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壱岐名勝図誌巻之二十三A    現代語訳・松崎靖男

壱岐郡可須村(かすむら)(あわ)せて勝本浦(壱岐市勝本町勝本地区)

 

坂本ノ里

 

加賀城(かがしろ)は坂本に属す。

 

此の城は、東は地ノ神の許(もと)から西は勝手口までの455mばかり、南は

加賀城谷から北はそう津までの555mばかりで、頂上には石垣が多い。

是は異国からの防衛の拠点となるべき城だからである。案じるに仁明(にん

にょう)記の承和年中(じょうわ・834年〜847年)に造られた、14ヶ所の要害

の其の一つである。

 

矢保左社(やほさやしろ・祭神は天忍日命)は坂本に在り。

 石祠は7時半(南西)に向く

 

地ノ神(ちのかみ)は加賀城の東の麓(ふもと)に在り。

 小祠(しょうし)は南に向き、本社(聖母宮)を南に去るに1,420mに可(ある)

 境内(けいだい)は東西12.5m・南北11.0m・約周囲50mである。

 

稲荷祠(いなりはこら)は同所に在り。

 

 

 

普陀山(ふださん)須仙庵(すせんあん)は坂本に在り。

 

本尊は十一面観音の座像で長さ40cm。脇士は不動・毘沙門の各立像で長さ22cm

祠堂(ほこらどう)の本尊は地蔵菩薩の座像で長さ20cmである。

客殿は、120°()の向きで、梁(はり)は7.2m・桁(けた)は11.0

mで、屋根は茅葺きです。

廊下は梁(はり)2.7m・桁(けた)4.2mで、屋根は瓦葺きです。

庫裏(くり)は、梁(はり)6.3m・桁(けた)は13mで、屋根は茅葺きです。

 門の屋根は入妻(いりづま)造りで、梁(はり)は2.7m・桁(けた)は1.5

mで、屋根は瓦葺きです。

境内の広さは75m四方です。その内に寺地は、縦34.5m・横29mです。

寺産は4斗です。

 

当寺は元々北久保にあり、いつの時代に今の地に移ったのか詳しくは、分か

らない。

梵刹記(ぼんさつき)に云う、香椎村の須仙庵の開基は盛林和尚で、康和元

年(1099年)と云う。今は安政2年(1855年)で、757年も経っている。

 

阿弥陀堂は境内に在り。

本尊は坐像で、長さ19cm・脇士は各10cmです。

堂は北東(丑寅)向きで、梁3.6m・桁5.5mで、屋根は茅葺きです。

寺領(じりょう)の畠は2畝です。

 

如意庵

本尊は観音菩薩で、当庵が無くなった後、三光寺に寄宿する。

 

 

烏城址(からすじょうし)は坂本に属す。

 東西は245m余り、南北は140mばかりです。或いは云う、唐津城の誤りでは

ないかと。朝鮮ノ陣の時に、唐津波多氏の陣所であろうと。

 

御崎(みさき)神は烏城に在り。

 祭神は句々廼馳命(くくのちのみこと・木の神)である。

 

 

 

笹栗ノ里

 

 

堂塔山(どうとうさん)向陽庵は笹栗に在り。

 

 本尊は薬師の坐像で、長さ30cmです。脇士は観音・勢至(せいし)の各立像

で、長さ38cmです。大権・達磨の踞像(きょぞう・ひざまずいた姿の像)は、

各長さ28cmです。

 

客殿は120°()向きで、梁7.3m・桁10mで、屋根は茅葺きです。

廊下は梁(はり)2.7m・桁(けた)3.6mで、屋根は茅葺きです。

庫裡(くり)は梁7.3m・桁11mで、屋根は茅葺きです。

境内は62.8m四方で、その内の寺地は縦36m・横22mです。

 

観音堂は境内に在り。

 本尊は座像で、長さ23cmです。

 堂は北東()向きで、梁3.6m・桁4.5mで、屋根は茅葺きです。

 

 畠は12m四方です。

寺産(じさん)は4斗です。

 

