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壱岐名勝図誌巻之二十三B    現代語訳・松崎靖男

壱岐郡可須村(かすむら)(あわ)せて勝本浦(壱岐市勝本町勝本地区)

 

塩屋浦は北西に91mある。

 此所(ここ)は、むかし塩を焼し所なりと云う。

 

川神(かわのかみ)祠は苧許幾川の在り。

 石祠は南西に向く

 境内は東西18m・南北3.6mである。

 当社は田ノ浦鯨組の祭神である。

 

水神は藪田浦に在り。

 

田ノ浦は旧名を浜田と云い、5時半(南-30°)向きで、690mです。

 

 此の浦は、毎年冬より春にかけて、鯨組を出して賑やかな所です。其の納屋・

道具・人数等の大凡(おおよそ)の事を、次に書き出します。

 

両大納屋の地と併せて轆轤(ろくろ)場は縦113m・横41.5mです。

 その内に、東納屋場が縦58mで、西納屋が縦55mです。

 

 西門内の蔵床は縦63m・横30mで、大納屋は梁14.5m・桁42mで、屋根は苫

(とま・菅や茅などを編んだむしろ)葺きです。油煎釜(ゆせんかま)は18

所で、油坪釜は17ヶ所である。小納屋の分と併せて、之の寸法を略きます。

 

鯨組の船数と併せて名を記す。

双海船(そうかいふね・網船)12艘・双海附船(そうかいつきふね・網を引

いて張る船)12艘・持双船(もっそうふね・2艘で鯨を船縁に結わえて運ぶ船)

8艘・勢子船(せこふね・責子船鯨を追い込む役目の船24艘・納屋船(な

やふね・海上への資材補給を行なう船2

 

道具金物の分

 万剣(よろずけん・万銛の事か?・=大型の銛で鯨を仕留める時に使う)

 羽矢(はや・早銛の事か?=小型の銛で鯨を網の方へ追い込む時に使う)

 魚切鉋丁

 

道具苧縄(お・イラクサ科の多年草)の分

 根苧(おね)・加々須(かかす)・白瀬・胴縄(どうなわ)・

 羽矢付矢縄(はやつきやなわ)・万剣付突縄(よろずけんつきつきなわ)・印

                網が246端で1端(反)は18尋方なり

 

沖の立人数723人、その内に水子が672人、同じく羽指が51人です。

 

地の両納屋惣人数135人、その内に別当12人、同じく帳役4人、飯焼2人、同

じく勘定・道具・納屋共で9人、同じく魚切32人、同じく門番14人、同じく

鍛冶2人、同じく大工2人、同じく樽屋2人、同じく網納屋2人、同じく茶廻4

人、同じく若子50人地です。

 

地沖の惣人数は合わせて858人です。

 

 

納屋手歌(なやてうた)

 夫組(そのくみ)ハ 冬組春浦(ふゆぐみはるうら)勢美座頭(せみざとう) 

 長須児鯨(ながすこくじら)花出しや 

 子持連魚(こもちれんぎょ)白長須(しろながす) 

 勢子持(せこもち・狭子)に立羽立(たちはたち

 七尋物(ななひろもの)に雑物(ざつぶつ)や 扨名所(さてめいしょ)ハ数多し 

 觜囀(してん・口ばしがさえずる)に山臚(さんりょ) 

 衣黒皮(ころもくろかわ)敷胴身(しきどうみ) 

 赤身臓(あかみはらわた)骨筋髭(ほねすじひげ)や 

 立羽尾刷毛(たちおはけ握(にぎ)り 

 唯輪たけりに貝(かい)の元(もと) から肝(きも)までも捨(すて)りなし 

 旦那手代(だんなてだい)に別当役(べっとうやく) 

 帳役若衆見習(ちょうやくわかしゅうみならい)ハ 

 勘太郎(かんたろう・カンダラ)追(おい)を最初也(さいしょなり) 

 親父役人惣支配(親仁・おやじやくにんそうしはい) 

