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壱岐名勝図誌巻之二十三@    現代語訳・松崎靖男

壱岐郡可須村(かすむら)(あわ)せて勝本浦(壱岐市勝本町勝本地区)

 

田の広さは542411(約733.4m真四角)

取れ高は987319

 

新しい田の広さは5322(約73.0m真四角)

取れ高は387

 

畑の広さは60820(約771.9m真四角)

取れ高は46765

 

新しい畑の広さは7525(約264.6m真四角)

取れ高は23647

 

田畑は古いものや新しいものを合せて、

広さが1219218(約1,099.6m真四角)

取れ高は、1481551

 

神社は47社あり、その内の1社は小社

仏閣は、数値の記載なし。

 

戸数は560戸で、勝本浦の戸数は後で出す。

 

人口は2,594人で、その内に男は1,373人、同じく女は1,221人。

 

 牛は576匹、馬は1

 

堤は七ケ所あり。

 

 

 

当村は可須(かす)・風早(かざはや)の二郷に属し、街道より東は可須郷、

同じく西は風早郷なり。東は新庄との境である葛籠原(つづらばる)から、西

は本宮との境である柄杓江(ひしゃくごう)までの3.3Kmばかりで、南は新庄

との境である目ハシ山から、北は田ノ浦までの1.6Kmばかりです。

 

周囲は東に新庄との境である白根(しらね)の出崎より舞峯原(まいみねば

る)の札の辻まで223m、それより立石久保まで390m、それより灯ロウ辻の三

差路(新庄との境に標識あり)まで300m、それより入船の南の札の辻まで300

m、それより葛龍原(つづらばる)を経て田地(つづら田の角)まで270mです。

 

それより田地を経て川の土堰(どせき)まで80m、それより川筋(葛籠川・

真米川)の落ち合う所まで40m、それより又田地を経て引野の端まで175m、

それより同じく野路を50m、(野中に境を示す標識あり)それより舟田川の端ま

115mです。

 

さらに、それより川筋に70m、それより又 とふらむ(とうらん)田に20m、

それより又川筋に、へら 河の渡しまで45m、それより不孝川の落ち合う所まで

95m、それより又川筋に115mです。

 

それより於呂布留(おろふる)街道の三差路まで475m、それより道筋の六地

蔵下の分かれ道まで220m、それより往来に135m、それより鎌田原を経て小水

の大石にまで280m、それより皆越(みなごえ)の田頭まで115mです。

 

それより皆越の堤の水吐き場まで70m、それより新庄・本宮・可須の三村の

境である神通峠(じんつうとうげ)まで340m、それより長尾原の大石まで490

m、それより椿田まで445m、それより松田川の渡しまで40mです。

 

それより川筋の人道川(じんどうがわ)の渡しまで175m、それより注連降川

(しめおろしがわ)の渡しまで285m、それより蟹川の水神の祭場まで290m、

以上が陸地で合わせて5.6Kmになる。

 

 

 

海岸の測量値

 

柄杓江(ひしゃくごう)から東へ順番に600m行くと勝手口があり、別名クビリ

ノ口と言う。

たむそ(たんす)浜は890mあり、別名を浜田と言う。

中瀬浜(なかんせはま)は20mで、大平浜は220mある。

 

勝利浜(しょうりはま)は145mあり、トンノ浦は345°(亥子)の向き

145mある。

赤滝下は90mで烏帽子瀬があり、御棚浜(おんたなはま)は405mで三瀬(み

つぜ)がある。

馬場崎は別名を磯崎(いそんさき)と言い325mあり、叶瀬(かのうぜ)・北国

瀬がある。

 

宮後浜(みやんうしろんはま)は55mで甑小島(こしきこじま)があり、裾崎

(すそざき)は別名を経崎(きょうざき)と言い90mある。

中折浜(なかおりんはま)は240mあり、聖母浦(しょうもうら)は245mある。

川尻は30mで、鹿の下125mある。

寺崎は旧名を可須崎と言い、篝屋(かがりや)は別名を荒神町、又は瀬崎と言う。

 

黒瀬町があり、次に田中町は240mで沖瀬がある。

本浦があり、次に新町は325mある。

御旅町(おたびちょう)は285°(酉戌)の向きに165mあり、

下崎は20mある。

てうの 崎(町の先)は75mあり、赤岩は75mある。

 

