×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

壱岐名勝図誌巻之二十三C    現代語訳・松崎靖男

壱岐郡可須村(かすむら)(あわ)せて勝本浦(壱岐市勝本町勝本地区)

 

○或説(あるせつ)に云う、

 延暦年中(782年から805)に一国一社の八幡宮を建立し、其の時には

聖母大明神は同前(どうぜん・前にあった事)に勧請という。

 然時(しかるとき)は、今は安政2年(1855年)で1,070余年前也。

 

○縁起に云う、

 桓武天皇の延暦年中82年から805)異賊が襲来し、

依之(これによりて)八幡を勧請する。

 此の時に聖母三社は之を祭る。筑前香椎宮、長門豊浦住吉大明神、

壱岐勝本聖母大明神は其の一つ也。

 八幡正面は住吉大明神で異国降伏守護、依之(これによりて)兵主神社を

称する云々。

 又しても曰く、壱岐の一ノ宮は石田郡興の印鑰(いんにゃく)大明神で、

正面は仲哀天皇、左は住吉大明神、右は神功皇后。

則(すなわち)二ノ宮は当社である聖母宮(しょうもぐう)也。

 

○神社考に云う、

 当社の縁起(起源や由来・またはそれを記した書画)は、暦応元年(1388年)

8月の書に記す所は、累世(るいせい・代々)中原家(聖母宮の御鍵屋)が

持ちたる所、然(しかし)延宝2年(1674年)正月、中原弥左衛門が竜宮寺に

納め、同年二月進誉(しんよ・神岳山本宮寺住職)が改作して、虚偽(きょぎ)を

加え、新縁起を作って述べ、古本(こほん・古書)を捨てる。

 惜哉(おしいかな)其の古本、桓武天皇の延暦年中(782年から805)、

聖母社の建立(こんりゅう)の謂(いわれ)が書に記していたと有る云々。

 

○神名記に云う、

 聖母大明神は、改(橘三喜の延宝の改め)以前は式内(式内社)也と云々。

 正恒(後藤正恒・壱岐名勝図誌の著者)が案(あん・考え)に、古今大七社

の内にましませば、官社なるべし。

 それは、縁起にも兵主神社ともあれば、正しく式社なる事疑うなかるべし。

 

壱州神領図帳に云う。

 往時は如此(このごとく)神領は多いといえども、今は神領が2石となる。

然共(しかれども)今でも祭礼の節は、一の神輿(みこし)で駕の与丁

(よほろ・関わっている人)は可須村4人、二の神輿(みこし)で駕の

与丁(よほろ・関わっている人)は先(まず)半城村百次郎・中通物部

鯨伏住吉3村より4人、次年は初山村4人、次年は中郷・国分・諸吉の

3村より4人、次年は長嶺村3人、布代立石1人で合せて4人で、

二の神輿は四年廻りに与丁(よほろ・関わっている人)を出仕(しゅっし)する。

 故に二の神輿(みこし)を、国輿(くにのこし)とも郡輿(ぐんのこし)

とも称する。

 是(これ)は少弐氏(しょうにし)が幕下(ばくか・家来に近い)の佐志

壱岐守義が九十四丁(ちょう・才の誤字か?)の時の旧例なりといえる。

 毎歳810日に神輿を本浦に御船にて渡御(とぎょ)なし奉(たてまつり)り、

13日の夜に、旅所(たびしょ)の行宮(あんぐう)にて大神楽(おおかぐら)、

14日に還幸(かんこう・神が出先から帰ること)、国守の名代が社参(しゃさん)

奉幣(ほうへい・幣を奉げること)して、種々の規式(きしき・定まった作法

がある。

 浮殿(うきどの)に移御(いぎょ・神が他所へ移ること)の間、浦中より

手踊(ておどり)などありて、国中の貴賤(きせん)の参詣(さんし)

群(むれ)をなせり。

 

 

 後柏原天皇の大永六年(1526年)に内殿(ないでん)を造り替える、

正守護の波多壱岐守源盛の花押(かおう・署名)の棟札(むなふだ)ありと、

風土記にしるすが今は失ってない。

 

 後西天皇の明暦4年(1658年)8月御殿を再建し、

松浦肥前守鎮信朝臣(まつら ひぜんのかみ しげのぶ あそん)花押(かおう)。

 

 桃園院の宝暦2年(1752年)8月に宝殿を再建し、

誠信(さねのぶ・平戸松浦第8代藩主)朝臣(あそん)花押(かおう)。

 