 勢子(せこ・責子)の羽指に持双(もっそう)や 流し沖番水主(かこ)の者 

 舳押双海(へおしそいかい)行列ハ 山見注進天秤(やまみちゅうしんてんびん)と 

 麾(き・さしまねく)の模様(もよう)に依(より)そかし 

 手柄仕勝(てがらしがち)の羽矢万(はやよろず) 一・二の銛(もり)ハ大事なり 

 剣切手形(けんきりてがた)仕課して 頭漕(とうそう)より浜(はま)までハ 

 誠(まこと)に勇(いさ)ミ敷働なり 浜ハ大納屋西東(おおなやにしひがし) 

 勘定樽屋道具納屋(かんじょうたるやどうぐなや) 

 鍛冶屋大工(かじやだいく)に釜懸(かまがかり) 

 大切小切煎粕(おおぎりこぎりせんじかす)や 

 魚切部屋の飯焚や(うおきりへやのめしたき) 

 田島の納屋(たじまのなや)の前細工(まえざいく) 

 小取日雇(こどりひやとい)に立番や(たちばん) 

 夜廻不寝(よまわりふしん)の大鼓番(たいこばん) 

 轆轤場(ろくろば)虎落内札ハ 坪場魚棚苫薼(つぼばうおたなとまちり)や 

 呉竹杭(くれたけくい)に縄筵(なわむしろ) 船ハ碇帆梶柱(いかりほかじばしら) 

 持双柱八挺櫓(もっそうはしらはっちょうろ) 

 手柄褒美の羽指歌(てがらほうびのはざしうた) 

 関東胡麻(かんとうごま)の誥出し(たけだし) 

 道具浜売仕替物(どうぐはまうりしかえもの) 実に蓬莱(ほうらい)の山そかし 

 

 

勝本浦は風本とも云う。

 

 可須の北の海にある浦にして対馬への入口です。名前の義は、聖母大明神の

条に詳しく言います。よって今は略します。

 

 町の広さは16,40336(約232.8m真四角)で本浦より聖母浦まで。

 

 戸数419戸で、塩谷浦・田の浦・本浦・聖母浦・馬場崎まで含む。

 

 人口は2,242人で、その内に男は1,123人、同じく女は1,119人です。

 

 舟は77艘で、その内に商船は17艘、同じく伝馬船(てんません)60艘です。

 

 海の境界は、東は箱崎村と新城村との境である黒平場の烏帽子石にから、西

は本宮村の産屋(うぶや)の瀬崎迄です。澳(おき・沖)の島々は当浦が所有

する所です。

 

 吉野秀正が云う、海東諸国記に、間沙毛都于羅(かさもとうら)としるし、

豊臣秀古家譜に、天正194月(1591年)、小西摂津守行長・加藤主計頭清正・

黒田甲斐守長政等の兵士十余万が、同じく名護屋を発して、壱岐風本に至って

(いたって)滞留する事数日、これは逆風の為である。

 行長が密かに云う、海濤(かいとう・海の大きな波)が若(もし)穏(おだや

かに)になれば、諸船は皆進発すると。併せて人に先達て、速(すみやか)に

朝鮮王城に入らんと。其の夜半に行長は、潜(ひそか)に纜(ともづな)をと

き対馬の豊崎に到る。

 清正・長政等は、行長の船の見えないのに驚いて、均(ひら)に進み漸く(よ

うやく)五・六里を歴(ゆく)が、逆風に吹かれて又風本(かざもと)に帰る

と記(しる)せば、長禄の頃(1457年から1459)より天正の頃(1573年か

1591)まで、専ら(もっぱら)風本の二字を用いたことは明らかです。

 尚、長禄以前天正以来も風本(かざもと)と称せし事は察すべし。今の国民

(壱岐のくにたみ)も風本とのみ言いて、勝本とは言わず。字に用いる時は勝

本なり。

 

 風本の しくるればこそ 天の原 おろふる雪に 袖ハぬるらめ   西行

 

 

 

聖母香椎宮は聖母浦在り。

祭神は

・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)

・足仲津彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと仲哀天皇

・誉田天皇(ほむたのすめらみこと・応神天皇

 

瑞殿は西に向き、梁3.1m・桁4.8mで、屋根は柿葺きです。

 三方に飛簷(ひえん・高く反り上がった軒)付、広さ(幅のことか?)