当寺は元々横田にあったので、故に山を横田と号す。正徳年中(1711年〜1716

年)に今の堂塔(どうとう・寺の建物)に移す。故に堂塔山と改める。

梵刹帳(ぼんさつちょう)に云う、香椎村向陽庵の開基は桂室和尚で、永治

元年(1141年)と云う。今は安政2年(1855年)で、715年も経っている。大

淵山(だいえんざん・竜蔵寺)の末流なり。

 

矢保佐祠(やほさほこら)は比屋坂に在り。

同じ祠が同じ所の畠の中にあり。

 

敷神(しきがみ・式神=陰陽師の命令で不思議な現象を起こす霊)は、笹栗に在り。

 石祠は75°(寅卯)に向き、本社(聖母宮)を南に去ること2,180mに可(ある)

 境内は東西22m・南北19mで、周囲が84mある。

 

松宮大明神は笹栗にあり。

 祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)です。

 石祠は15°(子丑)に向き、上屋(うわや)が在り、茅葺です。

 境内は東西51mm・南北33mで、周囲は96mある。

 

 当社は新城村の若宮大明神の摂社(せっしゃ)であります。大松を以って霊

の形を成すという。

 其の神松(かみのまつ)の株の大きさは4.5mあり。民間の伝承で、若宮大明

神の羽休の松(はやすめのまつ)と称せり。

 

天神社は笹栗に在り。

 石祠は120°()に向き、本社(聖母宮)を南に去ること2,300mに可

(ある)

 境内は東西33.5m・南北31mで、周囲が130mある。

 

矢保左祠は笹栗にあり。

 石祠は南向き。

 境内は東西11m・南北9mで、周囲が50mある。

 

地蔵堂は大久保に在り。   堂主は向陽庵です。

 本尊は座像で、長さ51cmmです。

 堂は165°(巳丑)向きで、梁3.6m・桁4.5mです。

 寄畠は12m四方です。

 

神通野(じんつうの)は村の外れ本宮の境です。

 此の峠は本宮・新城・可須の3村の境で、村の中で第一の高野にして、四方

の遠望は絶景の地なり。

 

水越堤(みずこしつつみ)は原田免に属す。

 水溜は56m四方にして、水田は250m四方で、取れ高は113石2斗にかかる用

水なり。

 

鎌田原

 街道の西につらなりて東西110m余り、南北325m余りある。原の中に夫婦石

があり、長さ90cmm余りの石二つ立っている。

 里の民が近世に神と祭る。

 

目波志山(めはしやま)堤は大内戸免に属す

 水溜は52.5m四方にして、水田は254m四方で、取れ高は1245斗にかかる

用水なり。

 

駅は六地蔵の元

高麗橋は袖取川(そでとりかわ)に渡している。新城へ往来をする所也。

 

地蔵堂は地蔵坂に在り。   堂主は東光寺である。

 本尊は踞像(きょぞう・ひざまずいた姿の像)で、長さ59cmである。

 堂は4時半(南東)向きで、梁2.7m・桁3.3mで、屋根は茅葺きです。

 境内(けいだい)は縦11m・横4.5mです。

 

 

 

西戸ノ里(さいとのさと)

 

 

高津古城址(こうつ・こじょうあと)

 

 西戸の東にあって、伝えるに「しんそう」と言いし人の居りし城だと云う。

姓氏及び「しんそう」の正しい字は詳しくは分からない。

 今に其の旧跡(きゅうせき)を見るに、本丸の地は東西29m・南北32mで、隍

(ほり・空堀)の周囲は125mばかり、隍から本丸までの高さは10m・幅は7.3m

で、4時半(南東)の方に門戸の跡あり。

 今は雑木(ぞうき)が繁茂(はんも)している。

 本丸の地から以南に100mばかり、麓(ふもと)に千人塚とて縦7.2m・横2.7m

の墓あり、其の南に100mばかりの地に射場本という所あり。

 又隍(ほり・空堀)の西の城山は90m四方ばかり、又北の山田路に至り58m

で、今の路は尚下にある。

 其の間に三段あって、厩(うまや)などの跡なるべしと風土記に云える。

凡そ200m四方ばかりの城址なり。

 又南に435mばかりの田地を隔てて、城主を葬りし墓なので、俗に「殿の墓」

と呼ばれるものがある。

 