 後桜町院の明和3年(1766年)8月に拝殿を再建し、

同じく誠信(さねのぶ)朝臣花押等の棟札(むなふだ)あり。

 

 木鏡は一面で延宝4年(1676年)に鎮信朝臣奉納(ほうのう)

 

 告文(こくぶん・願いを記した文書)は二通で寛政年中

   (1789年から1800) に清(きよし・戸松浦第9代藩主)朝臣奉納

 

 横額は聖母宮のために雕(きざむ・彫り)宝殿に懸けて弘化4

      (1847年)8月に煕(ひろし・戸松浦第10代藩主)朝臣奉納

 

社領二石の寄附状五通

 元和3年(1617年)1228日隆信(たかのぶ・戸松浦第3代藩主)朝臣

 寛永2年(1625年)1128日同上(どうじょう)

 元禄9年(1696年)正月26日任(たかし・戸松浦第5代藩主)朝臣

 享保7年(1722年)4月朔日篤信(あつのぶ・戸松浦第6代藩主)朝臣

 寛延2年(1749年)1118日誠信(さねのぶ・平戸松浦第8代藩主)朝臣

 

 石の築地(つきじ・埋め立て地)は東西55m南北30m余で、周囲は165

高さは1.8mです。

 天正20年(1592年)4月、加藤主計頭(かずえのかみ)清正が、朝鮮陣に

渡海しようとするが、逆風により逗留の時、社地を巡りて海辺に石垣を築いて

廻った云々。

 

馬場は62m・横15mです。

 

竜石は西門を去ること70mです。

 此の石は、東西1.4m、南北1.3m、厚さ38p。

 足跡は、東の方は9cm・横9cm、深さ1.5p。

 西方の足跡は、15cm・横6cm、深さ1.5p。

南の石は1.2m・横88cm、厚さ15p。

 足跡は15cm・横6cm、深さ1.8p。

是(これは)皇后の御足跡并(ならびに)神馬の足跡と云い伝えける。

 

池神社は馬場に在り。

  石祠(いしほこら)は東に向く

 

弁財天祠は裾崎(すそざき)に在り。

  小祠は南に向き、2.7m・桁3.6mで、屋根は瓦葺きです。

 

 

聖母山神皇密寺

 

 本尊は阿弥陀如来で秘仏と云う。閉帳(へいちょう・普段は閉じて拝観出来ない

 なり。故(ゆえに)に長不知(ながくしらず)。

 不動明王立像は、長さ30pです。

 

 本堂は辰(120°)向きで、8.2m・桁11mで、屋根は瓦葺きです。

 廊下は、7.3m・桁2.7mで、屋根は瓦葺きです。

 庫裡(くり)は、7.3m・桁9mで、屋根は瓦葺きです。

  寺地は、31m・横25mです。

 

 表門は薬医門(やくいもん・切妻屋根をかけた門)也。

             1.4m・桁2.8mで、屋根は瓦葺きです。

 裏門あり。

 

当寺は風土記に云う、

 神岳山の末寺なり。神岳山記に云う、聖母坊は真言(宗)。最初は神岳山の

秀源法印(しゅうげんほういん)に附き秀光(しゅうこう)が法を相続する。

 其の以前は半俗の供僧(ぐそう)である、秀増・秀栄など云うものいるが、

真言の行者(ぎょうじゃ・仏道を修行する人)にあらず。

 故に過去帳(かこちょう)の世(せい・受けついだ世代)にのせずと云々。

又云(またしてもいう)、勝本浦の神皇寺の中興(ちゅうこう)は、天正8

1580年)で開山は頼秀(らいしゅう)と云々。

 永禄田帳に云う、田は55m真四角、高は五石三斗と云々。

 今は寺産が拾石で、寄附状が5通あり。

 

 寛永2年(1625年)1228日隆信(たかのぶ・戸松浦第3代藩主)朝臣

 同20年(1643年)正月11日鎮信(しげのぶ・戸松浦第4代藩主)朝臣

 元禄9年(1696年)正月26日任(たかし・戸松浦第5代藩主)朝臣

 享保7年(1722年)4月朔日篤信(あつのぶ・戸松浦第6代藩主)朝臣

 寛延2年(1749年)1118日誠信(さねのぶ・平戸松浦第8代藩主)朝臣

 

 