 0.9m、向拝(こうはい・屋根が正面の階段上に張り出した部分2mです。

 

祝詞殿(のりとでん)は梁2.7m・桁3.3mで、屋根は瓦葺きです。

 

拝殿(はいでん)は梁5.5m・桁9.0mで、屋根は瓦葺きです。

 御饌殿(みけどの・神饌をととのえる殿舎)・御輿舎(みこししゃ)を兼ねる。

 

西門が表門です。梁1.8m・桁2.4mで、屋根は瓦葺きです。

 

南門は梁1.6m・桁1.9mで、屋根は瓦葺きです。

 

石鳥居は高さ3.9m・横3.8mです。天明7年(1787年)七月に再建をする。

 

祇園祠(ぎおんほこら)は境内に在り。

 

庖唐神(ほうそうがみ)は境内に在り。

 

稲荷祠(いなりほこら)は境内に在り。

 

庚申(こうしん)は各相殿宝殿の120°()に鎮座

 

天神祠(てんじんほこら)は境内に在り、拝殿は北西(

 

 

○古事記に曰(いわく)、

 

帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと仲哀天皇)は、

穴門(あなと・長門の古い言い方)の豊浦宮及び筑紫訶志比宮に坐して、

天下を治める也(なり)云々(うんぬん)。

 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)を娶り(めとり)、

是(これ)を大后(おおきさき・皇后)とし、生みました御子(みこ)は、

品夜和気命((ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おおともわけのみこと)、

亦(また)の名を品陀和気命(ほむだわけのみこと)の2柱(2人)です。

 此の太子の御名を、大鞆和気命と以って負(い)う訳は、生まれた時に腕に

鞆の形をした肉があったから、其の御名を著(あらわす)。

 是を以って腹の中に坐して(いて)国が定まるを知也(しるなり)。中略

 

 其の大后息長帯日売命(神功皇后)者(は)、当時は帰神(神懸かり)

していた。

 故に天皇が筑紫訶志比宮(ちくしかしいぐう)に坐して(いて)、

熊襲の国を将(まさ)に撃(う)とうとした時、天皇が琴を控(ひ)いて、

建内宿禰大臣(たけのうちすくねおおおみ)が沙庭(さにわ・神を招いて

お告げを聞く清浄な場所)に於(おいて)神の命(めい・おおせ)を

請(こ)うていました。

 是に於いて(その時)大后(皇后)が神懸(帰神)かりして、

言教(ごんきょう・仏が言葉によって説き示した教え・此の場合は神の教えか?

を覚詔(さとせし)は、

西方に国がある。金銀を本(はじめ)と為して、目の炎耀(えんよう・燃え

るような輝き)する種々の珍宝が、其の国に多く在ります。

吾(われ)が、今其の国を賜(たま)えよう。」

 そこで、天皇が答えて言った、
「高地に登って西方を見ても、国土は見えない。唯(ただ)大海が有るだけだ。」

と言って、詐偽(さぎ)を謂う神だと思い、琴を押し退(の)けて、

黙坐して控不(ひかず)。

其の神が大いに忿(おこり)て詔(みことのり・御言宣・いった。)
「凡(おおよそ・総じて)茲(ここ)の天下(国)は、汝(なんじ)の知る国

(治める国)では非(あら)ず。汝は一本道に向かい(進み)なさい。」
 是に於いて、建内の宿禰大臣(おおおみ)が言った、
「恐れながら我は天皇に、猶(なお・やはり)其の琴を阿蘇婆勢(あそばせ・弾