高津堤(こうつのつつみ)は里免に属す。

 此の堤は、水溜は15m四方にして、水田は80m四方で、取れ高は45斗に

かかる用水なり。

 

山田堤は先に同じ

 水溜は41m四方にして、水田は187m四方で、取れ高は683斗にかかる用

水なり。

 

薬師堂は山田に在り。   堂主は東光寺です。

 本尊は座像で、長さ53cmです。他所より預かれる仏像あり。是は田ノ浦の弥

勒堂の本尊なりという。

 堂は165°(巳午)向きで、4.2m四方の茅葺きです。

 境内は東西23m・南北51mである。

 寄畠(よりはた)が10m四方です。

 

 当堂の後の路頭に松があり、民間の伝承これを薬師の鐘掛松と云っている。

されども今は鐘なくして、只松風の音ばかり世に響くなり。

 

 

 

安養山東光寺は大上に在り。

 

 本尊は阿弥陀如来の座像で、長さ26cmです。脇士は観音・勢至(せいし)の

客殿は195°(午未)向きで、梁8.2m・桁12mで、屋根は茅葺きです。

庫裡(くり)は梁10m・桁11mで、屋根は瓦葺きです。

廊下は梁(はり)2.7m・桁(けた)3.6mで、屋根は瓦葺きです。

玄関は梁2.7m・桁2mで、屋根は瓦葺きです。

鐘楼門(しょうろうもん)は、玄関を去ること13.5mで、2.7m四方です。屋

根は瓦葺きです。

山門は、鐘楼門を去ること約90mで、梁1.6m・桁2.1mで、瓦葺きです。

境内

 寺地は東西36m・南北27mである。

 山は東西155m・南北22mである。

  拙庵山は東西55m・南北130mである。  拙庵と申す僧が買付けたと云う。

 寺産は四斗です。

 

 当寺は老松山(ろうしょうさん)安国海印禅寺の末寺なり。

 寺居帳に云う、香須村東光寺の屋敷一所、右は先年の寺領126m四方と云う。

永禄田帳に云う、六反四丈中東光寺云々。(意味が不明)

 安国寺末寺帳に云う、香椎村東光寺の本尊は阿弥陀の座像で、長さ25cmです。

建立した年代は知らないが、安国寺の末寺になって以来三百年です。元禄5

1692年)に改帳(帳面を改める)する。元和三年(1617年)国守より知行五

石の寄附を受ける。

 開山は以宗々悦和尚と、しるす所なり。

 

 知行五石の国印状

元和三年(1617年)十二月廿八日隆信朝臣(たかのぶあそん)

寛永二年(1625年)十二月廿八日の状からは四斗六升となる。

 

鐘は享保十四年(1729年)に始めて掛ける。

 

当寺の末堂は次にしるす。廃所の分です。

東堂 元は境内にありと云うが、本尊と共に廃して今は無い。

西堂 元は境内にありと云うが、今は只寄畠(よりはた)のみが残っている。

 

観音堂 本尊は座像で、長さ24cmです。元は尾方と云う所に在ったとされる

が、今は廃して無い。本尊は東光寺に預けている。

 

弥勒堂 元は田ノ浦に在ったとされるが、堂は廃してから久しく、畠のみ残

る。本尊は山田の薬師堂に預けられたものと思われる。

 

阿弥陀堂 当堂は元々寺頭(てらとう)に在ったとされている。今は畠計り

にて、堂は廃して無い。本尊は同所の観音堂に預けてある。この二所の本尊

は、どちらがどちらの本尊か、住職は知らないと云う。

 

 

観音堂は寺頭に在り。   堂主は東光寺です。

本尊は坐像で、長さ33cmです。

堂は195°(午未)向きで、梁3.6m・桁2.7mで、屋根は茅葺きです。

 寄畠(よりはた)は壱敏です。

 

保佐川堤は西戸免に属す。

 水溜は36m四方にして、水田は120m四方で、取れ高は327斗にかかる用

水なり。

 

雨神は平原に在り。

 霊石は南東()に向き、本社(聖母宮)を南に去ること1,420mに可

(ある)

 境内は東西9m・南北14.5mで周囲は38mである。

 