田ノ浦は旧名を浜田と言い、330°()の向きに690mあり、塩屋浦は

北向きに91mある。

藪田浦(やぶたうら)は30°()の向きに120mあり、

田尻浦は北(子)の向きに375mある。

天ヶ原の内浜は390mあり、一ノ和田は165°(巳午)の向きに

273mあります。

 

二ノ和田は165°(巳午)の向きに205mあり、くさりが浦は南向きに165mある。

長洋は490mで鵜瀬(うのせ)があり、内久津呂支浜(うちくつろきはま)は

275mある。

外久津呂支浜(そとくつろきはま)は275mで、寝島・塒瀬・雷瀬がある。

 

馬捨場(うますてば)は180mあり、口細浦(くちほそうら)は

北西(丑寅)の向きに345mある。

とうたが城浜は315°(戌亥)の向きに165mあり、猿浦は

285°(酉戌)の向きに290mある。

海松目浦(みるめうら)は西向きで1,070mあり、島こほうが浜は55mで中曽

根がある。

 

博多迫門浜(はかたせとのはま)は365mで亀瀬があり、土器崎は別名をこうご

崎と言い775mある。

黒滝浜は185mあり、天ヶ原浜(あまがはらのはま)は500mある。

池尻があり、無田頭(むたがしら)の堤尻は200mある。

 

田尻は165mで北曽根や六郎五郎瀬があり、四見滝(しけんたき)は220mで長

瀬がある。

白根浜は別名を小山尻と言い800mある。

以上が海辺で13.3Kmになる。

 

 

 

海岸線と陸の境界線を合わせたら約19Kmになる。山林や川や海は備わってい

て、薪(たきぎ)の材料が足りないと言うことはない。海産物が多く田んぼは

肥沃である。

 

郡鑑(ぐんかがみ)に云います、可須村は南向きで、村の地は狭く土地の肥

え具合は中で、北西の風が当り、米・大豆・辛子・大麦の出来具合は中で、小

麦・小豆・栗・稗・蕎麦・麻・木綿の出来具合は下と言う。

村を可須と名付けた故は、筑前粕屋郡の糟の字に旧仮名遣いをあてて可須と

云うなり。当村は元禄年間(1688年〜1703年)までは香椎と称していた。

その香推と名付けた故は、大昔に仲哀天皇が亡くなられた時、神功皇后が武

宿禰大臣と相談して、密かに筑前国糟屋郡の橿日(かしひ)の芦原木下(あ

しはらのきのした)に仮安置して、その亡骸(なきがら)を棺に収めて椎木(し

いのき)に掛置たれば、其の良い香りが遠く四方に薫りました。

故にその椎を香椎と名付け、また橿日宮(かしひぐう)を改めて香椎宮(か

しいぐう)と称しました。

且つ皇后が亡くなった後、その御霊(みたま)をまつって香椎大明神と言い

ました。

また当村も皇后が鎮坐(ちんざ)された地である故に、本所の名をとって名

としました。或いは云います、香須聖母大明神は筑前国香椎宮と同体なり。

 

香椎宮記に云います、天皇の亡骸(なきがら)を棺に収め、しばらく椎木に

掛置たれば、良い香りが薫りわたり、その椎を名付けて香椎と言いました。

その木が枯れる時に実を植えて、今も棺掛(かんがかり)の木と名付けて壇

(だん)を築き、瑞垣(ずいがき)を結び廻らし霊廟(れいびょう)の辺にあ

りと云々。

 

筑前早鑑(はやかがみ)に云います、社家の説として云い伝わるに、この時、

仲哀天皇の亡骸(なきがら)を収めた御棺(おかん)を、しばらく椎木に掛置

ければ、良い香りが四方に薫る。これによって所の名をも香椎と云う。

かの棺の木は今も御社(おやしろ)の東にあり。神木と称し、周りに石垣を

築き結び廻せり(きづきむすびめぐらせリ。)。

この木は誠に古木のように見えます。されども其の時の椎木ではなく。むか

しの種を植えて今に伝へている。

 

筑前名寄(なよせ)に云います、香椎の北宮は神功皇后の御社なり。故に神

功皇后の御事(おんこと)を香椎大明神と申し奉る(たてまつる)。

仲哀天皇が此所(ここ)にて亡くなられ給へり。其の御棺(おかん)を椎木

にかけたら、良い香りが薫り渡って、香椎と言える理由なり云々。

 