神社考に云う、

 此の神皇寺の来由(らいゆ・いわれ・由来)は大永2年(1522年)3月に、

ある祝部(はふり・下級の神職)が仏法に寄依(きえ・帰依)し法体をまとって、

妙覚(みょうかく)と名のり、鹿ノ下の井川の辺に居住し、灯明田を耕作して

灯明蛙役(とうみょうともしやく)を勤め、宮掃除等を成していた。

 其の子孫は半俗妻帯(はんぞくさいたい)にて相続し、庵室を西住院と号し

て、其の後は竜宮寺と改め、再興の毎度(まいど・たび)に庵室を聖母社地の

近くに次第に移して、世間には宮司聖母坊と訇(いいしし)と、右に謂(いわれ

るが如く先例は無く、只広縁の灯明珪役計(とうみょうともしやくばかり)なり。

是は灯明田の替地に庵室を建る故なり。

 何宗と極(き)めたる事もなく、法者道人(どうじん・仏道を修行する人)故、

神岳山(かんだけさん)の古帳に西住院は半俗にして、真言の教利(理)に

非(あら)ずと記せり。

 最初の法体の妙覚の子孫は断絶し以後は道人や坊人が替わる云々。

 庵主となった秀増以来は真言宗と極め、本寺を定めて、寛永5年(1628年)

6月に竜宮寺の住憎である源覚が、始めて神岳山を本寺となして神皇寺と改め、

以後願いに仍て寺領十石となり、其の後寛保元年(1741年)728日、

始めて聖母宮別当職(べっとう・神社に置かれた神宮寺の役職)となれり。

 

 

  什物(じゅうもつ・秘蔵の宝

三十六歌仙の巻物

 奥書(おくがき・巻末の来歴など)曰く、天祥庵慶岩徳祐(寄進者)。

 

聖母宮縁起(しょうもぐうえんぎ) 上下二冊

 

観音経(かんのんきょう)   折本

 

大随求陀羅尼経(だいずいぐ・だらに・きょう) 一冊

  大随求(信者の求めに自在に応じること

  陀羅尼(梵文を翻訳しないで唱えるもので、不思議な力をもつもの

 

此の両部は煕(ひろし・戸松浦第10代藩主)朝臣が

 施入(せにゅう・寺や神社に財物を献上すること)せらる。

 

心経(般若心経の略) 一巻  図(ず・意味不明)の前に出す。

          享保13年(1728年)仲夏(ちゅうか・夏のなかば

 

朝鮮焼壹  一口  茶入の前に図(ず・意味不明)に出す。

 

磬(きん・読経の際に打ち鳴らす仏具)  図(ず・意味不明)の次に出す。

 

和名抄(わみょうしょう)に曰く、

   磬(きん)は僧の清閑(せいかん・俗事にかかわず静かなこと)を

       なすものにして、題(これ)は寺で詩(うた)うと云う。

 

 五色の雲中(うんちゅう)に玉磬(ぎょくきん)が鳴り

     千花壱上(せんかいちじょういちのかみ・一上・尊い

             の金仏(かなぶつ)を礼(いや・敬うこと)して

 磬が若(もし)定(さだめ)に反(はんし)、和名宇知奈良之(意味不明)

 

 

観音堂は勝本浦の黒瀬に在り。 堂主は神皇寺です。

  本尊は十一面の坐像で長さ13p、同じく聖観音は17pです。

  堂は東に向き、3.6m真四角で瓦葺きです。

 

川の神は田ノ中の弥六(みろく・弥勒)川に在り。

 石祠は30°()に向く。

 

池神は田ノ中町に在り。

 小祠は75°(寅卯)に向く。

 

 

志賀大明神は志賀山に在り。

  祭神は三少童神です。

御殿は120°()向きで、本社を南に去ること325mです。

拝殿は、梁(はり)2.7m・桁(けた)3.6mで、屋根は茅葺きです。

境内は、縦56mで横47mです。周囲は770mです。

 

 当社は、はじめは社なし。万治2年(1659年)38日造立する所なり。

稲荷祠は同じ所にあり、小祠は120°()です。

 

志賀山能満寺は勝本の乗越に在り。

 

 本尊は虚空蔵(こくぞう)菩薩座像で、長さ26p。弘法大師は坐像で、

長さ28pです。祠堂(しどう)の本尊は子持観音座像で、長さ25pです。

 

 客殿210°(未)向きで、梁8.2m・桁9mで、屋根は茅葺きです。

 廊下は1.8m・桁2.7mで、屋根は茅葺きです。

 庫裏は7.2m・桁10mで、屋根は茅葺きです。

 