幸神(さいのかみ・塞の神・道祖神)は幸久保に在り。

 霊石は165°(巳午)向きです。

境内は東西11m・南北6.3mで周囲は28mである。

 

引野(ひきの)は、新城との境なり。

 

 此の野は、北は幸の久保に続き、東と南と西は水田に臨み、東西38m、南北

135m余りです。其の真ん中に、大昔に唐船が覆った所だとの言い伝えがあり、

百年以上前までは、船板の朽たる物などあったと云う。今も船底と云う田地が

東の傍(かたわら)にある。

 

 増補 歌枕秋の寝覚 (うたまくらあきのねざめ・有賀長伯著)に云う、壱岐

引野、鹿・まゆみ(真弓・ニシキギ科の落葉低木)・つづら云々。

 国花万葉記(こっかまんようき・菊本賀保著)に云う、ひきの(引野)、景物(け

いぶつ・四季折々の趣のある事物)は真弓・鹿です。

 

古今集の恋歌四

 梓弓(あずさゆみ) 引野のつづら 末終(すえつい) 

          我思ふ(われもふ)人に 言のしけけん

                読人(よみびと)知らず

この歌は、ある人あめの御門あふみ(近江)の采女(うねめ)に給ひけるとなん申。

 

 引の 手ひきの糸を くりかへし 言しけくとも 絶むと思ふな

  此の歌は返しに読みて奉りけると云う。

 

弥生良宴集

 道遠く 行てに分る しのゝめの 引野の原も かすむ豊けさ

 

 

葛籠原(つづらはら)

 引野より1時半(北東)の方なり。東西250m・南北435m余りの原なり。古歌

に、梓弓引野のつづらと読み合せしも、もっともなことだ

 

牟田頭堤は大谷免に属す。

 水溜は36m四方にして、水田は117m四方で、取れ高は16石にかかる用水な

り。

 

のうしり堤は大谷免に属す。

 此の堤は、水溜は60.5m四方にして、水田は322m四方で、取れ高は135石に

かかる用水なり。

 

 

天ヶ原は牧内より櫛山に往来する通路なり。

 此の原は、東西に海があって東は滄海(そうかい・大海原)・西は曲江(まが

りえ・湾)で、南は牧内の馬込から、北は櫛山まで、東西110mで北に287m

す。

 此の原に遊びて、四方を眺望するに、東は滄海渺々(びょうびょう・果てしな

く広いさま)として、秋天(しゅうてん)晴朗(せいろう)にして煙霧(えん

む・もやや霞)なき時は筑前の地方見え、南は牧口坂・赤岩・寒水、西は曲江

甚だ深く、釣りする小船、秋の木の葉を散らしたる心地して、北は櫛山、くす

しくも(奇しくも・偶然にも)松樹(しょうじゅ・まつのき)蒼々(そうそう・

一面に青いさま)として立ち続き、尤も佳景(かけい・よい景色)の地なり。

 

 風本の しくるれハ社(こそ) 天の原 おろふる雪に そてハぬるらめ 

                        西行法師

 

 

牧野

 天ヶ原の門なり。東西330mばかり、南北250mばかりです。むかし牧があっ

たので、馬込と云う所あり。

 其の外に大高瀬・小高瀬と云う地ありといえども、子細は分からない。故に省く。

 

櫛山

 此の山は壱岐国の北の極み(きわみ)なり。櫛に似ている故に名とすると、

風土記に書いてあるが、今見るに櫛に似ているとは云い難い。

 案じるに奇山の意ではないか。その昔に鬼の住む山なりと云う説より、くし

き意として使ったのであろうか。

 

 

 

集辻(あつまりのつじ)

 

 櫛山の中にあり、東西32.5m・南北102mです。此の頂上より東に325mで、穴

浜・南に435mで、天ヶ原・西に545m余りで、くつろき崎・北に365mばかりで、

みる目の浦です。

 壱岐巡りに云う、天ヶ原・みるめの浦は、皆櫛山の後の方なり。四見滝(し

けんたき)と云う所もある。

 20年以上前に、集の辻の脇を掘って石櫃(せきひつ)を1つ掘り出した。

内に金棒が六本程入っていたが、長さ90cmほど腐って、鉄が火箸程しか残って

いなかった。石櫃の石は浦人が普請(ふしん・土木工事)に使ってしまった。

 