いて下さい)」と言ったので、

 稍(やや)して其の琴を取り依(よせて)、那麻那摩邇(なまなまに

控(ひきて)坐す。

 故に未だ(いまだ)幾久しく琴の音が聞こえ不(ず)。

即ち火を挙げて見れば、既に崩訖(ほうきつ・くずれておわる・亡くなっていた。)

 爾(しか)して驚懼(きょうく・おどろきおそれること)し、

殯宮(ひんきゅう天皇 皇族の棺を仮安置する御殿・もがりのみやに坐し、

更に国内の大奴佐(おおぬさ・何と無く穢れた事か?)を取って、中略

 

国の大祓い(おおはらい・諸人の罪やけがれをはらい清める)を為す。

 亦(また)しても建内の宿禰が沙庭に居りて、神の命を請いました。

是に於いて教え覚えたる状(ありさま)は、具(つぶさ)に先の日の如くで、

「凡(おおよそ・総じて)此の国は汝命(なんじのみとこ・神功皇后)の御腹

に坐す(ざす・居る)御子(みこ)の知る所の国(治める所の国)也。

 爾(しか)して建内の宿禰が、「恐れながら我が大神、其の神腹(神功皇后の

御腹)に坐す(ざす・居る)御子は何れ(いづれ)の子や」と言うと、

 「男子」と答えて言った。

 

 

○日本書紀仲哀の巻に曰(いわく)、

 

 八年春正月己卯(つちのとう、きぼう)朔(さく・新月)壬午(みずのえうま、

じんご)筑紫まで幸(こう・行く)。中略

 

 橿日宮(かしいぐう)居る。

秋の九月に乙亥(きのとい、いつがい)朔(さく・新月)己卯(つちのとう、き

ぼう、群臣に詔(しょう・みことのり)して熊襲を討つことを議した時、皇后

が神託(しんたく・神のお告げ)を誨(おしえて)曰(いわく)。

「天皇は熊襲が服さないことを何(なんで)憂(うれえて)いるのですか、

 是(ここは)膂之空国也(そししのむなくになり・肥沃でない土地なり)。

豈(あに・どうして)兵を挙げて伐する(ばつ・討つ)に足りる乎(や)。

 茲(この)国より愈(いよいよ)もって宝の国が有る。

譬(たとえば)美女の眉の如きにみえる、向津国(むかつくに、海の向こうの

国)が有る。

 眼に炎(えん・やけつく)ような金銀・彩色が其の国には多く在る。

是を栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに・栲衾は白い布で新羅の枕詞)と謂

う。

 若(もし)吾(われ)を能(よく)祭ったならば、則(すなわち)刃(やい

ば)に血をぬらずして、其の国は必ず自ら服するであろう。

復(また)熊襲も服するであろう。

 其の祭は天皇の御船及び穴門直(あなとのあたいほむたち)が献じる

の水田を以って、名大田とし、是等(これら)の幣(へい・しで・今回は供え物

と云う意味か?)と為す物也。

 

 天皇は神の言葉を聞いて、疑(うたがい)の情(じょう・心)が有った。

更に高岳に登り、遥か大海を望(のぞむ)が、広遠として国が見えない。

是に於いて天皇は神に対して曰く、朕の周りを望と、海は有るが国は無い。

 豈(あに・どうして)大虚(きょ・空)に国が有ろう乎(や)。

誰(だれ)の神が朕(ちん)を誘(おこつる・だまして人をさそう)るのか。

 復(また)我(わが)皇祖の諸天皇は、神祇を祭ることを尽くしております。

豈(あに・どうして)遣(つかわした)神が有るだろう耶(か)。

 

 その時に神が亦(また)皇后に託して曰く、

天津水影(あまつみずかげ)の如く、押伏して我が見る所の国を、

何で国が無いと謂い、以って我が言葉を誹謗(ひぼう)するのか。

其れ汝王は之の如く此の言葉の遂に信じず、汝は其の国を得られない。

唯今に皇后が始めて胎(たい・宿った子)有り。其の子が獲(え)ると有る。

 然(しかれども)天皇は猶(なお)信ぜず、以って強いて熊襲を撃ち、

勝を得られずに還る。

 九年(200年)春二月癸卯朔丁未、天皇は忽(こつ・にわか)に痛身(つうし

ん・病気)になると有って、明日(みょうにち・翌日)崩(亡くなり)ました。

時に御年52才と云う。

 