(阿志比=古事記、橿日=日本書紀、借飯=三代実録、香椎=続日本紀・拾芥抄

・扶桑略記)

 

 

 吉野秀正(箱崎八幡宮の宮司で、続壱岐風土記を書いた人)の説に虚船老人

が上古には粕井と云っていたとあります。

壱岐の今の通説では筆をとるものは必ず可須と云い、筆をとらざるものは必

ず粕井と云う。故に筆をとるものは、筆をとらざるものを笑いて云う、可須を

粕井と云うは、文字を知らざる誤り也と。

だから私は今の通説に侫(おもねる)ことなく、虚船老人の説を得て、自然

伝来の古語が、庶民に遺(のこ)れることを知る。

此のような類(たぐい)は、他に無いわけではない。筑前に周禅寺村あり。

当国に印通寺浦あり。然るに文字を学ぶ者は、必ずしゅせん・いんつうじと言

う。されども、周防はしゅと訓(くん)して、す と読む。

又いとおしは、文字では射通なり。是等(これら)の類、皆文字によって古

実を失う媒(なかだち)たり。

ただ今の通説に侫(おもねる)ことなく、伝来の古語を用いて万世に残さん

事を欲するのみ。(以上は続壱岐風土記の文)

 

私が(後藤正恒・壱岐名勝図誌の著者)調べるに、吉野秀正の説は粕井(カ

)を香椎(カシ)の意味と言っているが、ヒとヰとは仮名が違う。

和名抄(わみょうしょう)に、筑前糟屋郡香椎(カシ)・加須比(カス

とあれば、此所(ここ)のは同じです。カシとカスは音(おん)が通(か

よ)へり。

今は可須と言えるも、カスヒのヒを略(はぶ)けるもの為るべし。海東諸国

記に、加愁郷とあり。

 

 

 

今に称する所の里の名

 

 坂本  笹栗  西戸  平原  笹原

 

庄屋は195°(午未)向きで、村の中ほど建っている。

 

黄金(こがね)山大明神は、大石山に在り。

石祠(いしほこら)は240°()向きで、聖母宮に准じると云い、本

社(聖母宮)を南に去ること870mに可(あり)。

  社の傍(そば)に大松一株あり。株の大さは4.7mあり、枝葉が茂れる。

 

矢保左祠(やほさほこら)は大石山に在り。

  境内の広さは東西・南北ともに13.5mです。

 

 

大神宮は西戸に在り。本社を南に去ること820mに可(あり)。

  御殿は南西(未申)の向きで、梁(はり)は2m・桁(けた)は2.6mで、

屋根は板葺きです。

  廊下は1.8m四方で、屋根は瓦葺きです。

  拝殿は梁が3.6m・桁が5.5mで、屋根は瓦葺きです。

  稲荷祠は、境内に在ります。

  石祠は165°(巳午)向きで、元禄年間(1688年〜1703年)に祭った

所也。

  庚申神

  石鳥居は、享保15年(1730年)8月に造立(ぞうりゅう)する。

  境内は東西55m・南北47mで、周囲は190mです。

  寄畠(よりはた)は14m四方です。

 

当社は新社帳に、西戸の伊勢大神宮で、寛文三年(1663年)に村中より勧請

して、小社の拝殿あり、例祭は1116日、としるす所なり。

 

 

阿弥陀堂は石原に在り。   堂主は東光寺です。

  本尊は坐像で、長さは28cmです。

  堂は195°(午未)向きで梁は1.8m・桁2.7

境内は縦13m・横8mです。

  寄畠は役10m四方です。

 

弁財天祠は西戸の峰畠に在り。

  小祠は南東()向きで、本社(聖母宮)を南に去ること765mに可(あ

り)。

  山は東西7.2m・南北5.8mです。

 

矢保左祠西戸の西屋敷に在り。

  石祠は南向きです。

  山は東西29m・南北58mです。

 

 伝えて云う、当社は大昔に新城村より遷座(せんざ)したと云々。

 

 

多門堂は西戸に在り。   堂主は東光寺です。

  本尊は立像で、長さは56cmです。

  堂は南向きで、3.6m四方あり、屋根は茅葺(かやぶき)です。

境内は縦15m・横11mです。

 

七幸神は西戸の屋敷に在り。

 