境内 寺地 縦は22mで、横も同じなり。

 寺産高は六升六合です。

 

風土記に云う、

 当寺は本来比丘尼所で、筑前博多より比丘尼が来て、はじめて寺を造立する。

住居の開山は昌牧比丘尼と其の弟子である昌廓比丘尼で、以上二代にして

比丘尼は相終所也(あいおわるところなり)。

 其の後は比丘尼の寺は空所である故に、神岳山十八世頼弁法印が、肥州の

隆信公の御時に、彼の寺を申し請け、真言宗で開基し(物事のもとを開くこと)、

はじめて寺屋敷の御判を申し請ける者也。其の前は判寺にあらざる所なり。

 右の通り、其の前の比丘尼寺の時より我等が代までの事紛れなきよう、

此の能満寺の由来を、後世のため神岳山の二十世法印である進誉が、

これをしるす所なり。以上は寺記より

 

○浦人は云う、

 むかしは今の寺崎に比丘尼あり。平生は阿弥陀の名号を唱えて日月を送る。

或る時に対馬の国守が、船を此浦につなぎ数日滞留し給故に、旅のつかれを

癒そうと船より揚がり、かなたこなたを歴遊し、彼の比丘尼の庵に腰をかけ給。

其の後は対馬の国主が船を寄られる時、彼の比丘尼が出て安否を窺う。

 其の国主が死(かく)れ給の後、比丘尼は対馬国に渡りて焼香せんことを

こふ。令嗣(れいし・他家の跡継ぎを敬っていう)は感慨(かんがい)して

是をゆるし、白銀を布施(ふせ・僧侶に施し与える金銭や物品)する。

 比丘尼は帰って、其の白銀を以て一寺をいとなみ、対馬国守の

霊牌(れいはい・前対州太守石翁宗虎大居士と諡)を安置する。

 

令嗣はこれを風に聞き、俸銀(ぼうぎん・年俸)を与える。其の文に曰く。

 寛永十三年より、扶持方(ふちかた・扶持給付に関する事柄)を為す、

一年に米三石を遣わす侯間、博多の蔵本に於いて、毎歳右の通り請け取る者也。

 

      寛永十二年十月十三日 押字

           壱岐国勝本   能満寺

 

 志賀山の傍(そば)に移す時に、対馬の国守より白銀十枚賜る。

爾来(じらい・それからのち)山(さんごう・山号)を志賀と号す。

*山号(寺の多くは山にあり、その山の名でよばれたが、平地の寺にも用いた。

 

多門堂は門浦花川坂に在り。 堂主は神皇寺です。

 本尊は立像で、長さ63pです。

 堂は30°()向きで、3.6m四方です。

  寄畠は二畝二十四歩です。

 

荒神は聖母浦にあり。

 小祠は120°()向きです。

 境内は東西4.5m・南北6mである。

 

神明宮は神明坂に在り。

 祭神は天照太神です。

 小祠は東向きです。

 拝殿は3.6m・桁5.4mで、屋根は茅葺きです。

 石鳥居は嘉永元年(1848年)に建てる。

境内の昔の広さは、縦32mで、横14m、周囲70mと風土記に書いてあるが、

今は僅かになっている。

 

荒神は勝本篝屋に在り。

 小祠は北向きです。瓦葺きの上屋(うわや・雨露を防ぐ仮屋根)を建てる。

 境内は、縦4.5mで横3mです。高さは1.2mです。(

 

印鏑大明神 在本浦

 祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇です。

 御殿は330°()向きで、3.3m・桁3.6mです。

 境内は東西28mで、南北13m余です。

 本社(聖母宮)を東に去ること545mです。 石鳥居が建っている。

 当社は聖母宮と同時に勧請かと云える。

 

地命寺(じみょうじ)は地命寺坂に在り。

 本尊は地蔵菩薩の座像で、長さ27pです。

 客殿は315°(戌亥)に向き、庫裡を兼ねる。

 梁は5.4m桁は7.2mで、屋根は瓦葺きです。

 境内

    寺地は縦18mで、横は13mです。

 寄畠は壱畝あり。

 

当寺は神岳山の末寺なり。神岳山帳に云う、勝本浦の地命寺の開基は分からな

い云々。

地命寺の古城跡は、地命寺の項上にありて陣幕に近し。

 風土記に云う、本丸の址は東西33m、南北22m、石垣の外隍(ほり・空堀)