 此所(ここ)は百合若大臣が、京より来り給(たま)いて、諸鬼(しょおに)

を平定後は家来と為す。大臣の為に海辺より蜷(みな)を取って来て、集辻に

て奉る(たてまつる)故、是所(集辻)に蜷あり。集辻は海辺より数町上る所

也云々。

此の峠より口細浦に至るまで415m在る。

 

 

海松目浦は西に向い、長さが1,070mばかりある。

 

 奇山の北小櫛山から南西に向かう浦なり。浦の長さ1,070mばかり、櫛山と小

櫛山の間は南北123m・東西83.5m余りです。

 風土記に云う、世に類(たぐい)少なき佳景(よい景色)の地なり。故に「見

る目」の浦と云う意味か。

 浦人が「みるめ」と言えるは、鬼の住まいし所なり。故に此の名有りと言う。

 

 歌書に海松目浦と書いている。そうであれは海松(みる・ミル科の緑藻)・

和布(にきめ・柔らかな海草類)の名産品の出る所かと思ってみるが、けれど今

は育たざる由。若し風波によって土地が変わってしまった為なのか気にかかる。

 

 増補 歌枕秋の寝覚 (うたまくらあきのねざめ・有賀長伯著)に云う、みる

めの浦、恋によせて読める。月・藻塩(もしお・海藻から取った塩)・馬渡島と

読み合うとしるせり。今地理を見るに、馬渡島は肥前の上松浦にありて、向い

相対する所にあらねば、遠望の致景(ちけい・この上なくすばらしい景色)と

言い難し。

 君子の弁論を待のみ。

 日本鹿子(にほんがのこ・磯貝捨若 )にも掻いてある、見目の浦。

 

 

古今集の恋歌三

 みちしほの 流れひるまを あひかたみ

           みるめの浦に よるを社(こそ)まて

                        清原ふかやふ(深養父

 

六帖に ハミつ塩の なかれひるまも よをこそハ まてに作る

 

新後撰和歌集の恋歌二

問はやな みるめの浦に 住蜑(すむあま)の 心の中に ものやおもふと

       西園寺太政大臣

 

新続古今和歌集の恋歌二

 仮にたに 藻塩のけふり なひかすハ 見るめの浦に かひやながらん

                  儀同三司(ぎどうさんし・准大臣)次貞

 

古今集の恋歌三

 みるめなき 我身をうしと しらねハや かれなてあまの あしたゆく来る

 

 

懐中集

あまのかる みるめの浦に 白雪の またら嶋にも ふりかかるかな

 

涼しさに 心をとめて 幾度(いくたび)か ミる目のうらの 夏のよの月

 

さそひ行(いく) 友をミるめの 浦かけて 吹(ふき)くる風の 音もすずしき

 

父母(ちちはは)を 思ひ渡りて いく度(たび)

                  みるめのうらの 波そゆかしき

 

朝な夕()な 我をや妹(いも)か こふらむと かへりみるめの 浦かすむ也

 

 上の二首は2月の中の7日肥前の神集嶋より

            古郷をかえりみてくちすさみける。 吉野秀正

 

壱波国に、いにける人の名残をおしみて          藤原友諄

契り置て 又もみるめの 浦の波 立隔つとも 友なわすれそ

 

たのもしき友の壱州に、帰りなむとする別れを惜しみて読みて送りける。

            上総介従五位下藤原朝臣直栄

立かへる 波路ハ遠く 別れても 又やみるめの 浦と契らむ

        

 

 以上は風土記の所載也。

 

 

 壱岐史拾遺附録に云う、或は云う、嵯峨天皇の弘仁六年(815年)異賊襲来が

あり、之に依りて二ヶ所の関を置き、十四ヶ所の要害を築くと云う。

 見目の関は可須村に在りと云う。此の説の是非は、いかがか、なお考えるべ

し。

 

猿浦は285°(酉戌)向きで、290mです。

 

口相浦は北西()向きで、345mです。

 櫛山の麓にあって、浦を口細と名付たるは、浦内の周囲365m、浦の口は僅か

18mばかりにして、その形は袋の口をくくったようだ。故に此の名あり。