 

日本書紀神后の巻に曰(いわく)

 

 時に皇后は天皇の傷が神の教えに従わず早く崩(亡くなった)と考え、

以って神の祟りと知る。

 財宝の国を求めるに、是を以って群臣及び百寮(多くの役人)に命じて、

以って罪を解き過ちを改め、更に斎宮(いわいのみや)を小山田邑を造る。

 三月壬申朔、皇后は吉日を選び斎宮に入り、親(しん・みずから)神主と為

り別武内宿禰に命じて琴を撫でた(なでた・弾いた)。

中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)が喚(わめき)

審神者(さにわ・神意を解釈して伝える者)と為す。

 

 因(よって)千渚潤iちはたたかはた)を以って琴の頭尾に置き請うて

曰く、先の日に天皇に教へしは誰の神也。願わくは其の名を知ることを欲う。

 于(ここに)七日七夜に逮(および)乃(すなわち)答えて曰く、

神風の伊勢国の百伝う度会(逢・わたらい)県の五十鈴宮(いすずのみや)

居る神で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむ

かつひめ)命という。中略

 

 時に神語(かむごと・神の言葉)得て、教えに随いて祭る。

然後(しかるのち)吉備臣の祖である鴨別(かもわけ)を遣わし、熊襲国を撃

たしめる。浹辰(しょうしん・いくばくのとき)も経たたぬのに、自(みずか

ら)服(ふく)した。

 

 

日本書紀応神の巻云う、

 

 誉田天皇(ほむた・応神天皇)は、足仲彦(たらしなかつひこ・仲哀)天皇の

第四子也。中略

 

 筑紫の蚊田(かだ)で生まれ幼(おさなき)より聡(さとく)あられた。

玄監(げんかん・襟を正し、姿をみさだめる)は深遠にして、

動容進止(どうようしんし立ち居振舞い)に聖(せいなる)表れが有った。

 皇太后摂政の三年に皇太子に為って立つ。時に年は4才。

 初めて天皇を孕まれたとき、天神地祇が三韓を授けられる。

 

 

〇風土記に云う、

 

 人皇十四代仲哀天皇は、気長足媛尊を立て皇后とし給う。六年に天皇は

近淡(おうみ・近江)海志賀宮(かしいぐう)より、穴門(あなと・長門)

豊浦宮(とようらぐう)に遷(うつ)り給(たまう)。八年春正月に天皇は

筑紫に幸(こう)し熊襲を討伐の議をおこなう。

 時に神あり、皇后に託して誨(おしえ)て日(いわく)、天皇は何ぞ熊襲の服

さずを憂給(うれいたまう)か。西に宝の国あり、三韓国と云う。

 若(もし)能(よく)我(われ)を祭(まつ)れば必(かならず)彼国

(かのくに)は自(みずから)服(ふく)すると。天皇は是を疑い給う。

 神は又皇后に託して云う。天皇が請給(こいたまわ)ずば、汝(なんじ)