周りは130m、北西(戌亥)に門の跡がある。

 入りは9mで横は3.6mで、其の地たるや東は田地に臨み、南は谷に連なり、

西は浦の住居に境界して、北は陣幕まで続けり。

 本丸より東の道まで32m、南の谷まで65m余り、北東(丑寅)にある浦の

住居まで180m余り、北の陣幕まで34mです。

 寛政年中(1789年〜1801)、中尾氏が本丸の地に移って今に居住せり。

*陣幕を「しんはく」と云うなり。

 

本浦古城址は本浦の頂上をいふ。異賊を領捍(りょうかん・おさえてふせぐ)の

城址なるべし。

 

荒神祠は本浦に在り。

 

 

若宮嶋は可須村の北にあり。

 勝本浦と其の間を海で隔たっているが、向いにあり相対していて近い。

島を若宮と名付けたるは、若宮大明神が鎮座する地だからである。

 ○橘三喜の順見記に云う、若宮大明神、此大神を二字で「にゃく」と訓ずる。

「にゃくぐう」の義也(ぎなり)云々。

 島の東西720m(東はおこう尻・西はこうふり)、南北1,120m(南は若宮の

浜・北は初瀬の和田)、周囲は4.9km、高さは92m(つるべ落し)で、満山に

松樹や雑木が繁茂せり。

 頂上に国守が遠見番を置いて異国船の見張りをさせる。番所に往来する道は

三筋ある。120°()方はおこう尻より420m、165°(巳午)方は若宮浜

より1,090mばかり、240°()方は油め浜より545mばかり。

 亦番所の南に、千把滝といえる松山あり。むかし此所(ここ)に藁を千把

積み置いて放火の用意とする故、此名ありと。

 吉野秀正(箱崎八幡宮の宮司で、続壱岐風土記を書いた人)は云う、

むかしの烽火台は千把たきならむ。

 

若宮大明神は若宮島に在り。 例祭は919日です。

 祭神は仁徳天皇・磐媛(いわれひこ)命・応神天皇・

         仲媛(なかつ)命・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰です。

 御殿は150°()に向きで、は2.1m・桁1.5mで、屋根は板葺きです。

 上屋(うわや・雨露を防ぐ仮屋根)は4.1m・桁3.8mで、屋根は瓦葺きです。

 拝殿は3.6m・桁3.6mで、屋根は瓦葺きです。

 石鳥居が建っている。

 

 東池は東西45m・南北59mである。

 西池は東西22m・南北53mである。

当社は鎮座の年歴(ねんれき・経歴)が分からず。

○永禄田帳に、にゃくの島大明神の周りは神田が有ると云う。

 

妙見宮は同島の妙見本に在り。

 石祠は150°()に向きです。

 

寄神社は同島に在り。

恵美須祠は同所に在り。 小祠は150°()に向きです。

 

 此の島はことに汚穢不浄(おわいふじょう)を忌む(不吉として避ける)。

又一枝一石たりとも、取って島を去ることをいたく嫌わせ給と云う。

故に勝本浦の住居普請の時も、一石といえども持ち去らない。

草木は稀には切る事もあると云う。

 

辰ノ島は若宮島の西にあり。勝本浦を去ること545m余です。

 若宮嶋との間は90m海を隔たる、但し干潮には54m余りです。東西655m、

南北895m、周囲は2,170mばかり、高さは51mです。

 島の西の方に大(でい・大鬼)の踏みほがしと云う、南東()より

北西()に90mばかりの貫通した海水の往来する穴があります。

 

長烏巣島(ながらすしま)

 若宮島の東にあり、其の間の海路は110mばかり也。此の島、東西1,000m

南北370m、周囲は2,750m、高さは91mです。又東の隣に小島・丸山島など

在りといえども、たいした事ない。

 

甑小島(こしきこじま・一名を甑瀬と云う)

 聖母宮の後にあり。経崎を去こと67m余、東西19m、南北17.5m、

周囲は38m、高さ7.8mです。前後左右に瀬が数多くあります。すべて、

これを甑小島といふ。

○古老が伝えて云う、

 むかし百合若大臣が鬼類退治のため当国に渡海した時、植えました姫小松が

彼の嶋にあると云う。然るに近き年に、大風のため落木をしたと云う。

今は小松を植え、それが生えている。

 

寝島(ねしま)

 此の島、長烏巣の南にある櫛山の西にあり。伝えて云う、むかし百合若大臣

がひる寝し給ひし所と。故に此名ありと云う。