天神社は同所に在り。

 御殿は195°(午未)向きで、本社(聖母宮)を南に去ること765mに可(あり)

 拝殿は上屋(うわや)を兼ね、梁1.8m・桁2.7mで、屋根は茅葺きです。

 境内は、東25m・西18m・南65m・北43mです。

 

地ノ神は境内に在り。

 

 

 

於呂布留原(おろふるばる)

 

 此の原は、43は新城に属す。今可須村に属する所、縦440m、横220mばか

り、山林及びに民家、其中にあり。

西行法師の、「おろふる雪に袖ハぬるらめ」、と読めるは此所なるべし。なお

新庄の部と合せてみるべし。

 

於呂布留堤は西戸に属する。

 此の堤は、縦47m、横35m水が溜まらざる故に隍(ほり・空堀)と云える。

 

池神は於呂布留池に在り。

 石祠は北東()向きです。

 昔の池は、風土記には東西30m・南北58mとしるす所なれも、いま僅(わずか)

になれり。近世に畠などに埋め立てたからです。

 

天神は於奈加多(おなかた)に在り

 石祠は北東()向きです。

 

 

 

水石は満石とも云う。西戸水石山に属す。

 

 山中に大石が三つ重なっていて一つの石のようだ。又、道傍(みちそば)に

一つの石がある。東西2.7m・南北3.6m・周囲9.7m・高さ1.8mあって、其の頂

(いただき)に七つの池がある。

 其中に大きいものは東西43cm・南北45cm・深さ27cmあり、常に水が溜って

いる。小さいものは名前だけだと云う。

伝えて云う、此の石の上の池は、大雨にも増えることなく、旱魃(かんばつ)

にも減ることはない。朝に干(ほ)せば夕に満(みつる)と。又云う、

海の潮の干満に従って増減すると云う。

 

 吉野秀正(箱崎八幡宮の宮司で、続壱岐風土記を書いた人)は云う、是は陰

石なるべし。括異志(宋の張師正・著)に云う、夷陵(いりょう・中国の地名)

に陰陽石あり、陰石は常に湿り、陽石は常に乾く。

 旱(ひでり)がすれば即ち陰石を鞭打ち、雨が降れば即ち陽石を鞭打つ。相

(あい)打てば即ち水が潤う。

宋の名臣言行録に云う、孫甫之翰という人の許に、ある者が硯(すずり)を

持って来て、此の硯はおのずから水が出る。価は三十文と云うと、孫甫は答え

て一担(いったん・一人が担ぐ量)の水でも、すなわち僅(わずか)に三銭な

のに、是を買って何になろうかと記せり。

ある人の説に、土佐国足摺明神の社内に潮石という石がある。此の石は、潮

の満干に随いて水が出ると言う。

是等の説を真似て、考えたのであろう。

 

 

 

医王山三光寺は勝本浦の坂に在り。

 

 本尊は薬師如来の座像で、長さ35cmです。脇士は日光・月光の両童子の各立

像で、長さ20cmです。十二神将は各20cmです。安阿弥作と言う。大権は長さ

40cmで、達磨は長さ45cmです。

 

客殿は癸丑(みずのとうし)の間に向く。梁は8.2m・桁は12mの瓦葺きです。

癸丑(みずのとうし・年代を現す言葉で方向は不明)

 

廊下は梁2.7m・桁5.5mの瓦葺きです。

庫裡(くり)は梁10m・桁11mの瓦葺きです。

方丈(ほうじょう)は梁3.6m・桁6.3mの瓦葺きです。

寮は梁5.5m・桁6.3mの瓦葺きです。

門は梁2.4m・桁2.7mの瓦葺きです。

 

境内は48m四方です。その内に寺地は、縦43m・横24mです。

寺産(じさん)は四斗です。

 