其の国を得ず。皇后始めは、教誨(きょうかい・教えさとすこと)を信じ給わず。

九年に三韓が起って襲来(しゅうらい)してくる。

 長門国豊浦に於いて異賊を防戦して、異賊を討滅するといえども、化変の

塵輪(じんりん・翼を持った大悪鬼)が黒雲に乗り隠れる。天皇、安倍高麿・

助丸を審人(しんにん)として雲中より現れ出るよう告げさせる。

 其の出てくるのを、天皇に射させ給うに、塵輪(じんりん・翼を持った大悪鬼

弓箭(きゅうせん)を携へて、返し矢を射て、天皇の御胸に立(突き刺さる)。

 塵輪の首と身が二つに成りて、空より落つる。其の頭が八つで、大きな眼で、

赤い顔也。

 天皇は甚だ痛(いた)く給(たまいて)、皇后に対して宣(のぶる)、

朕は将(まさ)に神を退かす。朕が為に異賊を討つべし。汝が胎内の子が

男子ならば、誕生養育して帝位に即け奉(たてまつる)と宣(のべ)置き

給(たま)いて、九年二月六日に御年五十二歳にて崩御(ほうぎょ・亡くなる)。

皇后は嘆(なげ)き給(たまう)。

 時に皇后と大臣は、天皇の喪を匿(かく)して棺に納め、橿日(かしひ)の

芦原(あしはら)の椎木の上に懸置(かけおかれる)。其の薫香(くんこう)

四方に及(およぶ)。

 因(より)て、橿日(かしひ)を改て香椎(かしい)とする。

皇后は大臣(武内宿禰)と中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)・大三輪

大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)・物部胆咋連(もののべのいくいの

むらじ)、大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)・物部多遅麻連(ものの

べのたちまのむらじ)に詔して言った。

 今天下は天皇の崩御(ほうぎょ)し給(たまう)事を知らない。若(もし)

百姓(ひゃくしょう・庶民・世間)是を知れば、懈怠(かいたい・怠ける事)

する者がでるかもしれない。

 命じて曰く、太夫が百寮を領(おさえて・率いて)宮中を守らしめよ。

(ひそか)に天皇の屍(かばね)を収(おさ)め祭って、武内宿禰に付けて、

以て橿日より海路(かいろ)を経て穴門に遷(うつ)し祭りて、豊浦に

殯(かりもがり・仮に納めること)して、火(灯火)を無(焚かず)

殯斂(ひんれん・仮葬)する。

 22日武内宿禰穴門より還(かえ)りて皇后に復奏(ふくそう)す。

此の年、三韓の役(えき)に因(より)て天皇を葬(ほおむる)事をえず。

皇后は天皇が神の教えに従わずして、崩御(ほうぎょ)し給事(たまうこと)

を傷いて(きずいて・気付いて)、祟られた神の名を知って宝の国を求むと。

 則(すなわち)群臣百寮に令(れい・命じて)して以て罪を払い、過ちを

改めて、更に斎宮(いわいのみや)を小山田邑(むら)に造り、三月朔日

吉日なればとて、いみ(忌)籠(こも)らせ給(たま)いて、自ら神主と

なり給ひ、武内宿禰に命して琴を弾(ひか)しめ、中臣烏賊津使主(なかとみ

のいかつのおみ)を審神者(さにわ・・神意を解釈して伝える者)として

請曰(こうていわく)、

 先日天皇に教へありしは何(いずれ)の神ぞ。願わくば其の名を知らんと。

潔静(けつせい・静かで潔い)精励(せいれい)して七日七夜に逮(およぶ)。

 則(すなわち)答えて云う、

日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おと)の水底に出居(いでい)

