詣記」(壱岐郡勝本町立石南触)があります。

    (桂川氏のホームページに掲載してあります。)

 

◆「船祭神事の瞥見一祭礼民俗誌一節−」

   (『旅と伝説』第百号記念特輯・昭和11年4月1日)

  …(十九)「長崎県壱岐郡石田村字箇城には郷社白沙ハ幡宮が祀られてある。

    壱岐七社の一で、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三柱を祭神とする。

    其十一月十五日の祭礼には、三部落から選み出される担輿丁数十名、

    三台の御輿を担ぎ、汀際の浜殿(御旅所)に駆け下る勇ましい浜下り

    の神事が 行われる。」

 

※『旅と伝説』は、「まなびの館」(芦辺町雛鳥開発センター側)の図書室所蔵

 

 

   本山桂川氏と山□麻太郎・目良亀久両氏の交友

 

 ◆「日本民俗図誌」の復刻を喜ぴて  山口麻太郎

 

 本山さんは柳田民俗学創立当初の一闘士であり、地方開拓者の一人でもあったということになろう。

 「土の鈴」は写真いりの活字雑誌であったが、他にガリ版図入りの本も幾つか出ている。「民俗図誌」の予備作業のようなこともされた。「土の鈴」の後千葉に移られたが、それからも民俗資料の刊行は続けられた。

 壱岐に来られたのは昭和八・九年の頃だったかと思う。一か月間滞在されたので、句会や民俗採集などに親し<御厚誼をいただ

いた。「ガリ版でからだをくずしてしまった」とも述懐された。」

 昭和十六年から東京堂の「日本民俗図誌」が始まった。戦火益々激甚を加える中で、十九年十一月までに十八冊を刊了して、第九冊産育篇、第十冊葬祭篇の二冊を残すのみで、十八冊はみごとに世に出たのである。

 晩年は石碑の研究に転ぜられて、「万葉百碑」「旅と郷土の文学碑」「古典文学碑」等も出版された。

 何と云っても本書は図誌であることが第一の特色である。一線一線を自分で納得して描かれたものである。見やすくして確実さがあり理解しやすい。写真では出せぬ良さがある。

 地域民俗誌・地方民俗誌を了えて、やがて日本民俗誌を書かれねばならぬ。明治・大正の郷土資料は貴重である。しかも本書は戦争中の出版で刊行部数が少なく、今日では徒に古書の価格が高く、且つ入手が困難である。この時に当って村出書店では万難を排してこの復刻を遂行されるという。学を念とするものの喜びは謝するに言葉がない。

 

※これは、本山翁の歿後の昭和52年に復刻本『日本民俗誌』が出される時、山口翁が一巻の序文として書かれたものです。山口翁は86歳でした。なお、この序文は復刻のチラシ広告の「推薦のことば」としても引用されました。

(本山一城氏提供資料より)

 

 

   ◆「土の鈴」復刻の経緯   村田書店店主

 

 「土の鈴」の存在を聞かされたのは、確か「日本民俗図誌」の推薦文を壱岐の山口麻太郎先生にお願いした折であった。

 御高承の如く山口先生は長崎県壱岐島の民俗学の神様みたいな方で当然長崎県内で會て発行された「土の鈴」については良く御承知であった。特に生前の本山桂川翁とは若い時より知己の間柄であり、「民俗図誌」の推薦文を書くに当っても「本山さんの代表的な業績だから」とわざわざ海路を長崎県立図書館まで八十六歳の身を運ばれ再度桂川翁を調べられた由であった。

 「土の鈴」に関しては現今八十歳以上の方でないと知らない。特に、百名足らずの会員にのみ配布され、図書館の寄贈等も全く行われていなかったので、雑誌という非保存性の性格から全巻を架蔵している人はまず少ない稀覯誌の類である。

 桂川翁がその生涯御自身でガリ版をきられ多くの自家出版をされた事は有名である。しかし、「土の鈴」は御覧の如く立派な活版印刷である。しかも口絵にロゴタイプや多色版まで挿した堂々たる本格誌である。

 本山桂川二十八歳、日本民俗学草創期にしかも研究者として白面の時代に長崎ちという隔地で全国に令を発し得たという事は驚嘆の他はない。しかしその経済的負担は過酷であり、その救済法として始められた郷土玩具店「あいらしや児童百貨店」も短命に終り、当然「土の鈴」も幕を降ろした。

 その「土の鈴」発刊当時より六十年近くの歳月が流れた。内容的にも当時の事である。印刷所の誤植や校正ミスも多々あった。しかし有難い事には珍しく全巻の半激以上に正誤表が残されていたのでその修正を行うと共に、他の部分についても出来る限りの悪活字・誤植を正した。(昭和54年) 

 

                      (本山一城氏提供資料より)

 

 

     ◆「壱岐の神社と祭礼」の付言(本山桂川氏)

 「壱岐の神社と祭礼」に就いては、尚書洩らしたこともあるし、また、未詳な事項も多い。それらの詳細は、あの地の山口氏や目良氏の調査に期待した方が正確であり、又賢明でもあろうと思っている。壱岐郷土研究所の活躍を切望する次第である。

                  (壱岐郷土館所蔵、目良亀久文庫より)

 

 

 ◆本山桂川氏より目良亀久氏への書簡

 

・はがき 7通(壱岐郷土館所蔵 目良亀久文庫より)

 

・昭和9年4月21日発信より抜粋

 「曾良碑の揮毫も出来たよし、私もやっと安堵しました。

 〆切までには間違いなく走句するつもりです。」

 

 ・昭和9年6月4日発信より抜粋

 「呼子さんに曾良建碑の記事をたのんでゐるのですが、まだ

 来ません。創刊に間に合わないのぢやないかと気づかってゐ

 ます。」

 

   塩 谷 鵜 平(しおのやうへい)

 

●1877年(明治10年)5月30日生

 1940年(昭和15年)12月8日没

 

●俳人・本名は熊蔵、後年宇平・初号は華円

●岐阜県鏡島村江崎192番地(現岐阜市江崎町192番地)

 の地主に生れる。

●自由律俳句の作者

 

    塩谷鵜平氏の文学碑

 

●岐阜市御手洗町 「JR長良荘」前の公園

  「正史にはさありとも雁の涙おつ」

 

● 同 江崎町   塩谷氏宅庭内

  「曼珠沙華いよいよ長良川のいろ」

 

● 同 北方町   桑原氏

  「山かげりきっこの鮎が淵」

 

 

壱岐の風景へ      壱岐の人 曽良翁を語る