当寺は大淵山(だいえんざん)竜蔵禅寺の末派にして、開基は天山瑞石和尚

で、文明二年(1470年)としるす所なり。

風土記に云う、今の住職の高越が云う、寛文年間(1661年から1672年)以前

は小堂にて、旅の僧などの宿所なり。

昔対馬の津名の郷主である宗弥八郎と云う人が、対馬の幼き国主を殺して自

分が国主になろうと考えた。その陰謀が発覚して、故に幼き国主の家臣から逆

に命を狙われた為に、逃れて当浦に渡る。幼き国主の家臣は、宗弥八郎が逃げ

るのを追いかけて来る。

弥八郎は逃げに逃げて、此の堂中に隠れる。その時に井戸に水汲み女がいた。

弥八郎は、女に頼みて言う。我がこの堂に居ることを誰にも言うなと。

追っ手が来て問う。女は言葉を発することなく堂を指差す。是を以って追っ

手は堂を取まき、弥八郎を捕らえんとする。弥八郎及び二人の従者は半弓を以

って防ぐ故、近づく事が出来ない。

そこで火を堂に放てば、弥八郎が出て逃げようとする。佐々木助兵衛という

者が、進みて討ち取る。弥八郎と二人の従者を武末城の傍に葬る。

其の霊魂は大いに祟る故に、宗弥八郎を雲浦宗晴大居士と諡(おくりな)し、

二人の従者を古岩長松・月照浄心と諡(おくりな)し、毎歳可須勝本の人々が

是をまつる。

寛文年中(1661年から1672年)に、今の地に移す云々。今も霊牌があります。

透海院殿雲浦宗晴大居士としるせり。

 

 鐘は正徳二年(1712年)に懸ける。高さ75cm・亘り55cm

 

 

 

武末古城址は別名勝本城またの名を雨瀬包(あませつつみ)城

 

 勝本浦の頂上にあり。豊臣秀吉公朝鮮征伐の時、はじめて是を築けり。其の

旧跡の本丸の址は、縦は60°()から240°()の向きで90m、横

330°()から150°()の向きで43m330°()の方に門

の跡あり。詳しくは図で知るべし。

本丸の堀より東の山坂の麓(ふもと)迄270m、その途中に縦40m・横7mばか

りの池の跡がある。是が所謂(いわゆる)天瀬堤です。南の麓まで250m、西の

麓まで170m、北の黒瀬町まで270mばかり。

本丸には松が多く生えていて、礎石は図の如く残れるので、屋形の有様をほ

ぼ知ることが出来る。

井戸の所は小石を積んで、詳しくは分からないが、2ヶ所井戸の跡と言われる

ものがある。

二丸は畠となっている。されども高く聳(そび)えて誠に要害の地理なり。

 

古跡記に云う、古城が一ケ所あり、香椎村の勝本城で四方を石垣で囲み、北

西の間に小口(こぐち)がある。

 此の城は太閤が朝鮮の陣の時に、夜中に各々が手に石を持ち上がって築けり

と云い伝う。

 

日本国海陸記に云う、壱岐(壱州)勝本、当城は高麗陣の時に築城され、あ

ませ包の城とも、武末城ともいふ云々。

 

 私(後藤正恒・壱岐名勝図誌の著者)の案だが、武末と云うは岳末なるべし。

それは勝本の南嶽(みなみのたけ)の末だからです。山の頂上を末と云うこと

は、大祓詞(おおはらえことば)に高ノ山の末、短山の末云々とあり、武末と

言いては音の意いかにもそのように聞える伝云。

当城の築城の砌(みぎり)は、本多因幡守が7ケ年の間、城番として在住し

ていた。

 

 

 

碇坂(いかりさか)

 

此の坂、北より南に登る坂路なり。凡そ50mあって、路及び東西36mmばかり

の間に、長さ55cm・或いは60cm・或いは90cm120cm及ぶ程の竿石(さおいし)

も若干(じゃっかん)ある。

碇石(いかりいし)に丁度よいという。故に名となる。

又石の階段などに、適した石なり。村の中に此所(ここ)の石で階段とした

所がある。

甚だ風流なる自然の石です。

 

 

 

風早ノ城址は武末を4時半(南東)に545m余り去る

 

 此の城は誰が築いたかはっきりとはしない。本丸の址は東西42m・南北27m

東西の二方向に門の跡があるとはいえ、正確には分からない。

内と外の隍(ほり)の跡は畠となる。此所(ここ)は武末よりもやや高い。

本丸の地には大石が多くあって、屋形など建てた所とも見える。

風早の名の興りは聖母宮の部に詳しく書き出す。

 

牛神は風早の城中に在り。

 石祠

境内は東西50m・南北30m・周囲150m

 

多比羅大明神は岡田に在り。

 小祠は105°(卯辰)に向き、本社(聖母宮)を南に去ること五町に可

(あり)。

 拝殿は梁3.5m・桁5.5mで、茅葺きです。

山は東西69m・南北90m・周囲225mです。