神の名は、表筒男(うわつつのお)、中筒男(なかつつのお)、底筒男

(そこつつのお)の三柱(みはしら)の大神也(おおみかみなり)と。

 亦(また)誨云(おしえていう)、

和魂(にぎたま)は王の身に添(そ)えて寿命(じゅみょう)を守り、

荒魂(あらたま)は先鉾(さきほこ)となり船軍を導(みちびくと)。

則(すなわち)神の教えを得て拝礼いたす。

 又(また)天照大神が誨云(おしえていう)、吾は日神(ひのかみ)也。

三韓の兵が蜂起して本朝に来たら、汝は自ら軍を率いて寇賊(こうぞく)を

征すべし。則(すなわち)住吉神・諏訪神を以て輔佐とさせんと。

 九月皇后は神の教えに従い、天皇の遺詔(いしょう・天皇の遺言)に任せ

男形となり、三韓を征せんと欲して、諸神を大宰府の乾の嶽に集めて是を

はかる(相談する)。

 諸神(もろもろのかみ)庭燎(ていりょう・庭でたくかがり火)を増し

青和幣(あおにぎて)と白和幣(しろにぎて)を榊(さかき)の枝に懸けて

神楽を奏(そうす)。

 此の時に及びて常陸国の海人(あま)で磯良(いそよし)が召しに

応じて出て来る。

 彼は海上の業風(ごうふう・地獄で吹くという大暴風)による波を船で

乗る功が第一に勝るに因(よりて)、諸軍船の下知を成さんが為也。久しく

海中にかつぐに依(より)て其の貌(かお)は見醜し(みにくい)。

 諸神(もろもろのかみ)に見え奉(たてまつ)る事は耻かしといえども、

勅詔(ちょくしょう・天子の命令)を至感(しかん・この上をなくかんじいる)

し今来たると。

 皇后、磯良に勅(ちょく・天皇の言葉)して海神を祭らせ、海上守護を

祈らしめ給(たま)ふ。皇后、軍船を発して三韓に趣(おもむく・向かう)とす。

 皇后は懐胎(かいたい・身ごもること)にて御鎧(よろい)をあわす。

武内宿禰は巧(こう・たくみなこと)をめぐらして、

始めて脇立(わきだて・兜の脇に立てる装飾品)を作り、以って是を献ずる。

 

 長門の船木山に於いて、大船五十余艘の船木を下し新船を作らしめ、

其の外の大小兵船は諸国より集める。

 兵甲(へいこう・兵士)を練り吉日を選び、諏訪の神・住吉の神を以て将軍と

崇(あが)め、荒魂(あらたま)を携(たずさえ)へ先鋒とし、

和魂(にぎたま)を請うて御船の鎮(しずめ)とし、又武内宿禰を副将軍として、

冬十月筑前神集嶋(かしわじま)に諸神集り給ひて、三韓征伐の

首途(しゅと・旅立ち・門出)の祝い酒宴(しゅえん)有って、

肥前の土器崎より3,270艘に、笛太鼓の音、艫(とも)で械楫(かいやかじ)

を取る船人の声、山海を響(ひび)かして夥(おびただしく)しく、

壱岐の島に渡らせ給に、西風に向いければ皇后は自(みずから)風神を

祭らせ給えば、東風(こち)と成ることを甚(はなはだ)悦ばせ給いて、

其の地を風本(かざもと)と名つけ給。

 又東風(こち)吹き送る方を御詠(ぎょえい・天皇や皇族が作った詩歌)して

風早しと宣する(せん・勅旨をのべ伝えること)。

 因(よりて)て其の方を風早(かざはや)と云う。

 皇后は御産月(おさんのつき)近づきければ熱気が甚(はなはだ)多い。

因(よって)御肌を冷し給うため、手毬(てまり)程の大石を数多く集めて

取替々々(とりかえとりかえ)御懐(おふところ)御腰(おこし)を冷し給う。

 

 風本(かざもと)より出帆(しゅっぱん)、対馬島に至らせ給う、

鰐津(わにつ)より三韓に着津(ちゃくつ・入港)すると、

敵兵が待設(まちもうけ・準備をして待つこと)て攻めかかるを、

身方は手合せして、わざとおびき寄せて引退(ひいてしりぞく)に、

敵兵は勝に乗(じょう)じて大軍が押かかるを思図(しず・思うつぼ?)に引き寄せ、

身方の大軍が一同に火急に攻戦い、敵軍を討崩しければ、残兵醜く引退く。

 手向う敵もあらざれば、討捨(うちすて)たる敵兵の左の耳をそぎ取て集め、

御帰陣のおりに筑前香椎の浜に埋める。是が耳塚也(みみづかなり)。

 韓王は神兵を恐(醜)れて遂に降(おり)て皇后に奏(そう)して曰く、

我命を続けさえ給ば、自今(いまより)以後目本国に向て子々孫々に

至るまで怨敵(おんてき・恨みのある敵)を成さず。

 馬飼(うまかい)と成り毎年船を並べ、船の艫械(とものかい)を乾さす

貢物(みつぎもの)を奉(たてまつ)る。

 皇后勅(ちょく・天子の命令)して曰く、何の証拠あって汝が命を繋ぐべきや。

彼の王は誓って曰く、天地と共に退く事なく仕へ奉らん。

若(もし)背(そむく)心あらば天神地紙の罰を蒙(こうむる)と。

 爾来(じらい・それからのち)三韓共に西蕃(さいはん・西の隣の国)と

称し朝貢(ちょうこう)を絶さず。

 皇后は三韓に入り給い州々所々(しゅうしゅうしょしょ・あちらこちら)を

順見し、国の差図(さず・地図?)文書等を召取りて、御杖(おつえ)に

突給(つきたまう・使っていた)鉾(ほこ)を韓王の門に立て置給(おきたまう)、

鎮守将軍を定め置き政(まつり)を司(つかさ)さしめ、王子を人質に伴い、

80艘の貢船(みつぎふね)を浮べさせ、凱歌(がいか)を挙(あ)げて

対馬の鰐の津(わにのつ)まで帰朝されて、126日壱岐の風本に着き給いて、

三韓に勝ち給ことを甚(はなはだ)悦(よろ)こばれ給いて、

其の地を勝本と名を付け給。

 此の地名は御往来(おうらい)したので両名(りょうな・2つの名前)あり。

 三韓に於いて馬の飼糧(しりょう)が尽きたので、海藻を刈って天神地祇に

誓ったら、青草の如く喰いて馬が助かりましたので、来世に至るまで毎年6

28日より74日まで、田畠の草を竭(つきる・尽きる)ないようにいたします。

 則(すなわち)青草の如く喰いて馬が助かった。因(よりて)今に忌と称して、

其の7日の間を農民は草を取らず。

 又敵国の降伏の為、軍越(くさこえ)の神事を定め置かる。往古神社にて

今に其の遺法(いほう・過去から現代に引き継がれている法)が残る。

 皇后は壱岐の勝本より筑前に渡らせ給ひて、誉田(ほむた・応神)天皇を

蚊田に於いて誕生(たんじょう)、故に其の産所(うぶや・さんじょ)を

宇弥(うみ)と称する。

 皇后は三韓征伐の往来に、行宮(あんぐう・行幸のとき設けた仮宮)を

勝本に建られる。其の御殿は其の儘(まま)有しに、毎夜に海中より

光物(ひかりもの)上(のぼ)りて奇瑞(きずい・めでたいことの前兆)なれば、

鏡を納めて皇后を神と崇め奉る。其の地は則今の聖母大明神也。

 69年、御年百歳にて己丑(ひのとうし、ていちゅう)の417日大和国

十市郡磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)に崩御給(ほうぎょしたまう)。

1015日狭城楯列陵(さきたてなみりょう)に葬奉る(ほおむりたてまつる)。

 皇后を聖母と称し奉るは、皇后も聡明叡智美粧(びしょう)にして、

皇子の誉田(ほむた・応神)天皇は幼くして聡達叡明仁恵(じんけい)にして、

母子倶(おやことも)に聖賢(せいけん)にまします故、聖母と称し奉れり。

 

 或(あるいは)云う、異敵の101,510人の頭を斬って積来りて、

海浜に穴を穿(うがつ・穴を掘る)て深く埋め、98反の石の築地(つきじ)

一夜の中に築き、其の上に戌亥(いぬい・南東)向きに玉の宝殿を造り成して、

5間四面(四方)不日(ふじつ・日ならず・日数をあまりへないこと)に成りて、

末世まで我諸神(わがもろもろのかみ)と此所(ここ)に有りて

敵国を降伏せんと、賊骨(ぞくっこつ)を蹈(ふみ)て

未来まで異賊の競望(けいぼう・我がちに争い望むこと)を断絶し、

本朝を鎮護(ちんご)し給うと、其の地に聖母の社を建てた。

 又(また)皇后の御足跡、社前の石面に有り。

 亦(また)御馬の足跡(馬蹄石)といふも石面もあり云々。